第18話 娘の混迷
「なんだよ、その顔?泣き腫らしたみたいじゃん」
カズミはそう言って、手のひらを差し出した。そこに500円を乗せると、中に入る。聡の個展も、終わりに近づいていた。
「聡から聞いたよ、あんたぶっ倒れたんだって?大丈夫?」
「うん……。大丈夫」
「そう?全然、大丈夫そうな顔してないんだけど」
まぁ、座りなよと、珍しくカズミがコーヒーを入れてくれた。一口飲むと、ものすごい苦みと、ものすごい甘さが広がる。思わずせき込むと、カズミが大口を開けて笑った。
「なんだよ、文句を言う元気もなくなったのかよ?」
「相談がある」
「え、私に?」
「これ、読んで」
母の日記を差し出すと、なんの躊躇もなく手に取る。カズミらしい。何にも怖いものなんかないんだ。それでも、時折、眉間に皺を寄せて動揺を隠そうとしている。
「ごめん、コーヒー淹れ直してくる」
読み終わると、カズミはそう言って中に消えた。私にかける言葉を用意しに行ったんだ。そう感じた。
「で、私になんて言って欲しい?」
でも流石のカズミも、言葉が見つからなかったようだ。
「母は狂ってたの?それとも、これは事実?」
「狂ってた。そして、事実じゃない。いや、ま、混じってはいる。確かにあんたのママは聡に好意を持っていた。けど、肉体関係になるまでじゃないと聞いてる。高級マンションは、亜矢香が結婚したら住むように用意したと聞いたよ。けど、あの子は束縛がひどいから、一時期うちに住んでた時がある」
「そこに、母が現れたの?」
「そう。あんたのママは、聡を付け回してた」
「つまりストーカー?」
「私はその言葉、嫌い。好きになったら、誰だっておかしくなる。あんただって、一晩中、意味なく泣けて、泣けて、で、話したくもない私んとこに来たんだろ?」
心を読まれた。得意げな顔をしてるかと思ったら、予想に反してカズミは切ない顔をして天井を見上げている。
「あーあ。失恋か。でも、ま、聡の為なら失恋もいいか」
「なんでそんなに、聡のことを思うの?」
「あいつだけだったんだよ。薄汚くて、垢まみれで臭い私を家に呼んで、ご飯を食べさせてくれ、聡のおばちゃんは可愛い洋服を着せてくれ、おじちゃんは、いつも陽気で楽しくて、私のオアシスだったんだよ」
カズミは今まで見たことないくらい、切ない顔をしていた。決して癒えることのない傷を抱える幼い自分を、私の中に見ているのだと思った。
「だからあいつのこと、赦してやって欲しいんだ。まだ幼い子供だよ、単純に、お前のことが好きで、玄関のドアが開いていたから、つい出来心でさ……」
「玄関のドアが開いていた?」
「そうだよ、その日、たまたま……」
「え?」
少しだけ蘇った記憶の中で、母が鬼の形相で私を怒っていた。だから私の心の片隅には、いつも罪悪感があった。
ドアに鍵を閉めるのは親の役目じゃない?
母の役目じゃない?
私は何も悪くない。
錆び切った過去の扉が開く、嫌な音が聞こえたような気がした。
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