第30話 不意の来訪者と、偽りの夫人
翌日、ルシアーナが書庫の整理をするふりをしながらさらに情報を探していたところ、玄関ホールの方で騒ぎが起きた。どうやら、何者かがアポイントなしで訪問してきたらしい。アイザック執事や使用人たちの戸惑う声が微かに聞こえる。
(また黒狼が押し寄せてきたのかも……?)
急いで様子を見に行くと、そこには意外な人物が立っていた。
「クロウフォード侯爵様はご不在だと伺いましたが、ぜひとも奥様にお目通り願いたいのです。わたくし、ラトレイ男爵家の令息でございます」
そう名乗ったのは、まだ二十代前半くらいだろうか、柔和な笑顔を浮かべた青年。仕立ての良いスーツに身を包み、控えめな瀟洒なブートニエールをつけている。明らかに荒事とは無縁の雰囲気だ。
「大変申し訳ございませんが、旦那様も奥様もお忙しく――」
アイザック執事が困惑して断ろうとした矢先、ルシアーナは意を決して前へ出る。
「いえ、少しならお時間をいただきましょう。……わたしが“奥様”です」
名乗りをあげると、ラトレイ男爵家の青年は安堵したように微笑み、深々と頭を下げた。
「これは失礼をいたしました。お会いできて光栄です、クロウフォード侯爵夫人……お噂はかねがね伺っております。急な訪問で恐縮ですが、実はクロウフォード家にご相談したい案件がありまして」
柔らかな物腰に、ルシアーナは少し不思議な感覚を覚える。クロウフォード家の周辺人物といえば、硬い空気か、ゴリゴリの商魂、あるいは黒狼のように荒々しい者ばかりかと思っていたが、この青年はまるで“上品な貴公子”のようだ。
(これは、商談の類かしら……? でも、ヴィクトルがいないのに、どうしてわたしに話を?)
とりあえず応接室へ通し、茶を用意するようメイドに指示する。アイザック執事は「よろしいのですか?」と視線を送ってくるが、ルシアーナは軽く頷いた。
(ヴィクトルからは“勝手に屋敷に来た客なら追い返してもいい”と言われたけど、もしかするとクロウフォード家にとって有益な情報があるかもしれない。何より、わたしが表舞台に立てる数少ない機会だわ)
ラトレイ令息と名乗る青年は、応接室のソファに腰を下ろすと、改めて名刺のようなものを差し出し、「ラトレイ男爵家の第三子、ロイ・ラトレイ」と自己紹介をする。ルシアーナも慣れた手つきで微笑み返し、「初めてお会いしますが、何かお力になれることがあれば伺います」と答えた。
ロイは目を輝かせながら語り始める。どうやら、彼の家は最近貿易を始めたばかりで、その拡大にクロウフォード家の持つ流通網を利用したいらしい。具体的には、航路の一部を共同で借り受け、相互に利益を分配する提案を検討しているとのこと。
「ただ、侯爵様に直接お話しする機会がなく、アポを取ってもなかなかご都合が合わない。そこで、夫人のお耳に入れておけば、多少は興味を示していただけるのではないかと……厚かましい考えかもしれませんが」
ロイの口調はとても丁寧で、下心を感じさせない。だが、ルシアーナはここ数日の屋敷内の書類を漁っているうちに、クロウフォード家の財政にもちらほらと“黒い噂”があることを知っていた。かつては潤沢な資金を誇っていたようだが、最近は黒狼とのトラブルもあってか、一部の取引先からは“リスクが高い”と敬遠されている可能性がある。
(なるほど、ロイはその隙間を狙っているのね。大貴族が困っているなら、こちらに有利な条件で提携できるかもしれないと)
商売の駆け引きとしては当然だろう。一方、ヴィクトルがこうした申し出を受け入れるかは未知数だ。なにしろ黒狼の件で神経をとがらせている今、追加の取引リスクを負う余裕はないかもしれない。
「あいにく、わたくしには夫の権限を代行する立場はございません。ただ、こちらから夫に伝言をしておくことくらいは可能です。もしご要望があれば、正式な日取りを改めて設定するよう提案しましょう」
ルシアーナがそう返すと、ロイは期待に満ちた表情で身を乗り出した。
「ありがとうございます、夫人! それだけでも十分助かります。実は、試作品としてこのような品を――」
彼は鞄から小さな箱を取り出し、中に入っていたガラス細工のような装飾品を見せる。海を渡った異国の細工人が作ったものであり、もしクロウフォード家のパイプを通せるなら大々的に売り出せる……というわけだ。
(商売そのものに悪意はなさそう。……でも、この場で勝手に決定はできないわね)
ルシアーナは苦笑気味に頷き、そのガラス細工を手にとって眺める。淡い色合いで繊細な彫刻が施され、確かに高級感がある。飾り棚などに置けば女性ウケは良さそうだ。
「きれいですね。ぜひ、この件は前向きに検討すると夫にお伝えしましょう。ただし、最終的な判断は侯爵がすることになりますので……」
「もちろんです! どうかよろしくお願いいたします」
ロイは上機嫌で頭を下げた。しばらく商談めいた話を交わし、やがて彼は「また改めて参上します」と言い残して帰っていく。
応接室に一人残されたルシアーナは、思わず肩をすくめた。
「わたしが想像しているより、クロウフォード家はずいぶんビジネス相手として魅力的らしいわね。黒狼との問題さえなければ、夫の財力はまだ健在ということ……か」
そう考えると、確かにフィオレット家を救うためにはこの“財力”が必要なのだ。だからこそ、ルシアーナは自分の意思でここへ嫁ぐ道を選んだのだから――と、改めて自分を奮い立たせる。
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