第10話 契約条項の再確認


 客間に入ると、秘書が書類鞄から何枚もの紙を取り出し、テーブルに広げる。そこにはすでにサインを交わした婚姻契約の要約と、挙式当日の流れ、クロウフォード家へ移ってからの生活ルールなどが書き連ねられていた。ルシアーナはそれらを一瞥しつつ、ヴィクトルの様子を探る。


 「まず、挙式当日のスケジュールは変更はない。昼前に礼拝堂へ集合し、あくまで形式的な式を執り行う。招待客はほぼなし。証人として数名が立ち会う程度だ。その後、車でクロウフォード家の本邸へ向かい、夕刻には新居へ落ち着く」


 淡々と読み上げるヴィクトルの声には、人間味が感じられない。ルシアーナは少しばかり呆れを覚えながら「承知しました」と答える。もともと知っていた予定なので、それ自体に意義はない。ただ、“ほぼなし”とされた招待客には、フィオレット家の家族すら含まれるのかどうか気になった。実際、母や妹は来られるのだろうか?


 彼がひととおり読み上げ終えると、秘書が目を通した書類を一旦まとめ、改めて言う。


 「ルシアーナ・フィオレット様におかれましては、挙式後は侯爵家の妻として公の場に立つ機会も増えるでしょう。クロウフォード家の名誉を損なう言動はご遠慮いただきたい。また、家の経済的事情や内部の動向を他言することも厳禁です。もし違反があれば、契約破棄の上、フィオレット家の負債をすべて即時返済させていただくことになります」


 最後の言葉に、ルシアーナは息を飲んだ。“この結婚を破棄したいなら、家もろとも破滅しますよ”と示唆しているに等しい。それが“白い結婚”という冷たい契約の重みだ。そう分かっていても、改めて言われると胸に重くのしかかる。


 「重々承知しております。……けれど、ひとつお願いがあります」


 ルシアーナが言いかけると、ヴィクトルは初めて少しだけ興味を示すように目線を動かした。


 「何だ?」


 「挙式当日、母と妹だけは式に同席させていただけないでしょうか。最低限の人数しか呼ばないのは分かりますし、大々的な披露宴は不要だと思っています。でも……家族だけは、娘の嫁入りを見届ける権利があるのではないかと」


 母フロランスと妹マリアナが来られるかどうかは、ルシアーナにとって譲れない点だった。限界まで体を押してでも、母はきっと式に出たいと言い張るだろうし、幼い妹にとってもそれは大きな節目になるだろう。ヴィクトルが「駄目だ」と言えばそれまでだが、ここで引き下がるわけにはいかない。


 しばしの沈黙が流れる。傍らの秘書は書類を整える手を止め、ヴィクトルの回答を待っている。ヴィクトルは深く息をつくようにして、低い声で言った。


 「……構わない。だが、多くは呼べない。数人以内に抑えるんだ。これ以上、余計な人間を呼んで騒がれるのは困る。結婚式はあくまで形だけでいい。下手に祝福されたいなどと思うな」


 最後の一言は、まるで“そんな暇があれば働け”とでも言わんばかりの冷淡さを帯びていた。しかし、少なくとも家族の立ち会いは許可された。ルシアーナは胸を撫で下ろし、「ありがとうございます」とだけ言う。ヴィクトルはそれに応えることもなく、さも当然というように視線をそらした。



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