第2幕 時花神(1)
一時の華として、やがて
*
――また、来たわね。
男が近づくにつれ、こはるの背筋に緊張が走った。
両親の営む菓子屋で、こはるが職人として店に立つようになって、早一月。
最初にこはるの未熟な菓子を買い、
麗しい神主に化けたそれは、旨いと評判の父ではなく、常に売れ残ってしまうこはるの菓子ばかりを買っていく。
一度、恐る恐る理由を尋ねてみたところ、「気合いが入りすぎていて面白い」と、よくわからない答えが返ってきた。
確かに、肩に余計な力が入るのか、造形が少し
「いつもありがとうございます、神主さま」
そう言って、三日と空けずにやってくる奇妙な常連に、淡々と品物を渡す。
本当は、
嗣巳――鳥の
こはるは頭を下げつつ、早朝の雨でできた水溜まりを、こっそりと横目で見た。
嗣巳の足元に、
絵でしか見たことはないが、
これが、この男の正体なのだ。
こはるは気づかれないように、両手を握り合わせた。
こはるは昔から、〈水〉を介して奇妙なモノを視る。
それが化物の正体を映しているのだと、早い段階で悟ったこはるは、騒がず、視えないふりをしてやり過ごしてきた。
化物は、そこらじゅうに居る。けれど、視えていると気づかれなければ、向こうもまたこちらを視ないのだ。
「――また、徹夜でもしましたか?」
はっと顔を上げると、いつもは世間話などせずに去っていく嗣巳が、こはるを振り返っていた。
言われたことを
そんなに、やつれて見えるのだろうか。
化物相手とはいえ、それは初恋もまだないこはるの自尊心を、著しく傷つける言葉だった。
「うちにも、徹夜をするのが居りまして。いつか倒れてしまうぞと言っても、聞きやしない――のは、貴女も一緒なんでしょうね」
お身体に気をつけて、と最後は儀礼的な言葉で締めくくって、嗣巳が背を向ける。
「あ……」
――貴方も、お気をつけて。
たったそれだけの言葉を、こはるはいつも言い逃してしまう。
怯えているわけではない。化物とはいえ、常連ともなれば多少の情は湧く。
ではなぜ、と考える間もなく、嗣巳の前を、鮮やかな小袖が遮った。
「神主さま、この間は父がお世話になりました。化物除けのお札、本当によく効いて――」
この辺りでは裕福な薬問屋の娘――かさねが、物怖じもせずに、嗣巳の腕に触れていた。
かさねは、こはるの幼馴染みでもある。こはると違って恋多き彼女は、気に入れば一直線だ。
それだけに同性からは遠巻きにされることも多いのだが、「だって後悔したくないんだもの」と、笑って言い切ってしまうかさねのことが、こはるは少しばかり羨ましかった。
けれど、そのかさねのことを、今日はなぜだか直視できなかった。
視線を逸らしていると、嗣巳に袖にされたらしいかさねが、こはるの元へ駆け寄ってきた。
「あんたもしかして、
「――まさか」
思ったより低い声が出てしまい、こはるは密かに
「ふうん? だってあんた、ずっと
意地でも顔には出すまい、と決めたそばから、かさねが挑発するように笑いかけてくる。
「あたしは、そんな名で呼ばれて流行る前から、拝んでいるのっ!」
こればかりは、怒りを抑えられなかった。
こはる達がまだ幼かった頃、土のなかから鋭利な牙のようなものが掘り起こされた。
何もない場所だったけれど、大人たちは〈天狗の爪〉だと騒いで、小さな祠に祀り――すぐに忘れ去ってしまった。
地中から出るものは何でも〈天狗の……〉と言われるが、あれは爪ではなく、牙だ――と、こはるはわかっていた。
水溜まりに、牙を抜かれ、恨めしげに周囲を
こはるは、練習で作った菓子を祠に供えるようになった。
黒く焼け焦げたような姿が恐ろしかったが、不憫な姿は、不注意で死なせてしまった犬を思い出させたのだ。
一度寂しそうだと思ってしまえば、放っておくのは後味が悪い。
毎日拝んでいたある日、水溜まりに映っていたのは、清らかそうな純白の犬だった。
水面越しでも、決して目は合わせない。見た目が愛くるしくなっても、彼らは化物という名の、危険な隣人であることを忘れてはならない。
そうして、こはるが慎重に、互いにとって心地好い距離を保っていたところで、近所の娘が祠に目を留めた。
恋に関する願いが実った、とその娘と周囲が騒ぎ始めた頃、久方ぶりに見た犬は以前よりも黒く、醜く変わり果てていた。
因果関係はわからないが、こはるに出来るのは、せめて祠を清めてやることだけだった。
――他力本願なんて、馬鹿げているじゃない。
日課となっている祠の掃除をしながら、こはるは忌々しく思った。
大切なのは、菓子の修練と同じく、日々の積み重ねだ。努力でどうにもならないものを願っている暇があれば、他のことに時を費やすべきなのだ。
お供えした菓子を下げて、祠の傍に腰かけ、口に放り込む。見た目に課題はあれど、あんこの味は父のお墨付きだ。
――ゆくゆくは、あたしが店を継いで、大きくしてみせるんだから。
だいたい、かさねは見る目がないのだ。駄目な男に引っ掛かったと思ったら、今度は化物ときた。
――喰われたって、知らないんだから。
立ち上がりかけたこはるの目に、白装束の袖が映り――嗣巳の涼しげな声が、こはるを呼んだ。
呼んだ、と言っても、菓子屋の屋号なのだが。
頭の芯が、くらりと揺れたようだった。
その時、
「――あっ」
背後からの衝撃で、こはるは突き飛ばされていた。
地面に手を突いて、
ぬかるみに突っ込むことだけは避けられたが、無様な恰好をさらして、恥ずかしくてたまらない。
伺うように見上げた視線の先で、嗣巳はこはるではなく、背後の祠を見ていた。
――――
*悋気:嫉妬
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