庭園にて

 

 闇の中だった。


 もがけど、もがけど、


 どうしょうもない沼の様に、ただ沈みゆく絶望的な闇だった。


 その深い闇が黒き炎となり、動けぬゾルゲを焼き尽くす。


 やがて炎が身の内で燃え滾り、どす黒い殺意が湧き出て来る。


 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!


 黒い炎と自らの意志が混ざり、爆ぜる業火を身に纏う。


 忘れるな、殺せ!


 忘れるな、殺せ!


 忘れるな、殺せ!


 気がつけば己が闇となっていた。



 ゾルゲはそんな夢を幾度も観た。


 彼は眠る時はいつも座って足を抱える。

 決して横になる事はない。

 ただ剣を引き寄せ眠りにつく。

 剣を手放すのが怖かった。

 何も持たぬ自分が怖かった。




 目覚めたゾルゲは、堅牢な地下牢に囚われていた。


 ビスタグス家の牢。


 薄暗い魔光灯が照らしていた。

 剥き出しの石壁と石床、さらに古びたベッド。


 通路と牢を隔てる鉄格子が太い。

 見渡せば、それなりに清潔さは保たれていた。


 天井近くには小さな明かり窓がある。

 そこから星が瞬く夜空が伺えた。


 それだけが外界との接点だった。


 ゾルゲの手足は自由だ。

 ただし魔術拘束具を嵌められていた。

 

 魔力を練る事は叶わず、身体の筋力もほとんどが奪われていた。

 服装は変わっていないが、持ち物は全て押収され、剣も必然ない。


 ゾルゲは石壁に寄りかかる。

 座ったまま目を閉じ、耳をそばだてた。


 明かり窓の向こうから、風が微かに木々を揺さぶる音が聞えた。


 静かな夜だった。


 窓からそよぐ夜風に乗り、僅かな花の香りを感じた。


 懐かしい香りだった。


 そんな忘れていた感情を不意に思いだし、ゾルゲはそっと死を覚悟した。





 幼い頃、母が営む花屋の庭先。


 売り物の花を手入れするのが、ゾルゲの仕事だった。  


 小さな身体で懸命に働くゾルゲを、母は楽しそうに眺めてくれる。


 ゾルゲは母も花も大好きだった。


「うふふ、重いでしょ、ゾルゲ。お母さんも手伝うわよ」


 大きな水桶を懸命に運ぶ小さなゾルゲ。

 母は額の汗を拭いながら、微笑んでいた。


「だめだめ、これくらい、へっちゃらだよ。手助けしなくても僕は力持ちなんだからね。お母さんこそ少しは休んでよ。うんしょ、うんしょ」


 五歳の彼がよたよた運びながら、健気に語る。


「じゃあ、それを運び終えたらお茶にしましょう。お母さん、今日はアップルパイを焼いてるの。ゾルゲ、好きでしょう?」


「やったー! アップルパイ大好き、えへへ。ちょっと待っててね、すぐに運んで来るから、うんしょ、うんしょ」


 その後、美しい花々に囲まれた中庭のテラスで、親子は幸せそうにアップルパイを食べひと時の休息をする。

 

 父親が戦乱で亡くなり、ゾルゲは母を支え、その笑顔を守ろうと、幼いながらに決意していた。


「おいしいね!」


「ふふふ、良かった」


 それは親子二人だけの、懐かしい思い出の日々。


 その数か月後にゾルゲの生まれた村が、戦乱に巻き込まれ壊滅した。


 母はゾルゲを庇い惨殺された。


 彼自身も深手を負い生死の境を彷徨う。


 瓦礫に埋もれ混濁する意識の中、敵兵が消えた後にのろのろと救助に駆け付けた領兵が、村の家々を漁り物取りをする姿を見た。


 そこで気を失った彼は、奴隷商と繋がりのある教会に拾われた。


 回復魔術により辛うじて命を繋ぎ止めた。

 目を覚ました彼に、気色悪い笑みを浮かべる神父は言った。


「神の奇跡です。生き延びた事に感謝しましょう」


 ゾルゲはその夜、神を祭る祭壇を叩き壊し教会を飛び出した。


 傷ついた身体でひたすら荒野を走った。


 涙が溢れた。


 獣の様に叫んだ。


 躓き、転がり、


 地を何度も叩いた。


 悲しみが、絶望が、憤りが、情けなさが、


 身を焦がし、何もかもが憎かった。


 彼はひたすら狂人の如く荒野で暴れた。


 だが、星も見えぬ真っ暗な闇は何も答えず、


 ただ、ただ、孤独だった。


 手元を見ると叩いている内に切ったのか、両手から血が流れていた。


 闇夜の中で赤い血が黒い地面に落ちた。


 そこには小さな醜い虫の死骸があった。


 ゾルゲの血で虫の死骸が赤く染まった。


 コロス。


 気がつけば、そう何度も呟いていた。 


 コロス、コロス、コロス!


 ゾルゲは神を憎んだ。


 母を殺した兵を憎んだ。


 この運命を憎んだ。


 あらゆる欺瞞を憎んだ。


 世界そのものを憎んだ。


 心の優しい虫さえ殺せぬ子供は、暗い憎悪の炎をその心に宿した。


 母を殺したこの世界そのものに復讐する。


 彼はその生を変えて行った。







「またか……」


 ゾルゲが拘束されて一か月が過ぎていた。


 奇妙だった。


 公爵ビスタグス家の令嬢ミリスは、拘束したゾルゲに花を贈り続けた。


 懐かしい香りと虚無が牢屋を埋めた。


 そんなある日、ミリスが来た。


 ゾルゲは殺意を見失う事を恐れた。


 だが、もうこの身には何一つ力が残されていなかった。


 それでも抗う様に、ミリスを睨んだ。


 彼女は語った。


 静かに語った。


 どう調べ出したのか、ゾルゲの詳細な生い立ちを全て語った。


 それから彼女は言った。


「私は花が好きだ。お前も本当は花が好きなのだろう?」


 不思議な瞳だった。


 懐かしい眼差しだった。


 ゾルゲはその瞬間、ミリスの瞳に何故か母の面影を見た。


 懐かしい母の姿が脳裏に蘇った。


 世界に復讐する自分の荒んだ心を、


 母がじっと覗き込んでいる気がした。


 こんな小娘に何が判る、


 そんなものじゃない! 


 そう頭で考えるのに、


 何故か心は許しを乞うた。


 今までの全てに許しを乞うていた。


 浮かぶ母の面影に許しを乞うていた。


 気が付けば、ゾルゲは泣き崩れていた。


 どうしょうもなく、涙が溢れて来た。


 剣を極め、


 殺しという修羅の道を進み、


 幾人もの命を無造作に狩って来た。


 そんな自分がなんで、


 こんな小娘に抗えないんだ。


 なんでこんなに心地いいんだ。


 ゾルゲは声を殺して男泣きをした。


 嗚咽し続けた。


 わからなかった。


 なぜ、こんなにも苦しいのか、


 なぜ、涙が痛いのか、


 わからなかった。


 そして母の声が聞こえた気がした。



「ゾルゲは泣き虫だけど、それは心が優しくて、みんなにも優しく出来る証拠なのよ」


 

 いくばくかの時間、


 涙を流し続けたゾルゲは、


 静かに微笑み花を携えたミリスを見た。


 母に似たその眼差し、その瞳。


 ゾルゲは心から許しを乞うた。







「はあ~、いい天気だなぁ」


 ゾルゲは麦わら帽子を被っていた。

 両手で首から下げたタオルを引っ張り、眩しそうに太陽を見上げる。

 ふわっと土の香りと花々の匂いが鼻孔をくすぐった。


 ここは公爵ビスタグス家の庭園。


 複数の造園師とともに、ゾルゲは担当であるチューリップ園にジョーロで水を撒く。穏やかな陽光を受けた水が小さな虹を生み出していた。

 鮮やかな光彩が様々な色の花と共演する様を見て、思わず微笑んでしまう。

 

「花はいいなぁ、これも全部お嬢様のおかげだ」




「おーい、ゾルゲ、飯にすっど」


 遠くで仲間の庭園師達の呼ぶ声がした。


「はーい、今行きます」


 すべての呪いが解けた晴れやかな顔。


 幼き頃と重なる、そんな優しい表情のゾルゲがそこにいた。


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