第32話 氷原の国バルト ― 封印の影 ―

吹き荒れる風は凍てつく刃のように頬を刺し、空は鉛色に沈んでいた。フラム共和国を出発して十日――列車と魔導馬車を乗り継ぎ、ケインたち”雷翼ライヨク”はついに氷原の国・バルト王国の国境を越えた。

「……寒っ!」

ミーシャが耳まで覆う毛皮のマントを引き寄せ、尻尾をぶるりと震わせる。

「ちょっと! これ凍傷になるってば! 猫は寒さに弱いんだから!」

「わかってる。だから手袋をちゃんとつけろ」

ハントが手早く彼女に厚手の手袋を渡す。道の先には、氷で覆われた巨大な城門――バルト王国の玄関口、氷都エイグレアが見えていた。氷晶の塔が天を貫き、蒼い光が淡く脈動している。

「……まるで氷の精霊が息をしているみたいね」

アイカの言葉に、エリスが微笑む。

「この国では、氷を“神の祝福”と呼ぶそうです。寒さの中に命が宿ると……」

「皮肉なもんだな。命が一番奪われやすい土地で、祝福だなんて」

ハントが息を白く吐く。ケインは街を見据えながら、小さく頷いた。

「……導師はここに来ている。瘴気の流れが北を指してる」

彼の手の中で、雷精霊の紋章がわずかに光る。

(……“氷の封印”。あの導師の言葉――“果ての門は氷に閉ざされている”――あれはこのことか)


氷都エイグレア。城門をくぐると、氷の都が広がっていた。家々は氷のレンガと魔導結晶で組まれ、通りには雪を払う精霊灯が並ぶ。空気は張り詰めているのに、街には静かな活気があった。

「人が意外と多いな」

「鉱石や魔導炉の交易が盛んなんですって」

エリスが説明する。

「でも……みんな、どこか怯えているわ」

アリーシャの言葉に、アイカが頷いた。

「きっと、最近の“氷の嵐”のせいね。導師の仕業かもしれない」

街の中心にある冒険者ギルド“氷冠支部”で、彼らは現地情報を集めた。受付にいたのは、褐色肌の青年職員。

「“氷の封印”なら、北の大氷窟”グレイシア”にあります。ただ……」

「ただ?」

ケインが問う。

「先週、調査に入った帝国の探索隊が全滅したそうです。戻った者は誰も……」

場の空気が凍りついた。

「瘴気の濃度が異常に高まってる。まるで何かが――呼吸しているみたいに」

「……封印が壊れかけているのね」アリーシャが呟く。


翌朝、白銀の吹雪の中を一行は北へ向かった。足跡すらすぐに雪に埋もれ、風の唸りが遠くの山脈に響く。

「視界が……! ケイン、右側に気配!」

アイカの警告と同時に、氷狼”フロストウルフ”が雪を裂いて飛び出す。十数匹、鋭い牙を光らせて包囲してきた。

「行くぞ――!」

ケインが刀を抜き、雷光が刃に奔る。

「雷よ、裂け!”サンダー・ランス!”」

稲妻が走り、三匹の氷狼が焼き裂かれる。その隙を狙って、アイカが跳躍した。

「風よ、舞え!”エア・カッター!”」

風刃が狼の群れを裂き、雪煙が舞う。ミーシャが笑みを浮かべ、短剣を逆手に構える。

「ふふ、今度はあたしの番ね!」

彼女の手のひらに赤い魔法陣が浮かび上がる。”ファイア・アロー!”――炎の矢が連射され、吹雪の中に光の花を咲かせた。

「後衛、援護する!」

アリーシャが詠唱を紡ぐ。”ウォール!”――透明な障壁が展開し、突進してきた狼の爪を弾く。その背後から、エリスの声が響いた。

「癒しの光よ、仲間を守り給え――”ハイ・ヒール”!」

傷ついたケインの腕がたちまち再生する。

「……助かった」

「当然です。あなたは、まだ倒れられませんから」

白い息を吐きながら微笑むエリス。その光景に、ケインはふと胸の奥に暖かい感情を覚えた。


やがて、眼前に現れたのは――巨大な氷の洞窟。氷晶が幾重にも重なり、まるで天へと続く宮殿のようだった。

「これが”グレイシア”……まるで時間が止まってるみたいね」

「感じるか? この気配……封印が、呼吸してる」

ケインの足元に雷精霊の紋章が浮かび、紫電が走った。奥へ進むと、氷の壁の中心に巨大な魔法陣が刻まれていた。それは精緻で、そしてどこか禍々しかった。

「この構文……帝国式の“封印陣”だわ」アリーシャが呟く。

「でも、中央の文様だけ違う。これは――導師のものよ!」

その瞬間、氷壁が震え、冷気が爆ぜた。

「来るぞ!」

ケインが叫ぶ。氷の中から現れたのは、人の形をした氷魔――氷精の亡霊。青白い光を放ち、剣を構えて迫ってくる。

「守護者……封印を守る残滓ね!」

「だったら――壊させてもらう!」

ケインが構えた。雷の光が刃を包み、空気が弾ける。

「”サンダー・ボルト”!」

稲妻が走り、氷精の胴を貫く。だが、氷の欠片が再び結合して形を成す。

「再生するだと……!」

「アリーシャ! 氷属性に強い魔法を!」

「任せて。”ファイア・バースト”!」

紅蓮の爆炎が氷の亡霊を包み込み、ようやくその輪郭が崩れ落ちた。残った氷の核が淡く光り――そこに、黒い影が映った。


「……久しいな、ケイン」

その声は、氷を割るように冷たく響いた。洞窟の奥、氷面に映る黒衣の男――闇の導師。

「お前がここまで辿り着くとは思わなかった。だが、封印はもう“解かれた”」

「何を企んでいる、導師!」

ケインが叫ぶ。

「この世界を滅ぼすためか!」

導師はゆっくりと首を振った。

「滅びではない。再生だ。お前たちが歩む“果ての道”こそが、真の始まり――」

アイカが剣を構える。

「またその台詞か。お前の言葉に救いなんてない!」

導師は静かに笑った。

「救いは常に“犠牲”の上にある。……ケイン、お前こそ、その証だ」

「……何?」

導師の瞳が氷のように冷たく光る。

「雷精霊の契約者。お前の力は偶然ではない。お前は――“封印を継ぐ者”の血を引いている」

ケインの身体が硬直した。

「俺が……封印を?」

「そうだ。お前の父は、かつて封印の守護者だった。世界を閉ざした“七の契約者”の一人だ」

氷の空間が軋み、導師の姿が霧のように掻き消えた。

「待て! まだ話は――!」

ケインの叫びは、氷の静寂に吸い込まれていった。


風が止み、洞窟の天井から一筋の光が差し込む。氷壁に映る自分の影を見つめ、ケインは拳を握った。

「……父が、封印の守護者……? それなら、俺は――」

「ケイン」

アイカがそっと彼の肩に手を置く。

「今は混乱してもいい。でも、あの導師を止められるのは、きっとあなただけ」

エリスが微笑み、祈るように言葉を重ねた。

「導師は神の名を語る悪魔です。彼の言葉に真実があっても、心は偽りに満ちている」

ケインは深く息を吐き、刀を鞘に納めた。

「……ありがとう。行こう。まだ“氷の封印”は終わっていない」

外では、吹雪の止んだ空に一筋の雷光が走った。それはまるで、天が彼らの決意を見届けているかのようだった。

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