第24話 嵐とともに現れた黒い影
雨脚がさらに強まる午後、屋敷の正面玄関からざわざわとした声が聞こえてきた。ルシアーナは青の部屋で過ごしていたが、妙に胸騒ぎがして廊下に出る。すると、遠くからバタバタと忙しなく行き交う使用人の姿が見えた。誰か来客があるのかもしれない。
(……ヴィクトルの客?)
そう思い、玄関ホールの方へ行こうとすると、ちょうど廊下を曲がったところでヴィクトルの秘書と鉢合わせした。彼はいつもより緊張した面持ちで、ルシアーナに気づくと少し驚いたようだった。
「……夫人、こちらへは何か御用でしょうか? 今、少し取り込み中でして……」
「取り込み中? お客様ですか? わたしにも挨拶できるような方でしょうか?」
秘書は言葉を濁すように視線を逸らす。
「いえ……その、あまり穏やかではないので、夫人は部屋でお待ちいただいた方が――」
「穏やかではない? 何があったんですか?」
ルシアーナはその言い草に疑念を抱く。よほど厄介な人物が来ているのだろうか。まさか、また債権者が乗り込んだわけではあるまい。フィオレット家の借金はすでに清算されたはずだ。
「申し訳ありません、詳しくは……。ですが、くれぐれも外には出ないようお願いします」
秘書が困ったように眉を寄せた瞬間、奥から雷鳴にも似た怒鳴り声が響いた。
「――どこだ、ヴィクトルは! いい加減にしろ、いつまで俺たちを粗末に扱うつもりだ!?」
低く、太い声。まるで野獣が吠えるような響きに、ルシアーナは思わず身震いした。続けざまに使用人たちの制止する声が聞こえ、物々しい騒ぎへと発展している様子だ。
(なに……何が起きているの?)
その疑問が湧いたとき、廊下の向こうからあの“黒髪の男”が現れた。町で見かけた、不気味な雰囲気をまとった人物――間違いない。彼は雨に濡れた黒いマントを翻しながら、大股で屋敷の中を進んでくる。背後には荒くれ者のような男たちが数人続いており、使用人たちが慌てて止めようとしているが、まるで歯が立たない。
「くっ……! 勝手な行動は許されません!」
「ええい、手を離せ!」
激しい押し問答の末、黒髪の男は執事らを振り払ってさらに奥へ進もうとする。
「お前が……このクロウフォード家の新婦か? 噂には聞いていたが、ずいぶんと華奢な体だな」
彼の漆黒の瞳が、まっすぐルシアーナを捉えた。冷たい視線にゾッとする。まるで獲物を狙う猛禽のようだ。その一瞬で、ルシアーナはこの男が並々ならぬ人物であることを悟った。
傍らの秘書が彼女を庇うように立ちはだかり、「奥へお下がりください」と小声で促してくる。しかし、ルシアーナもただ怯えているわけにはいかない。状況が分からずとも、“この屋敷の夫人”として何かしら動かねばならないのではないか、と咄嗟に感じた。
――そこへ、階段の上からヴィクトルが現れた。灰色の瞳が鋭く光り、ひどく不機嫌そうな面持ちである。
「リュシアン・ブラックバーン……お前がわざわざ来るとは、珍しいな。この屋敷は俺のものだ。無断で上がり込むなら、それなりの覚悟があるんだろうな?」
ヴィクトルの声音には怒りの棘が見え隠れしている。一方、黒髪の男――リュシアンと呼ばれた人物はニヤリと笑い、挑発するように口を開く。
「クロウフォード侯爵殿、俺たちがおとなしく待っていれば、お前はいつまで経っても会ってくれないじゃないか。……こっちには時間がないんでな」
「黙れ。俺はお前たちとは何も交わすつもりはないと言ったはずだ。とっとと帰れ」
ヴィクトルとリュシアンの視線が火花を散らし、辺りはピリピリとした緊張感に包まれる。使用人たちは固唾を呑んで成り行きを見守り、ルシアーナもまた息を詰めていた。
(この男……やはり、クロウフォード家と何かしらの因縁があるのね)
すると、リュシアンが手を挙げて部下たちに制止をかけると、ヴィクトルに向かって低く唸るように言い放つ。
「いいだろう。今日は挨拶に来ただけだ。だが、俺たち“黒狼(ブラックウルフ)”はお前の出方をいつまでも待っているわけじゃない。……後悔するなよ」
そう吐き捨てると、リュシアンたちは踵を返し、荒々しく屋敷を後にする。残されたのは、嵐の中で強烈な余韻を残すその名前――“黒狼(ブラックウルフ)”。
(黒狼……さっき小さな書斎で見かけた紋章にあった“黒狼”と同じ……?)
ルシアーナの胸に、再びあの嫌な胸騒ぎが走る。どうやらヴィクトルには、危険な組織との確執があるらしい。それが彼の冷酷な性格や、家にまつわる不気味な雰囲気に関係しているのかもしれない。
階段から降りてきたヴィクトルは、使用人たちにきつい目を向け、低く怒鳴る。
「お前たち……二度と奴らを中へ通すな。次に来たら武装して追い返せ」
「は、はい! 申し訳ございません……」
使用人たちがバタバタと散ると、玄関ホールにはルシアーナとヴィクトルが二人で立ち尽くす形になる。激しい雨音が外から響き、不穏な空気がまだ渦を巻いていた。
(こんな……こんな危険な敵がいるのに、わたしは何をしてしまったんだろう)
気づけば、ルシアーナの指先は冷たく震えていた。先ほどのリュシアンの目つきは、まるで人を殺めることを何とも思わない野獣のようだった。
ヴィクトルはチラリと彼女を見下ろし、つまらなそうに吐き捨てる。
「……怖いのか? お前には関係のないことだ。余計な詮索はするなと言っただろう」
「そ、そうですか。分かりました……」
それだけを言うのが精一杯だった。ルシアーナはぎゅっと手を握りしめ、雷鳴のようなヴィクトルの声とリュシアンの姿を脳裏に焼き付けた。あの組織――“黒狼”――が何を狙っているのかは分からない。だが、いずれ自分も巻き込まれるのではないかという予感が、彼女の心を強く揺さぶっていた。
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