第5話 天罰

 吐く息すらも凍るような厳冬の山、雪雲が空を覆い尽くし、日没までまだ時間はあると言うのに既に暗くさらに強い風が雪を大地に叩きつける。当然、辺りに生き物の気配など何もいない。

 否、山の斜面に小さな雪洞が一つ。背嚢で出入り口を戸の様にして塞ぎ、集落の猟師、陣太はじっとその中で蹲っていた。

 外は変わらず猛吹雪に追われ、外に出ようものならものの数分で気が触れるか眠るようにして命を奪われ、やがて春に芽吹く草木になってしまう。


「これも…当然の報いというものなのか。」


 いつ山が晴れるかわからない。眠ることもできず、肩にかけた猟銃をじっと見つめていた。





 時は数刻前、陣太はいつものように狩りに出かけていた。空は晴れ、先日からの降雪により山は一面、真っ白な雪景色となっていた。

 陣太はかんじきを履いて雪の中をひたすら歩いている。辺りに陣太以外に人の気配はない。ただサクサクと彼の歩く音と後方に踏み跡だけが連なっていた。

 ふと、陣太は遠くに見える赤松の森の中で何かが動いたのを察し、身を屈めた。数頭の鹿が雪の下に残る僅かな草木を食みに群れを成していた。

 距離は目測でおよそ三百メートル、十分に弾が届く範囲にある。陣太は猟銃の照門にある表尺を調整した後、片膝と片肘で銃の先台を支えたまま、すっと銃床に肩と頬をつけて狙いを定めた。

 

「…」


 陣太は先の獲物を見据えたまま動けなくなっていた。ただ引き金を引くだけ、その動作ができない。引き金が硬い、あるいは指を引く力が出なかった。

 やがて先に見える鹿の群れの一頭が陣太の気配を察してピィッと高く哭いた。そして群れは一目散に雪崩れるように森の奥へと去っていった。

 陣太はその様子を眺めた後、構えを止めて顔を片手で覆い、乾いた笑みを浮かべた。


「…彼らを撃つ資格など…」


 成り行きがあったとは言え颯のたった一人の身内を殺し、かつて地獄を共に渡り歩いた戦友を殺した己に嫌気がさしていた。その上、気高い存在である颯に人を殺させてしまった。

「私の我儘だ」と言ってくれた颯の言葉に心底救われたが、罪悪感が拭われることはない。


 今日の猟は諦め、山の麓へ戻ろうと踵を返した途端、陣太は冷や汗をかいた。隣の山の頂に暗い雲がかかっていた。風向きからしてこちらの方へ降りてくるだろう。そうすればあっという間にこの山は吹雪に襲われる。陣太の経験がそう告げていた。

麓に降りるまで間に合わない…陣太は近くにある雪の積もった斜面に向かった。





 時は戻り猛吹雪の中、陣太は背嚢から包みを取り出し、干し肉を齧った。寒さでさらに硬くなったそれを口の中で少しずつふやかしながら咀嚼し、持参していた酒を含み、喉奥へと流し込んだ。普段から嗜んでいる酒なのに、最近はめっきり味を感じなくなっていた。ただアルコールが頭を鈍らせ、内側から灯されたかのように身体が暖かくなる。

それでも一時的なものでしかない。やがて身体は冷えて凍えてしまうだろう。

 陣太はうつらうつらと目の前の背嚢を見つめ、やがて意識を遠ざけてしまった。




「─────なに、そんな所で寝てんだ?早く降りるぞ。今日は鴨だ!」 


ふと陣太の耳に懐かしい声が届いた。


「ふふっ…お野菜もたくさん採れたよ?早く降りよっ。」


 声だけではない。目の前がふっと変わっていった。穏やかな日差しと鳥たちが囀り、黄緑の若葉の木々が彩る晩春の山の光景だった。


「茂助…?花…?」


 あの集落で同じ時を生きた幼馴染たちが陣太を呼んでいた。何も変わらない、当時の姿のままで彼の目の前にいる。

陣太自身もあの頃の自分に戻った気がした。

何も背負わず、ただ無垢に友人たちと猟をしていた自分に。


「そうだな…帰ろう…」


 陣太は穏やかな表情でゆっくりと手を伸ばし、戸にしていた背嚢を剥がそうとした。

その瞬間だった。幻影を遮るように、背嚢を除けた白い手が陣太の腕を掴んだ。猛吹雪の向こうから現れた、何重も篠懸を重ねた颯が目の前にいた。


「─────!!」


 全てがぼんやりとしていた陣太に颯の声は届かない。ただ陣太の姿を見て焦りながら何かを訴える颯の表情だけが瞳に映っていた。





 陣太が再び目を開けると薄暗い洞窟の中にいた。

近くに蝋燭が数本灯され、藁と、彼女自身のものだろうか、黒く大きな羽が寝床として敷き詰められており、ほのかに暖かく、身体には篠懸が一枚掛けられていた。


「よう…目が覚めたか。」


 振り向くと颯が横にいた。


「ここは…?」

「私の住処だ。」


 陣太はゆっくりと状況を理解しながら起き上がった。


「まったく…ここに人を迎え入れるのはお前だけだぞ陣太。」

「本当に助かった。よく分かったな。俺があんな所にいたなんて…」


颯は酒の入った瓢箪と包みを持って陣太の横に座った。彼女が包みを開くと、干し肉と燻製肉が並べられていた。時折、陣太が持ってきてくれた物の蓄えだった。

陣太は颯から瓢箪を受け取ると一口飲んだ。陣太の心が落ち着いていく。雪洞の中で飲んだ同じ蒸留酒の筈が身体は味も匂いも取り戻していた。


「お前が猟をしていた時だ。群れの一頭の目を借りていた。お前が撃たずして山を降りるから妙だと思ってな…」


 酒を飲んでいた陣太は俯いた。少しの間、二人の間に沈黙が続く。颯はそんな陣太の横顔を静かに見つめた。

日に日に彼の猟の腕が落ちていることを颯も分かっていた。そして彼女の頭には、陣太の上官、國吉の叫ぶように放っていた言葉が印象に残っていた。


──あの行商女は抱いたのか──


 先に沈黙を破ったのは颯だった。


​「なぁ陣太…私を抱いてみるか?」

「ブフッ!?」


 ​陣太は思わず飲んでいた酒を吹いた。何度も咳き込む姿に颯は苦笑する。

驚愕し、目を見開いたまま颯の顔を見る陣太の顔は酒の酔いも併せて赤くなっている。彼が何かを言う前に、颯は続けた。


​「あの男は言ったな。『人に戻れる訳がない』と。ならば試してみよう。私はこの形だ。人の温もりで、お前が人であることを思い出せるのなら……私は構わん。」  

 

​ それは、彼女なり陣太をこの世に繋ぎとめるための、あまりにも切実な賭けだった。

​陣太ははっと我に返り、激しく首を振る。

「だっ…だ、駄目だ!俺のような血塗れの男が、お前さんのような気高い者をこれ以上汚すなんて。それに…」


​ 同時に、彼の脳裏に過去の光景が稲妻のように過る。


「…俺に深く関わった者は、皆不幸になる」

「不幸になる、とはどういう意味だ?教えてくれ陣太。お前のことを。お前たちはあの地で何を見てきたんだ?」


​ 陣太は、もう何も隠すことはなかった。彼は、まるで懺悔するように、全てを語り始めた。




 

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