第2話 春、隣の職場で

四谷の教会でアネさんの結婚式があってから、もう半年が経っていた。

2015年の春。

和昌は千葉県立みどりヶ丘特別支援学校に着任した。

職員室の窓から見える桜並木が、毎朝少しずつ緑を増やしていく。


初任の春は、目が回るほど忙しかった。

教材づくり、保護者対応、会議。

放課後になると、教室には誰もいないのに、チャイムの残響だけが耳に残る。

ネイビーのフィットを走らせながら、夜の坂道を下る。

その先に、県立中央総合病院の明かりが見える。


「……上田さん?」

駐車場で、白いタントから降りる姿があった。


肩より少し長い黒髪をまとめ、前髪をそっと指で直す。

薄化粧でも肌の透明感があり、夜勤明けの疲れを見せない。

彼女の笑みには、光よりも“ぬくもり”があった。


「先生こそ、まだ残ってるの?」

「初任だからね、全部が初めてで。」

「ふふ……お互いさま。」


会話はほんの数秒だった。

けれど、坂道を走るフィットのミラーには、彼女が手を振る姿がしばらく映っていた。


数日後、学校の健康診断で病院を訪れた。

採血の順番を待っていると、のりえが白衣姿で通りかかる。


「先生、血が苦手そうな顔してる。」

「バレた?」

「前から思ってた。顔に出やすい人だなって。」


針を抜くとき、彼女が小さく笑った。

その笑顔に、何かを救われたような気がした。


その夜、LINEにスタンプが一つ届いた。

「がんばれナース」みたいな、くまのキャラ。

返信しようとして、文字を消す。

三分後、「ありがとう。」だけ送った。

既読がすぐに、ついた。


四月の終わり、夜風がやわらかくなったころ。

和昌は再び坂道の交差点で彼女のタントとすれ違った。

小さなクラクション、控えめなライトの合図。

窓越しに軽く手を上げると、のりえも微笑んでうなずいた。


その夜、またLINEが届く。


「今日の空、きれいだったね。

いつか、地域の人と一緒に働く仕事がしたいんだ。」


保健師という言葉は出ていなかった。

でもその一文に、彼女の未来がかすかに滲んでいた。


和昌はスマホを伏せて、カーテンの隙間から夜空を見上げた。

坂道の上に、まだ散らずに残った桜の花びらが風に舞っていた。


スピッツの「春の歌」が、カーラジオから流れていた。

窓の外、遠くの病院の灯りが、まだ優しく瞬いていた。


――ナースが好きになった。それだけのこと。

けれど、それだけで十分に、人生は動き始めていた。

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