第2話 「検証と疑惑」
翌日、俺は昨日よりも早く部室に向かった。
夕べ、あの違和感についてずっと考えていた。プリントだけが舞い、美月の髪だけが揺れた、あの不自然な風。
もしかしたら、本当に魔法だったんじゃないか。
そんな期待を抱きながら部室の扉を開けると、すでに健人が来ていた。しかも、机の上には見たこともないような機材が並んでいる。
「おはよう、優太」
「おはよう...って、何だよこれ」
俺が指差したのは、風速計、温度計、湿度計、それに小型のカメラまで。まるで理科室から持ち出してきたような機材の山だ。
「昨日のことが気になってね。科学的に検証してみようと思って理科準備室から拝借してきた。カメラだけは自前のやつだけど」
健人が眼鏡を光らせる。
「検証って...」
「魔法が本当に存在するなら、それは何らかの物理現象のはずだ。だから、測定可能なはずなんだよ」
健人は風速計を手に取って説明し始めた。
「まず風速を正確に測定する。気温と湿度の変化も記録する。カメラで空気の流れを可視化するために、煙も用意した」
「煙?」
「線香だよ。煙の動きを見れば、風の流れが分かる」
そこまで言ったところで、部室の扉が開いた。
「おはよー!」
美月が元気よく入ってくる。その後ろには彩花も。
「うわ、何これ?理科室?」
美月が目を丸くする。
「健人が検証するんだって」
「へえ、本格的じゃん」
彩花は腕を組んで機材を眺めた。
「昨日のは偶然だったって結論じゃなかったの?」
「偶然だと思ってる」健人が答える。「でも、だからこそ検証が必要なんだ。偶然を偶然だと証明するためにはね」
「理屈っぽいなあ」と美月が笑う。
俺は少し迷ってから、昨日気づいたことを話すべきか考えた。でも、まだ確信が持てなかった。もしかしたら、記憶違いかもしれない。
「じゃあ、やってみようか」
健人が魔法陣の周りに機材を配置する。風速計を魔法陣のすぐそばに置き、線香に火をつけて煙を立ち上らせる。カメラもセットした。
「準備完了。優太、頼む」
俺は昨日と同じように魔法陣の中心に立った。
魔法書を開き、呪文を確認する。
「アエル・ヴェントゥス・フルーレ」
……静寂。
風速計の数値は動かない。線香の煙はまっすぐ上に立ち上っている。
「...何も起きないね」
美月が残念そうに呟く。
「もう一回やってみて」
健人が記録用紙に何か書き込んでいる。
俺はもう一度呪文を唱えた。今度は少し発音を変えてみる。
「アエール・ヴェントゥス・フルーレ」
でも、やはり何も起きない。
三回目はイントネーションを変えてみた。強調する場所を変えて、リズムも意識して。
「アエル・ヴェントゥス・フルーレ」
四回目、五回目。ゆっくり唱えたり、早口で唱えたり。
十回を超えても、風は吹かなかった。
「やっぱり昨日のは偶然だったんだよ。たまたまタイミングが合っただけ」
彩花がポツリとつぶやく。
「この結果から見ても、再現性がない。科学的には、魔法が存在するとは言えないね」
健人も彩花の言葉に頷く。
美月は魔法書を手に取って、じっと最初のページを見つめていた。
「でも...信じる心が大切なんじゃないかな」
「信じる心?」
健人が眉をひそめる。
「だって、魔法って、科学じゃ説明できないものでしょ?心が通じないと発動しないとか、そういうのあるかもしれないじゃん」
「非科学的だな」
「魔法なんだから非科学的でいいの!」
美月と健人が言い合いになりそうなのを、彩花が止めた。
「はいはい、二人とも落ち着いて」
美月はむくれた顔で魔法書のページをめくり始めた。
「ねえ、次のページ見てみようよ」
「次のページ?」
「二ページ目。『水を集める魔法』だって」
俺たちは魔法書を覗き込んだ。確かに、そこには水滴の形をした魔法陣と、説明文が書かれていた。
「『アクア・コングレガ・フルー』...水を集めろ、って意味かな」健人が呟く。
「やってみようよ!」
美月が目を輝かせる。
「無駄だと思うけど」
彩花が肩をすくめる。
でも、結局俺たちは次の魔法も試すことにした。暇だったし、美月の熱意に押されたというのもある。
それに、俺自身もまだ諦めきれていなかった。
昨日の違和感。あれが気のせいだったとは思えない。
新しい魔法陣を床に描き、今度は水を入れたコップを近くに置いた。
「この魔法で何するの?」
彩花が聞く。
「空気中の水分を集めるんだって。湿度が高かったら、水滴を作り出せるかも」
美月が本を読み上げて答える。
「今日の湿度は68%やや高めか」
健人が湿度計を見る。
俺は魔法陣の中心に立ち、呪文を唱えた。
「アクア・コングレガ・フルー」
何も起きない。
当然だ、と思った。
「やっぱりね」
彩花が言いかけたその時だった。
コップの表面に、ぽつりと水滴がついた。
「あれ?」
さらに水滴が増える。コップの周りの空気が、わずかに白く霞んでいる。
「結露だ」
健人が駆け寄る。
「でも、この速度は...」
コップはあっという間に水滴で覆われた。まるで冷蔵庫から出したばかりのように。
「すごい...」
美月が息を呑む。
でも、俺は気づいていた。
部屋の温度は変わっていない。コップの中の水も、冷たくなっていない。
普通の結露なら、温度差が必要だ。でも今、温度計の数値は動いていない。
「これは...」健人も同じことに気づいたようだった。
「おかしい。温度変化なしに結露が起きるなんて...」
「魔法だよ!」
美月が叫ぶ。
「いや、待って」彩花が冷静に言う。
「何か理由があるはずよ。ね、健人?」
健人は黙って、コップのすぐ近くに置いてあった湿度計を見つめていた。数値が下がっている。68%から、50%に。
「空気中の水分が...減ってる」
つまり、空気中の水蒸気が、本当にコップに集まったということだ。
温度変化なしに。
「これ、どういうこと?」
彩花の声が少し震えていた。
その時、俺はふと思いついた。
「待って。他の湿度計は?」
健人は検証のために、部屋の反対側、窓際にももう一つ湿度計を置いていた。
俺はそちらに駆け寄って確認する。
「こっちは...68%のまま。変わってない」
全員が息を呑んだ。
「どういうこと?」
美月が聞く。
健人が青ざめた顔で言った。
「部屋全体の湿度が下がったわけじゃない。コップの周辺だけ...魔法陣の周りだけ、湿度が下がってる」
「それって...」
「局所的な現象だ。魔法が、ピンポイントで空気中の水分を集めた」
健人は頭を抱えた。
「分からない。科学的に説明できない」
部室が静まり返る。
俺たちは顔を見合わせた。
魔法書を見る。風魔法のページ、水魔法のページ。
まさか、本当に...
「ねえ」美月が小声で言った。
「これ、本物なんじゃない?」
誰も答えられなかった。
健人でさえ、言葉を失っていた。
「でも、昨日の風魔法は何度やっても再現できなかったじゃん」
彩花が言う。
「それは...」
「条件があるのかもしれない」
俺の考えを皆に言う。
「魔法が発動する条件が」
「条件?」
「分からない。でも、何か理由があるはずだ」
美月が魔法書をめくる。
「他のページも見てみようよ。もっと魔法を試せば、何か分かるかもしれない」
「いや、待った」健人が手を上げる。
「もう少し慎重になるべきだ。もしこれが本当に魔法なら、危険な可能性もある」
「危険?」
「未知の力だ。何が起こるか分からない」
健人の言葉は正しかった。でも同時に、俺たちの好奇心は抑えられなかった。
魔法が本当にあるかもしれない。
この本は、本物の魔法書かもしれない。
「とりあえず、今日はここまでにしよう」
健人が機材を片付け始める。
「データを整理して、もう一度考える必要がある」
「そうだね」
解散する時、美月が俺に耳打ちした。
「ねえ優太、私、信じてもいいよね?魔法があるって」
「ああ。俺も、そう思い始めてる」
俺は頷く。
部室を出て、廊下を歩く。
科学では説明できない現象。
再現性のない魔法。
そして、昨日感じた違和感。
全てが繋がっているような、でもまだ見えていないような。
俺は魔法書を抱きしめた。
この本は、一体何なんだろう。
そして、俺たちはこれから何を体験することになるんだろう。
夏の空は、どこまでも青かった。
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