第2話 異変
淡い色をした山々がすっかりと緑に移り変わり、蝉たちの声が聞こえ始めた頃。天狗は石の上で胡座をかいて、じっと目を閉じていた。
彼女の瞼の裏は暗闇ではない。山に住むあらゆる獣や鳥たちが見ている景色を映していた。何百といる山の生き物の景色を処理できるのは天狗の為せる業であろう。
天狗が陣太と掟を交わして一年が過ぎた。
天狗は最初の頃こそ、獣たちの目を通して陣太の立ち振る舞いを監視していたが、いつしかそれは彼への純粋な興味へと変わっていった。
陣太が掟を破ることは一度もなかった。
獣たちを極力苦しませないように、正確に致命傷となる部位を撃つ彼の腕前は確かで、息絶えた獣の前には必ず手を合わせていた。
獲物が二頭を超える場合は、血抜きをした後、肉の腐敗を遅らせるためだろうか、一度沢まで運んで獣を沈めた。
集落の者たちには、獲物を無闇に傷つけないよう配慮させながら運ばせていた。
彼には獣たちへの敬意と慈しみがあった。
天狗は気を良くし、ゆっくりと目を開けた。
「今は…この問題だな。」
彼女が視界には枯れ木に覆われた一帯が広がっていた。楢や樗の木々が枯れ、夏だというのに葉は赤く染まっている。
それらの木の幹には必ず、無数の穴が穿たれ、地面に木屑が散乱していた。
天狗は枯れた木に手を添え、小さく呟いた。
「許せ…」
すると木は急激に朽ち果て、枝が自重に耐えきれずに落ちた。
彼女がそのまま木を押すと、大きな楢の木は草花の茎のように呆気なく折れ、大きな音を立てて倒れた。
「こうなっては…助からない。」
天狗は倒木を哀れむように見つめた。
この季節になると決まって、一部の樹木が病に侵された。何度天狗が穿たれた傷を塞ぎ、水を与えても木々は渇きを訴え、やがて枯れる奇病に冒されている。
天狗にはこの病を治す術がなかった。
できることは進行を遅らせ、枯れた木の最期を看取ることだけだった。
これ以上、山を痩せさせたくない。天狗は考えた。
ふと、頭によぎったのはあの時の猟師、陣太だった。久しく、自身と同じ信念を持つ人間。
山を、自然を、生命を重んじる彼なら…あるいは。
「人の知恵…というのも頼ってみるものなのか。」
とはいえ、やすやすと人間に助けを請うのも癪に障った。
まずはこの目で、彼が本当に信ずるに値するか、今一度、確かめてもいいだろう。
天狗は口角を少し上げて笑い、その姿を旋風と共に消した。
ある日の午前、集落は妙な賑わいを見せた。
この集落では月に数回ほど行商が訪れ商いをするが若い女性の行商は稀だった。
女行商は広場で背負子から取り出した風呂敷を広げ様々なものを集落の皆に見せた。
紅や白粉、ちり紙や着物など、集落にとって貴重で珍しいものを集落の女たちは喜び、物色していた。
男たちは彼女に見惚れていた。
年は20歳後半ほどで、女性にしては背が高く、美しい顔立ちに菩薩のような笑顔。大きな笠を被り、歩き巫女にも見える衣装だが、背負っていた大きな背負子が、紛れもなく彼女が行商であることを示している。
ある程度の商いを終えた彼女は男たちに問いかけた。
「この集落に…猟師様はいらっしゃいますか?」
集落の男たちは我先にと案内した。
集落からさらに一里程、離れた先にあるこの集落でただ一人の猟師、陣太の家だ。
男たちは、獣の血肉の臭いを避けるため、陣太が望んで集落から離れた場所に住んでいるのだと説明した。
そして男たちは彼女を案内するや逃げる様に去っていった。
行商は男たちに構わず戸を叩いた。
「もし…猟師様のお家でしょうか?」
戸が引かれ陣太が現れた。
「若い行商とは珍しいな。目当ては…干し肉か?」
「はい、鹿や猪、狢があれば、お売りいただきたく…」
「…少し待っていてくれ」
陣太は行商を玄関に座らせ、奥の部屋へと向かっていった。
行商は笠を取り、部屋を見回した。
集落の家の大半は藁葺き屋根と土壁でできた質素な造りの家が多かった。
彼の家屋はさらにこぢんまりとしており、居間の囲炉裏と寝床、少し離れた所に流し場があるだけの必要最低限の造りだった。
加えて微かに獣の死臭が漂った。裏の畑などに獣たちの骨や腑を埋めているのだろう。
居間の壁には黒光りした鉄の塊、彼の猟銃が立てかけられていた。
「待たせたな。」
しばらくして、陣太は干し肉が入った包みを持っていき、玄関に座る行商を見据えた。
陣太は集落の男たちのように見惚れることはなかった。
美しい顔立ちや立ち振る舞いの奥に、人とは異質な、まるで山そのもののような深く静かな気配を感じ取っていた。
そしてごく微かに、しかし確かに山の土や獣たちの匂いを漂わせていた。
陣太は確信を持って、静かに口を開いた。
「それで…俺に何の用だ、天狗さん。」
思わず行商は目を見開いた後、すぐに凛とした表情に変えた。
「…カマを掛けたのだとしたら大した奴だな、陣太。」
「この集落で若い女の行商など見たことがない。そして何より、山の土の匂いがわずかにした。」
天狗は観念した様子で立ち上がった。
「少し…込み入った話でな。一晩、宿を頼めるか?」
「構わんよ。素面で話にくいことなら酒も肉もある。」
猟師はそのまま天狗を居間へ案内した。天狗はくつくつ笑って返した。
「そりゃあいい。私は酒も干し肉も大好物だ。」
日没前、集落の長は客人として自分の館の部屋を勧めたものの、天狗は首を横に振った。
「いいえ、余所者の私にはもったいないお言葉でございます。それに…」
天狗は陣太に一瞥をくれた。
彼女は陣太の家に向かう途中、彼の身の上話を集落の男たちから聞いていた。
彼はずっと北にある遠い異国との大きな戦いに参加し、無事に帰還した兵隊の一人とのことだった。
「彼が兵隊様というのなら、なおのこと…私のような非力な女性にとって、頼もしいお方ではありませんか。」
彼女の説得に陣太は苦笑した。集落の長は残念がり、しっかり饗すように陣太に言いつけた。
日がすっかり沈み、月が高く昇る時分。家の辺りでは蛙と虫の鳴き声で賑わっていた。
陣太と天狗は囲炉裏の前で隣り合い、干し肉を肴にして杯を酌み交わしていた。
「…ふぅ、いい酒だ。この肉もよく処理されている。」
彼女は豪快に酒を飲み、干し肉を歯で毟るように食んでいた。
「私は人間をよく思わないが、お前たちが作り上げたものには興味がある。酒や干し肉、これらは獣たちは真似することはできない。お前たちの誇るべき知恵だ。」
姿こそ昼間に見た行商のままだが、今の立ち振る舞いを集落の男たちが見ればひっくり返るだろう。
陣太はそう思いながら興味本位で天狗に聞いた。
「天狗も、味の良し悪しはわかるものなのか?」
「当たり前だ。昔、山から追い出した賊や、破落戸どもから掻っ攫った肉は酷かったな。血生臭いわ毛は付いているわで食えたものではない。」
天狗は杯を置くと姿勢を正した。
「さて…本題に入ろうか。」
天狗は山の異変について説明した。山の奇病のこと。木にとって不治の病であること。そして今や他の木にも伝染し始めており、あまり猶予がないこと。
陣太は彼女の話をすべて聞き一考したあと答えた。
「ナラ枯れというやつだな」
初めて聞く名に天狗は目を向けた
「…ナラ枯れ?」
陣太は続けた。木の中に虫が入り込み、食い荒らすことで水が全体に行き届かなくなり、やがて枯れる病であると。対処には中にいる虫を殺すしかない。
やがて陣太は疑問が一つ生まれ、天狗に問いた。
「お前さんは山の神だろう、治せないのか?」
天狗は呆れた表情で言い返す。
「私が神など一度も言ったか?」
陣太は返す言葉がない。集落の皆、特に高齢の者たちが呼んでいるだけだった。
天狗は話を続けながら、袖から煙管入れを取り出した。慣れた手つきで刻み煙草を丸め火皿に詰める。
「私ができることは山に生きる者に命を分け与えることだ。あとは山に生きる者たちの力を借りたり、空を飛ぶことくらいだな。」
天狗は囲炉裏の火を借り、紫煙を燻らせる。煙管を吸う姿は何処か様になっていた。
彼女は紫煙を吐き出し、陣太をじっと見つめた。
「神や仏などと、強大なものや手に負えないものを大袈裟に祭り上げるのが人間の業だな。強いて言えばな、私は山の命を司る大鴉の化身だ。」
そう言うと彼女は火皿を逆さにし、燃え尽きた煙草を囲炉裏の中へ落とした。
「それにしても虫の仕業とはな、知らなんだ…」
片手で頭を抱える天狗を横目に陣太は熟考した。
枯れた木を倒すのは正しい。だがそのままでは木の中の虫たちは生きたままだ。そしてまだ被害の及んでいない木を救うにはどうすればいいか。
ある一つの考えが浮かんだ。だがそれはあまりに絵空事で、人では不可能な所業。
しかし、彼女なら…
「天狗さん、俺に一つ提案があるんだが…」
夜明け前、霧深く、薄暗い山の中を陣太と天狗は登っていた。自分たちの庭のように山を知り尽くした二人は飄々と目的地へと駆けていく。そして集落から十何里も離れた山の尾根へと移った。
「この辺でいいか。これを持って離れていろ。」
天狗は袖から煙管入れを取り、陣太に渡した。
彼女は両袖から腕を抜き、諸肌を脱いだ。
前半身は前掛けで覆い、白い背が顕になっている。
「すうっ…」
天狗は一呼吸すると、背から生えている小さな翼がみるみるうちに大きくなり、さっと広がった。
羽が舞い、薄暗い闇の中でも見えるほど黒く大きな翼に陣太は感嘆した。
「…ふん、行商の姿は色々と窮屈でいかんな。」
天狗は大きく跳躍すると、翼を数度羽ばたかせ、瞬く間に空高く上昇していった。辺りに一陣の風が吹き、枯れ落ちた葉や枝が飛び、木々が大きくざわめいていた。
天狗は上空で風切羽を傾け、風を掴むように滑翔した。周囲を見渡した後、遠くを見つめて唱えた。
『来たれ』
そして天狗は尾根の方へ急降下し、直前で再度、翼を羽ばたかせて舞い降りた。
「どうだ?」
陣太の問いかけに天狗は翼を収めながら答える。
「来る、必ず。多少時間はかかるだろうがな。」
日が昇り始め、集落の杣人が仕事に向かう途中、森の中から奇妙な音を聞いた。
「こりゃあ、不思議な…」
コツッ…コツッ…
啄木鳥が木を小突く音が響いた。それも一羽だけでない。
コツッ…コツッ…コツッ…コツッ…
何十羽、いや何百羽もの啄木鳥たちが、森の至る所からこの山を目指すように集い、病んだ楢や樗の木に群がっては木を小突き、中の虫を啄んでいた。
無数の嘴が奏でる音は、山の再生を告げる喝采のように響き渡っていた。それは森全体が生命の鼓動を取り戻したかのような、荘厳な賛美歌だった。
やがて、啄木鳥たちが奏でる森の賛美歌が、次第に遠のいていった。
夜明けの光が山々を金色に染め上げ、山の霧が少しずつ上空へ立ち昇っていく。
二人がいる尾根には静寂と澄んだ空気が満ちていた。
眼下に広がる光景を眺めていた陣太は、隣に座る横顔に静かに語りかけた。
「枯れた木は、これから杣人たちに活用してもらうよう伝える。薪や炭にすれば、誰一人無駄にはしないからな」
「…礼を言う。」
天狗は短く答えると、再び煙管に口をつけた。細く立ち上る紫煙が、朝の光に溶けて消えた。
「人間の知恵も侮れんものだな。」
「こんな案ができたのも、お前さんの力があったからこそだ。俺たち人間だけでは到底できることじゃない。」
陣太がそう言うと、天狗の肩がかすかに揺れた。
彼女はゆっくりと煙管を口から離し、吐き出した煙の行方を目で追っている。何かを考えるような、長い沈黙が流れた。
やがて、天狗は陣太の方へと顔を向けた。陣太は、思わず息をのんだ。
行商として集落で見せた菩薩の作り笑いではない。
山で初めて出会った時の、険しく凛とした表情でもない。
まるで、厳冬の山の雪が春の陽光に解けるように。硬く閉ざされていた花の蕾が、静かにほころぶように。
山の厳しさだけを映していた黒い瞳に、今見ている夜明けの空のような穏やかな光が宿っていた。
強張っていた口元が、ごくわずかに綻んでいる。
それは、彼女が初めて見せた素顔だった。
彼女は、その穏やかな眼差しのまま、持っていた煙管の口元をそっと陣太に差し出した。
「
沢のせせらぎのように、静かで柔らかな声が響いた。
「私のことは…颯と呼べ。」
陣太は差し出された煙管を、何かに導かれるように受け取った。
まだ温もりが残る羅宇が、彼の手にしっくりと馴染む。
ゆっくりと口に含み、残っていた煙を吸い込むと、煙草の香ばしい匂いの中に、ふわりと山の若葉のような彼女自身の香りが混じっている気がした。
陣太は空へ向かって静かに煙を吐き出した。
隣に立つ彼女はもう集落の皆が山の神として畏怖する存在ではない。
ただ一人の大鴉の化身、颯という存在としてただそこにいた。
二人の間にそれ以上の言葉はなかったが、夜明けの山頂には、確かに新しい絆が生まれていた。
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