第6話 疵痕

「あそこだ、あの竹の間。」

「…ブタか」


 二人の男が山の斜面でじっと息を潜めていた。

山の一帯には、集落の先人たちが筍や竹材のために手入れした竹林がある。鬱蒼と茂り、風が吹くたびに笹の葉がざわめいていた。

その林の中に黒く大きな猪が潜んでいた。彼らは好んで柔らかい笹の上を寝床にし、旬になれば筍を狙って身を潜める。


「外したら頼むな。」

「おう。」


 彼らは猟師だった。片割れが銃を構えるともう一人がゆっくりと猪に悟られないように距離を取った。


ダァン!


 先に構えていた男が引き金を引いた。だが猪は男の気配を察知して動き、銃弾は猪の後ろ脚に当たった。猪は死に物狂いで山を下る。


「陣太っ!」


 男は銃を下ろして叫んだ。


ダァン!


 男の声とほぼ同時に銃声が響いた。

銃声は猪の頭部に当たり、そのまま転がりながら息絶えた。


「…すまん、外した。」


 茂助は唇を曲げ、悔しそうに呟いた。


「気にすんな茂助、こいつはエラかった。」


 彼らは斜面を降り、倒れた猪の元へと向かう。

降りながら茂助は陣太に感心する。

 

「それにしても陣太。おめぇあの状況でよく一発で仕留めんよなぁ…」

「一発しか撃てんからこそ覚悟ができんだよ。」


 陣太は左利きだった。二人は先の戦争以降に払い下げされた単発式の銃を用いて猟をしていた。しかし当時は左利きの銃など存在しない。左で構えると弾の装填に時間がかかる。

その為、猟師の多くは右利きへの矯正を行うが彼はそれをしなかった。弾を込めることを諦め、一撃必殺を心がけていた。やがて陣太は若くして集落一番の腕の猟師になっていた。


 陣太は山刀で竹を割ると谷底で横たわる猪の足を縄で結び、竹に縛られた猪を二人で担いで麓へ降りていく。


「あっ、じんちゃん!もっちゃん!おかえりっ!」

「…ただいま。」

「おお、花!大物やぞ!」


 二人が麓の集落に帰ると花と呼ばれた若い娘が二人に向かって駆けていった。


「おっきな牡丹やねぇ…」


 2人に運ばれた猪を見ておびえる様子もなく、寧ろ興味津々で2人の成果を眺めていた。


「すげぇだろ、今から陣太と解体するで、バラしたら皆に分けてやっとくれ。」

「残りは3人で鍋にしような。」

「んじゃ、支度せんとねっ。」


 花はそう言って家へ戻っていき、再び二人になった途端、茂助が口を開いた。


「なぁ…陣太。それで…お前はどうなんだ。」

「どうって?」

「花だよっ!お前…あ…アイツを嫁にもらう気はあるのかって聞いてんだっ!」


 茂助は顔を赤くしながら陣太に伝えた。


「俺は…花のことが好きだ。お前がねえってんなら…俺がもらうぞ。いいんだな!」

「…好きにしろ、仲人ならやってやる。」


 陣太はそう答えたが声には微かな震えが混じっていた。彼の胸の奥ではちくちくと細かな痛みが刺してくるのを感じていた。

途端、陣太は茂助に頭を叩かれた。頭を擦りながら睨みつけようとした彼の目線には怒っている様にも悲しんでいるようにも見える友の表情があった。


「花はなぁ!お前の返事を待ってんだよ!」





 陣太は幼馴染だった茂助と花以外に友達はいなかった。幼い頃から口数が少なく、口無しとかけて梔子クチナシなんて渾名されては大人子供構わず喧嘩をしていたものだった。

 花はそんな陣太の内面を見抜いていた。実直で気のいい男の子であり、喧嘩も陣太からふっかけることは一度も無かった。

 初めて花が陣太と話したのは麓で山菜採りをしていた時だった。

目当ての場所を横着して茂みの深い場所を通ろうとした時、「止まれ!」と言われて驚いた花が振り向くと彼がいた。


「な…何かあったん?」

「そっちには罠が仕掛けてあんだ。行ったらケガするぞ。」

「そうなんか…おおきにな?」

「山菜か…穴場教えるから付いてきな。」


 そう言われ、陣太のあとを付いていくと麓から少し離れた場所に手付かずの山菜がそこら中に生えていた。


「すごい…こんな仰山の初めて見たわぁ…!」

「…他の奴らには教えんなよ。」

「ウチにはええの?」

「さっきの…お詫びやから…」

「うんっ!おおきになっ、じんちゃん!」

「じっ…!?」


 初めて呼ばれた渾名、それも同じ年頃の女の子に言われた陣太は狼狽えた。それからというもの、花と陣太は山菜採りに加え、山や川で遊ぶのが日課になっていた。

その頃には陣太はもう彼女に惹かれていた。






 茂助の本音に陣太は思わず目を背け、花の住む家を見つめていた。


「…俺よりお前と居たほうがアイツは幸せだ。」


 陣太と茂助は父親どうしが猟をしていた繋がりで幼い頃から見知った仲だった。やがて二人組で猟をすると集落の辺りで田畑が荒らされることがなくなり、皆が彼らを認めた。

 そして茂助は陣太と対照的だった。友好的で誰とでも打ち解け合え、集落の誰もが彼を気に入っていた。花の両親でさえ茂助に「嫁にもらってくれ」と言う程であった。


「親のことなんて気にすんなよ…大事なんはお前がどう思ってるかだろ?」

「俺は梔子だからな、つまらない男だ。アイツをずっと幸せにしてやれる自信がない…」


 陣太は自嘲気味に呟き、茂助の肩を叩いた。


「お前が花を幸せにしてやってくれ。」


 その後、花は茂助の下に嫁いだ。陣太はその晴れ舞台を笑って見届けた後、夜更けに集落から去った。

彼は花の喪失と己の矮小さに耐えられなかった。

 そして時は過ぎ、世の中の情勢が慌ただしくなってきた頃。陣太は北の寒い大地。旅順にいた。

彼は逃げるように集落を去った後、金沢の第九師団に入隊し、第35連隊に所属していた。

野営地の中では先遣隊の噂で持ちきりだった。


「なぁ聞いたか?第六の連隊長の話…」

「ああ、蜂の巣にされちまったんだってな…あんな死に方はしたくねぇもんだ。」


 陣太は集落から持ち込んだ干し肉を少し噛みちぎっては黙って戦友たちの話を聞いていた。その彼の右肩には連発式の最新の銃が掛けられている。

 あれから何人、獣に代わり人を殺めてきたのだろうか?最初こそ、人に向けて銃を構えることすら躊躇していたが敵兵を一人殺めてからは箍が外れたかのように人を撃っていた。

迷えば自分も仲間も殺される。ただ、殺めるなら相手を苦しませず。それだけが最後の良心として頭の隅に残り、只管、敵兵の急所を狙っていた。


「…陣太か?」


 ふと上から自分の名を呼ぶ懐かしい声が掛かり、はっとして頭を上げるとそこにいたのはかつての親友だった。


「も…茂助…?」


 友の再会で感じたのは喜びではなく怒りだった。陣太は咄嗟に茂助の胸ぐらを掴んだ。同時に茂助も同じ事をしていた。


 「て…てめェ!何でこんなとこにッ!!花はどうした!!」

 「それはこっちの台詞じゃボケッ!!花がどれだけ心配したと思ってんだッ!!」

 「止めろ榊ッ!廣瀬ッ!」


 周りの戦友に羽交い締めにされ引き離された後、共に上官に顔を殴られ事は収まった。


「…そうか、お前たちは同郷だったのだな。」


宿営の中、痣を作った二人の前に上官が立っていた。


「泣ける話じゃあないか。蒸発した親友を追ってこんなとこまで来たんだろ?友は大切にしろよ、榊。」

「…はい。」

「よし、廣瀬と共に行動することを許す。こんな地獄だ。見知った仲といる方が生き残れるだろう。」

「ありがとうございます…國吉伍長。」

「ハッ…今日をもって俺は軍曹だ。上も下も虫ケラのように死んでいくからな。ああ、そういや先の戦闘でお前も上等兵扱いになったぞ榊。お祝いする暇もないがな。」


 國吉はそう言って宿営から出た。


「お前…もう上等なのか。」

「たまたま適性があっただけだ。上がいたから保留されてたがな。そいつが先ので死んじまった。」

「…この戦が終わったらさっさと戻らねぇとな陣太。花…泣いていたんだぞ。」

「…すまん。」


 しかし、茂助の思い通りにはならなかった。戦況は次第に激化していった。夜襲をかけては壊滅的な被害を受けつつ、塹壕戦でも血みどろの交戦を続けながら敵の堡塁を攻略していった。そして一月ほど経ったある日。


「なんだこりゃ…襷?」

「俺たちの隊は今晩奇襲をかけるそうだ。それは敵味方の区別なんだと。」

「…的の間違いじゃねぇのか?」

「違ぇねぇ。」


 陣太は嘲笑いつつも茂助を案じていた。この無謀とも言える作戦に自分はともかく茂助を失う訳にはいかない。花を未亡人にさせたくない。その一心が彼に愚かな決断をさせた。

 作戦実行中の夜分、敵地への工作中に襲撃された。後方にいた陣太と茂助の隊も敵の探照灯に晒された。

その一瞬を、陣太を鬼へと変えた。光に晒されながらも前進する茂助の脚を狙った。

戦線に立つ以前、教育課程で矯正された右利きでなく左で銃を構えていた。


タァン!


『一発しか撃てんからこそ覚悟ができる』かつて友に語った言葉が、呪いのように脳裏をよぎっていた。

 夜更け、撤収の命令とともに陣太は痛みに叫ぶ茂助の口に襷を噛ませ、引き摺りながら帰還した。野戦病院に戻る頃には夜が明けていた。


「へへ…ザマぁねぇな。」

「…弾は抜けているそうだ。これで堂々と集落に帰れんな。」

「お前はどうすんだ?」

「ここは別の部隊が仕切るそうだ。俺たちは次の所へ向かうんだとさ。まぁその頃には俺も任期満了だから来年の夏までには戻れんだろ。」


茂助は陣太を見つめた。


「…死ぬなよ?」

「隊で俺がなんて呼ばれてたか知ってるか?“明治の善住坊”だとさ。生き延びてやるよ。」

「ははっ…梔子がとんだ大出世だな。」

「減らず口が叩けるなら大丈夫だな。」


 二人はそのまま硬い握手をした後、茂助が内地へ戻るところを見送った。





 陣太が集落に戻れたのは翌年の夏だった。変わらず懐かしい景色とは一転、人の気配が昔よりも少ない。


「陣太か?」


声に振り向くと集落の長がいた。


「長…。これは一体…皆はどうしたんですか?」


長は少し沈黙したあと、重い口を開いた。


「お前ぇさんと茂助が村から出てった後だ。労咳が蔓延してな…若ぇもんから年寄りまでバタバタ倒れちまった。その原因が…花の母親だったんだ。」


 花の母親は女工だった。峠を越えた街で勤めていたがそこから罹患したらしい。


「おばさんが…じ、じゃあ…花は!」

「花は…その労咳で亡くなっちまった。」


 陣太はその場で尻もちをついた。小さい頃からの彼女の顔が頭の中で巡っていき、涙が溢れ始めてきた。


「そ…そうだ!も、茂助は…アイツに会ってやらねぇと…!」

「お前ぇさん…電報を読んでねぇのか?茂助は新年早々に亡くなったぞ?」

「……は?」

「脚の傷の治りが悪くてな…そのまま熱にもやられちまった…」


 陣太の視界が歪んだ。頭が何も追いつかなかった。長の言葉もそれ以降理解ができなかった。

 重い足取りで花と茂助の家へと赴いたが家は燃やされ、焼け残った木材だけが残されていた。

 陣太は悪い酒でも飲んだかのように家の前で嘔吐し、泥にまみれて慟哭した。胃の中身をすべて吐き出しても、胸の内にこびりついた鉛のような重みは消えない。

 花も、茂助も、守りたかったものは何一つ残っていなかった。ただ、見慣れた故郷の山だけが、昔と変わらぬ無慈悲な表情で、愚かな自分を見下ろして鎮座していた。

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