第1幕 小袖の手(3)
*
血相を変えて京助を訪ねてきたのは、妓楼の主人だった。
店の者から小袖を受け取らなかったか、と問われ、不審に思った京助はとっさに、亡き妹の小袖を引っ張りだして見せた。
「違うっ、これじゃねえ」
邪魔したな、と挨拶もそこそこに、妓楼の主人が背を向けて去っていく。
まるで、後ろ暗いことでもあるかのように。
――まさか。
疑念を抱いたが、何もしてやれないことはわかっていた。何もかも、今更だ。
行李から小袖を取り出し、縫い目をなぞる。
――痛かっただろうか、怖かっただろうか。
歯を食いしばり、うつむいた京助の顔に、ひんやりとした〈何か〉が触れた。
息が詰まったが、京助の目元に触れた白い指は、柔らかな羽根でくすぐるように――労るように、優しかった。
「……泣いてねえよ」
なぜか、そんな言葉が零れていた。
そして、京助の言葉を理解したように、指が引っ込んだ。
ふと〈違和感〉を覚えたが、よく考えるまえに、名が浮かんでいた。
――お葉?
心中で呼び掛けて、京助は思い出した。
――いつか、あたしの
それは京助が地本問屋を始めた頃の、お葉との他愛のない会話だった。
――美人絵か? その自信はどっからくるんだよ。
――あたしが美人なのは、否定しないけど。描いてほしいのは、化物絵……あたしが死んだあとのことよ。
――おい、縁起でもねえこと言うなよ。
――まあ、聞きなって。あんたにとって、大事なことなんだからね。
得意げな顔。いつもの、あの表情だった。
――絵師だって、誰でもいいんじゃないのよ。そのとき、化物絵ならあの絵師が
思い返しても、変わった女だった。
お葉は時折、あたしには少し先のことが視えるんだと
それがまた当たるものだから、お葉は実の親兄弟を含め、周囲から疎まれ――怖がられていた。
お葉は京助に、あんただけだと言って、寂しげに笑ったものだ。
――あんただけが、あたしを〈内側〉に入れてくれる。
自分は、人の世の外側にいるーーとでも、思っていたのだろうか。その時の京助は、鼻で笑うだけだったが。
あれは――こういう意味だったのだろうか。
それから数日の間、〈化物〉との奇妙な生活が続いた。
行李に仕舞った小袖はあれ以来姿を見せなかったが、部屋を留守にするたびに物の配置が変わっていたり、ふとしたときに背後に気配を感じたり――と、京助はその存在を何となく意識しているうちに、控え目に寄り添われているような心持ちになっていた。
だから、だろうか。
常にその気配を感じていたからか、部屋に一歩足を踏み入れただけで、京助は異変に気がついた。
行李を開けると、小袖がなくなっていた。
それと同時期に、例の妓楼では怪談騒ぎが起こり、京助の耳にもその噂が届いた。
――小袖から生える腕。
――捨てても戻ってくる小袖。
今更、と
久方ぶりに訪れた妓楼は、ちょっとした騒ぎになっていた。
意気消沈――していたはずの店の女たちが、二階へと続く階段を取り囲んで、浮き足立っている。
「あんた、いい所に来たじゃない。例の〈化物絵師〉が来てね、二階で描いてんのよ」
「ちょいと、覗いてきとくれよ。あたしらは邪魔するなって言われているけど、あんたなら大丈夫」
女たちに文字通り背中を押されて、京助は二階に上がった。
化物絵師――とは、ひと月前にふらりと江戸に現れた、愁水と名乗る絵師のことだろう。
どの流派にも属さず、化物ばかり描く変わり者。
噂では、その絵には化物が〈宿る〉のだという。
絵師の逸話としてはありふれたものだが、初めて絵を見たその晩、化物が夢に現れたのだと興奮気味に話す者もおり、絵師本人も化物扱いされかねない勢いだ。
一月でこれなら、連作で大量に刷れば、とどこの版元も考えただろうが、折悪しく、幕府に化物絵の出版を禁じられたばかりだ。
そのためか、愁水も個人の依頼による肉筆画だけを請け負っているらしく、実際にその絵を見た者は少ないのだが――。
件の絵師は、妓楼の主人に見守られながら、肉筆画を描き終えたところだった。
京助は主人の肩越しに、絵を覗きこみ――思わず、喉を鳴らした。
こちらに背を向け、鏡台を覗きこむ女の絵。
ほっそりとした首筋に、鏡面をすがるように這う指。
繊細さが目を惹く一方で、鏡に映る女の切れ長の目は憂いを湛えながらも、同時に名状しがたい凄みのようなものを漂わせていた。
――これは、化けて出てきそうだな。
密かに驚嘆していると、とっくに京助の存在に気づいていたらしく、濃紺の着流しを着た総髪の絵師が立ち上がって、京助を振り返った。
――――
錦絵:浮世絵のこと。江戸時代の名称。
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