第17話 娘の秘恋
目を開けると、真っ白な天井が見えた。冷えた空気、消毒液の匂い、カサつく、重い布団。ここがどこかなんとなくわかった瞬間に、父の声がした。
「繭美、大丈夫か?看護師さん!目が覚めました」
「繭美ちゃん、大丈夫かな?」
顔見知りの看護師さんが私の顔を覗き込み、脈と血圧を測った。ここは、子供のころからのかかりつけ医。
「検査結果は異常がないです。先生は、繭美ちゃんが歩けるようであれば帰って大丈夫だと言われてるけど、どうかな?起きれる?」
背中を優しく支えられ、身体を起こした。
「大丈夫そうです……、私どうしたんだろ?」
「お前が料亭で倒れたから、ここに運んだんだよ。夜遅く、すみません」
父が焦った様子で、頭を下げた。
「繭美ちゃん、小さい頃はよく扁桃腺を腫らして、熱出して、夜遅くお母さんが慌てて連れて来てたよね」
コクリ。頷くと、背中をゆっくりさすってくれる。
子供のころ、高熱で寝込む私を母が起こし、桃のジュースを飲ませてくれた。優しい母の記憶は、この桃のジュースだけ。
「おい、どうしたんだ?」
急に嗚咽を上げて泣く私を前に父はオロオロし、看護師さんは柔らかく抱きしめて頭を撫でてくれた。
「お母さんが言ってたわよ。繭美ちゃんは頑張り屋さんだって。たくさん無理してるんでしょ?大丈夫よ。泣いても。大丈夫」
母にもこんなふうに抱きしめてほしかった。私は看護師さんの胸に縋って、声を上げて泣いた。
帰宅し、ベッドに潜ると、遠くで祖母と父が言い争う声が聞こえた。
「もう、そっとしといてください!」
父の声はモゴモゴと反論を試みていたが、直ぐに車のエンジン音が聞こえた。今回も、祖母の怒りの前に尻尾を巻いて逃げたわけか。
コンコン、控えめなノックの音と、祖母の声。
「繭美ちゃん?お腹空いてない?暖かいミルクを持って来たの。飲まない?」
「うん……」
ハチミツが入ったミルクを飲みながら、今日あった出来事を振り返っていた。聡と私の忌まわしい過去のこと。亜矢香と耕助の関係。私と聡のことを知りながら、その母と付き合う父。
「繭美ちゃん。大丈夫?」
「みんな、私に嘘をついていた。それが悲しい」
「みんな、繭美ちゃんを守りたかった。私も……、あなたのお父さんも。隠し事は、嘘とは違う」
「私にとっては、同じ」
「もし全てを知ったら、貴女はママとパパをもっと嫌いになる。貴女を、親を憎む子供にしたくない」
空のマグカップを受けとると、祖母は早口で捲し立てて部屋を出て行った。
「和之、会いたい」
23時頃に送ったLINEは既読はつかない。当たり前だ。和之には家庭がある。私より大事にしてる生活がある。
「過去の記憶が蘇ったせいか、意識を失って倒れた」
送信しようとしたとき、スマホが揺れる。知らない番号だ。和之からかも知れない。スマホを変えたから、LINEにも既読がつかないのかも。弱っていた私は、そんな呑気な解釈をしてしまった。
「はい」
相手は答えない。
「え、誰?」
キキキキキ……鋭利な物でガラスをひっかくような音。ぞっとして投げ出したスマホから、その音がずっと聞こえている。悪戯か?慌てて拾い上げて、震える指で電話を切った。ブロック……、しようとした瞬間にまたスマホが揺れる。今度は、和之だ。
「大丈夫?どうした?何かあった?」
いつになく優しい和之の声に、心の奥に隠している柔らかい箇所が撫でられた。思わず、涙が溢れる。
「え、泣いてるの?どうしたの?どこにいるの?」
「お祖母ちゃんち。和之さん、家じゃないの?奥さんいるんじゃないの?」
「うん、ちょっとコンビニに行くっていって、出て来た。君が会いたいって言ったこと、初めてだから何かあったと思って。と言っても……」
口ごもった和之の、次の言葉は分かっていた。だから、それは言わせてはならない。和之を、困らせる女にはなりたくなかった。
「大丈夫。これから会いたいなんて、無理を言ったりしない」
「明日。会おう。仕事を、早く切り上げるから」
「うん……」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
電話を切ってから、どうしようもなく泣けて来た。こんな時、私には心を開いて語り合える人がいない。幼い子供のように丸くなり、頭に浮かぶ聡の顔を打ち消そうとした。
クルクルの髪、黒目がちな大きな瞳。
抱きしめられた時の腕、胸の感触。
私の部屋に忍び込み、母を堕落させ、そして、私に好意を抱かせた男の顔。
でもどんなに頑張っても、
聡の顔を打ち消せなかった。
もう認めるしかない。
認めないと、頭がどうかなりそうだ。
私は聡が好きだった。
好きだった。
好きだった。
好きだった。
好きだった。
今でも心のどこかで、全てが嘘であって欲しいと思っている。全てが消え去って、一から聡に出会って、恋に落ちたいと願っている。
何故だ。
いつから私は、こんなにも愚かになったんだ。
そう、
好きだった。じゃない。
好きなんだ。
どうしようもない。
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