第33話 帰還と疑念



 それからさらに数日後の夕刻、ヴィクトルが帰ってきた。

 執事や使用人たちが総出で出迎え、彼らの馬車から大きな荷物がいくつも運び込まれる。どうやら商談は一応の契約にこぎつけたようで、いくつかのサンプル品や書類が増えているらしい。

 ルシアーナも階段の上で軽くお辞儀をして夫を迎えたが、ヴィクトルは彼女をちらっと見ただけで、すぐに書類を抱えた秘書とともに執務室へ引っ込んだ。


 (やっぱり、結局何も言わないのね。……まあ、これは想定内)


 ロイ・ラトレイという来客があったことを伝えるべきか迷ったが、ひとまず落ち着くのを待つことにした。あまりにすぐ報告すれば、逆に“干渉するな”と突き放されかねない。

 案の定、執務室からはほとんど出てこない。夜遅くまで明かりが灯り、秘書や使用人が何度も出入りしている。大きな商談をまとめたばかりだから仕方ない――そう自分に言い聞かせつつ、ルシアーナは静かにタイミングを待った。


衝突の予兆


 翌日の午後、ルシアーナが青の部屋で本を読んでいると、使用人から「旦那様が応接室へ来るように」と伝言があった。おそらく、ロイ・ラトレイの件かもしれない――そう直感したルシアーナは、落ち着いて部屋を出る。

 応接室には、すでにヴィクトルがソファに腰掛けていた。冷やかな視線のまま、入室したルシアーナを促す。

 「……聞いたぞ。俺が留守中、ラトレイ男爵家の令息が勝手に来たそうだな」

 単刀直入な口調に、ルシアーナは一礼して答える。


 「はい。お約束もないまま訪ねてこられたのですが、応接室へお通しして話だけ伺いました。失礼がありましたら、お詫びいたします」

 ヴィクトルは小さく舌打ちをし、呆れたような表情を浮かべる。

 「別に謝る必要はない。ただ、あの男は新興の貿易事業を立ち上げていて、あちこちに擦り寄っていると聞く。まだ信用に足る相手か判断しきれない。……お前は何を話した?」

 そう問い詰められ、ルシアーナは落ち着いた声で経緯を説明する。ロイの提案内容や持ち込んだガラス細工、クロウフォード家の流通網を希望している旨――。ヴィクトルは黙って聞いているが、その間ずっと鋭い眼差しを崩さない。


 「……なるほどな。どのみち、俺は奴の話をすぐに受ける気はない。こちらも新しい取引先を選ぶ余裕はないんでな。だが、勝手に夫人が応対するのは少々リスクがある」

 「リスク、ですか?」

 「……お前が“伯爵家の出”だということを利用されるかもしれない。クロウフォード家の名を脅し文句のように使う連中もいる。気軽に意見を述べれば、そこに付け入られる可能性がある。覚えておけ」

 ヴィクトルの言い分はもっともだが、ルシアーナは強く反発する思いを抑えながら、「肝に銘じます」とだけ返す。だが内心では、“あなたが何も教えてくれないから、わたしなりに動くしかないのよ”と叫びたかった。


 さらにヴィクトルは小さく息を吐き、言葉を続ける。

 「それから……留守の間、屋敷に不審者が出たと聞いた。お前に危害はなかったのか?」

 思わぬ問いにルシアーナはほんの少し目を見開く。彼が自分を気遣う言葉を発するのは珍しい。

 「わたしは何もありませんでした。使用人の方々が早めに対処されたようで……」

 「ならいい。……もし何かあれば、すぐに執事か秘書に報告しろ。無闇に首を突っ込むなよ。黒狼の連中が潜り込もうとしている可能性もある」

 「……はい」


 最後は、まるで優しさとも取れる雰囲気はなく、“契約上の管理対象”を確認するような冷たさだった。けれど、それでもルシアーナにとっては意外だった。あのヴィクトルが、自分から不審者や黒狼の話題を持ち出すとは……。

 (彼も、わたしに“万が一の事態”が起こるのは困ると思っているのかもしれない。なぜなら、契約結婚が壊れればクロウフォード家の損になるから――そういう意味かもしれないけど)


 ほんの僅かな会話であっても、ルシアーナはヴィクトルの変化を感じ取った。あの黒狼と完全に決裂している現状に、何かしらの焦燥感や不安を抱えているのだろう。

 応接室を後にする彼の背中を見送りながら、ルシアーナは胸に小さな違和感を残す。どこか、ほんの一瞬だけヴィクトルの表情が揺れた気がしたからだ。冷たい仮面の奥に、別の感情が渦巻いている――そんな予感がする。



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