山には山の、人には人の
@take_ur_time
第1話 邂逅
吐く息が白く染まる、夜明け前の深山。薄暗い森の中に一つの影が動いていた。
山の麓のとある一集落の猟師、陣太は肌を刺す冷気にも慣れた様子で、音もなく木々の間を進んでいた。背負った猟銃の冷たい重みが、彼の生業を静かに物語る。
苔むした岩を回り込み、沢筋に出たところで、彼の動きがピタリと止まった。朝靄の向こうに、求めるものの姿があった。
それは立派な角を天に掲げた雄鹿だった。しなやかに首を垂らし、水を飲むその姿は、凛として美しい。
陣太は静かに膝をつき、銃を構えた。頬にひんやりと冷たい木の感触を受けながら、照星と照門の先にいる鹿の首筋を捉える。
息を吸い、ゆっくりと吐きながら引き金に指をかけるその刹那、気配を感じ取ったのか、あるいは偶然か鹿がふと顔を上げ、黒いつぶらな瞳で真っ直ぐに陣太を射抜いた。
その目には怯える色がなく、ただ静かに陣太を見つめていた。その目が彼の心の奥を見透かされたような気がした。
(「俺を見るな…」)
陣太は引き金にかかった指を、ほんの一瞬ためらった。それに気づいたのか鹿は即座に身体を返し逃げようとした。
タァン!
陣太は慌てて生き金を引いた。乾いた銃声が山に木霊し、鹿は悲鳴のような声をあげ、一目散に藪の中へ消えていった。弾は後ろ腿に当たり、致命傷には至らなかった。
「っ…」
陣太は歯を食いしばり、苦悶に満ちた声を漏らし、森の奥へと逃げていく鹿の血や足跡を追った。
「はぁっ…はぁっ…」
分け入るほどに、山の様相が変わっていった。
踏み慣れた獣道は消え、まるで人払いの結界にでも足を踏み入れたかのような、全身が鉛になったかのような圧迫感が彼を襲う。
ここは、集落の者、特に高齢の者達が「入ってはならぬ」と口を酸っぱくして語る、山の神が棲まうという聖域だった。
倒木を乗り越えた先、開けた場所で鹿が倒れていた。鹿は荒い息を繰り返し、その美しい瞳からは光が消えかけている。
陣太は静かに膝をつき、腰の得物に手をかけた。一刻も早く。それが己にできる唯一の償いだった。
刃を振り上げようとした、その時。
『平伏せ』
上から言葉が降り注いだ。それは音として耳に届くより早く、意思そのものが陣太の脳髄を揺さぶるかのようだった。見えざる力に全身を叩きつけられ、陣太は地面に縫い付けられる。土の匂いが鼻をつき、身じろぎ一つできない。
恐る恐る上げた視線の先に、その存在は立っていた。
山伏の装束を身に纏い、黒よりも黒く、光を吸い込む闇そのものを集めて織ったような鴉の大翼を背に持っている。
(「天狗…なのか?」)
美しい人の女と見紛うほど妙齢な顔立ちに、千年を生きた古木のごとき冷徹な眼差し。
山そのものが怒っているかのような、息もできない威圧感を纏っていた。
「意地汚い猟師が…」
彼女は地面に這いつくばる陣太には目もくれず、静かに鹿へと歩み寄る。
その白く細い指が、苦しむ獣の額にそっと触れた。
すると、あれほど苦しんでいた鹿の体がすっと弛緩し、まるで深い眠りに落ちるかのように、安らかに息を引き取った。
その一挙手一投足が、彼には御伽噺の一場面のように見えた。
やがて身体の自由を取り戻すと、彼はゆっくりと立ち上がり、まず鹿の亡骸に向かって深く頭を下げた。
「すまない…」
その呟きは、誰に聞かせるでもない、心からの鹿への謝罪だった。
そして彼は、真っ直ぐに彼女へ向き直り、再び深く頭を下げた。
「感謝する…」
彼の行動と言葉に天狗は驚き、立ち止まった。
何百年もこの山で様々な猟師を見てきたが彼らは奪うか、怖れるか、あるいは利用しようとするだけだった。
命を奪った獣に詫び、あまつさえ己を認識し礼を言う人間など何十年ぶりだろうか、長年凍てついていた人間への不信が、音を立ててひび割れた。
天狗は初めて、目の前の猟師をただの人間ではなく、陣太という一個の存在として認識した。
「久しいな、お前のような猟師は。」
天狗は先程のような威圧を収め、落ち着いた表情で陣太に語る。彼女は石の上に座り、陣太を眺めていた。
改めて人を眺めるのは久しい。月日が経つほどに人の形や服装が変わっていく様を、彼女は見てきたが何の興味も示さなかった。
「俺も…初めてだ。」
陣太は問いかけた。伝説や御伽噺でしか見聞きできない高次な存在である天狗がどうして自分の前に現れたのかと。
天狗は頬杖をついて答えた。
「我慢ならなかっただけだ。お前たち猟師の最近の所業は目に余るものがある。」
ただ獣達を屠り、食べる為に肉を削がず、手柄として角や尻尾を切り取っては谷底に突き落とし、それを他所に自慢したり、茶飲み話にする猟師の様を彼女は見てきた。
「お前がたまたま得物を持っていたからな。同じことをするものだと思っていた。アテは外れたがな。」
陣太は複雑な表情を浮かべた。かつて、自分もそうであったがある時を境に必要以上の狩りができなくなっていた。
「俺も、最初はそうだった…血を抜いてもいいか?」
それ以上の話を遮るように陣太は横たわる鹿の脚を縄で縛り木に吊るした。天狗は何も言わない。
彼女を一瞥した後、彼は得物を持ち直し、鹿の首を掻き切って血を抜き始めた。吊り下げた鹿の真下が赤茶色に染まる。
「獣達への情けか?殊勝な事だな。」
天狗は彼の作業を眺めながら問いかける。
すっかり血抜きが終わり、陣太は鹿を頭陀袋の中へ詰めた。立派な角が袋の口から飛び出ている。
「…贖罪だ。」
陣太は頭陀袋と銃を背負い身支度を整えた。
「だが…獣を狩らないのも問題だ。」
陣太は天狗に説明した。狼や野犬だけでは草食獣の数は減らせない。特に鹿は気づけばネズミ算で増えていく。
そうすれば今度は集落や村の畑にも被害が及ぶ。天狗が嫌う猟師たちも必要悪ではあると。
「はっ…立派な大義だな。」
天狗は嘲笑した。
「違う、重要なのは山の均衡だ。」
陣太は真っ直ぐな目で天狗を見た。
天狗は「ほぉ…」と感心した表情で返していた。
「こうしないか?お前さんの山で獣を狩るのは一日五頭まで、仔は追わないと」
天狗は一考した。闇雲に獣を狙われるよりは幾分かましではある。人に獣を狩るお墨付きを与えるのは癪ではあるが彼のような稀有な猟師が言うのなら半ば信じられる。
「いいだろう、その提案に乗ってやろう。私とお前、山と人、初めての掟だ。裏切るなよ人間。」
「…陣太だ。」
陣太は軽く会釈し、山を降りた。
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