第2幕 時花神(5)
古道具屋を出たあと、愁水は五芒星の中心にある祠へと向かい、そこで菓子屋の娘たちが〈犬神〉に襲われているところに出くわした。
そのとき、とっさに利き手を突き出したのだ――などとは、嗣巳には口が裂けても言えなかった。
「どうもしねえよ。ちっと
「お前……絵師が利き手を怪我して、どうする」
愁水はさらなる〈お小言〉を予期して身構えたが、嗣巳は考え込む素振りを見せただけで、それ以上追及してこなかった。
もっとも愁水のほうも、嗣巳に問うことはない。
素直に答えるとは思えない、というのが主な理由だが、必要であれば、そのうち共有するだろうとも思っている。
――今まで、それで上手く回っていたのだ。
夜遅くまで作業に没頭していた愁水は、ふと、行灯の灯りで障子に照らされた〈獣の首〉に気づいて、木刀を手に立ち上がった。
上段に構え、障子を突き破って向かってきた犬の首に木刀を振り下ろす。
派手な音を立てて壁に激突した首は、すぐにまた愁水に牙を
脇差しを抜くか、否か。
愁水が次の動作に移るまえに、片足に激痛が走り、体勢が崩れた。その隙に、犬神の牙が愁水の首を狙う。
愁水が膝をついたまま片手で抜刀し、逆袈裟斬り――にしようとしたところで、鵺の牙が犬神を捕えた。
犬神の首が搔き消え、
血は、鵺の身体から流れていた。四散した部位が揃わないまま、鵺の姿で
「……無茶しやがる」
愁水は舌打ちしたが、化物に対しては防戦一方となるのだから、こういった時は嗣巳任せにするしかない。
「愁水……お前、いつ〈呪われた〉?」
「呪いって、この足のことか? 全く記憶にねえんだが」
痛んだ足を見れば、何度も見た青黒い噛み痕があった。
「まあ、知らないうちに恨みを買うこともあるだろ。お前こそ、その足は何だよ」
嗣巳の足にもまた、噛み痕があるのを愁水は見逃さなかった。
「おい、人間の姿に戻れよ。手当てできねえだろ。……まったく、二人揃って、何やってんだかな」
思わず、乾いた笑みが漏れる。それに対して、鵺の姿でいる嗣巳の表情は読みにくいが、その声には憂いの色があった。
「――人間などと、安易に関わるのではなかったな」
「いや、それは……」
違うだろ、と言いかけたが、記憶がない愁水には、納得のいく言葉が見つからない。
人との繋がりがわからないのは、むしろ愁水のほうだ。
「お前が呪われるとわかっていたら、面倒な方法など取るのではなかったな。祈願者を炙り出して、食い殺してやる。……それで、
「おいおい、嘘だろ」
――鵺は、人を喰うのか。
喰ったことがなかったとしても、いまの嗣巳は喰いかねない気がした。
「……この足で、夜の市中を走れってか?」
なぜ呪いに巻き込まれたのかはわからないが、祠で菓子屋の娘たちに会ったことを、嗣巳は知らない。
――先回りできるか?
例え闇雲でも、空を飛び、嗅覚に優れた嗣巳ならば、菓子屋の娘たちに辿り着くかもしれない。
出来るかどうかではなく、やらなければならない。
――絶対に喰うなよ、嗣巳。
愁水は黒の長羽織に腕を通し、庵を飛び出した。
*
「ここよ、こはる」
夕暮れが近づく頃、かさねに手を引かれるまま、こはるは〈本元〉だという祠を訪れた。
「これでよし」
かさねが顔を上げて、走り寄ってくる。
その背後で、祠の戸が開いた。
「――え」
黒い影が、かさねの背後に現れる。水を介さずに化物を視るのは初めてで、こはるは警告の声すら上げられなかった。
硬直しているこはるの脇を、誰かが走り抜けていく。
背の高い総髪の男が、かさねの肩を引き寄せ、庇うように左腕を突き出していた。
その腕に、首だけの獣が食らいついている。男は構わず、懐から取り出した札を飛ばした。
紙切れ一枚が、刃物のような鋭さで祠の中に飛んでいく。獣の首は札を追って、祠に入った。
すかさず、男が戸を閉めて、新たに札を貼る。その札には、〈鵺代神社〉とあった。
「もう、ここには近づくな。流行神のなかには、祟り神もいる。ここで祀られているのは、悲惨な殺され方をした犬神だ」
男――愁水がかさねを
「あんたの店の近くにあるのは、犬神を使役して栄えた一族の、分家の祠だ。犬神は血筋に憑くが、その血が絶えれば外に出ちまう」
だから、犬神の魂を六つに分けて、祀ったのだ。こはるが慈しんだのは、そのうちの一つだった――。
それでも、こはるは犬神の姿が一時でも、白く清らかに輝いたのを知っている。
「その子、助けてあげられませんか」
気づけば、こはるは愁水の袖を掴んでいた。
「あんた、まさか――」
「嗣巳さまには、言わないで」
こはるの震える手を見下ろして、愁水はなぜか笑った。
「おう、約束する。あんたがもし、こいつを本気で助けてえと思うなら……正しいと思う願いをして、終わらせてやれ」
――正しいと、思う?
それって、と問いかけようとしたとき、かさねが悲鳴をあげた。遅れて、愁水の怪我に気づいたらしい。
「ごめんなさいっ、絵師さまの腕が……」
「利き手じゃねえから、気にすんな。それより、送ってやるから早く行こうぜ」
愁水に促され、こはるとかさねはまとめて店に送られた。
「――ねえ、こはる」
夕闇に紛れて、かさねの顔はよく見えなかったが、その声は尋常にない熱を孕んでいた。
「あたし、あの人が欲しい」
「だから、人はものじゃないって……」
こはるはまともに取り合わなかったが、その夜、かさねは酷い熱を出して倒れた。
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