第8話 思わぬ来客
挙式まで残り5日となったある日、ルシアーナはリディアを伴って町まで買い出しに出ていた。普段なら使用人を行かせるところだが、彼女自身が確認したい物があったためだ。もっとも、邸内にはクロウフォード家の監視役――先日の秘書らしき人間も頻繁に出入りしており、ちょっと気まずい雰囲気ではあったが、今のところは“婚約者の移動”を制限するような指示は出ていない。
それでも、慎重に人目を避けるように外へ出たのは、フィオレット家の事情をあまり大きく知られたくないという思いがあったからだ。すでに伯爵家の凋落は噂になっているとはいえ、変な詮索をされて挙式に支障をきたしてはたまらない。
町の中心部にある雑貨店や仕立て屋を回り、必要な材料を揃えていく。豪華な買い物はできないが、最低限の完成度を保つためには些細な部品でも疎かにはできない。レースを飾るビーズや糸、ドレスに合わせる小物など、ルシアーナは目利きの良さを生かして、質の良いものを最低限の出費で手に入れようとしていた。
「お嬢様、そのビーズでしたら、こっちの色のほうがレースと調和が取れるかもしれませんよ」
リディアが棚から取り出した薄紫のビーズを差し出す。確かに、紋章に合わせるならこちらのほうが自然に馴染みそうだ。ルシアーナは感心したように微笑み、
「ありがとう、リディア。いいわね、それ。値段は……ふむ、これならギリギリ予算内に収まるかしら」
と、少し嬉しそうにつぶやいた。この小さな工夫が、今のルシアーナにとっては大切な“生きがい”のようなものだ。愛のない結婚を前にして、せめて自分の誇りを装いの中に残したい――その一心で動いている。
必要な買い物を一通り終え、二人は裏通りを抜けて屋敷へ戻ろうとした。メインストリートを堂々と歩いてしまうと、知り合いや債権者に見とがめられる可能性があるからだ。まだ援助金が届く前だけに、余計なトラブルは避けたい。
ところが、裏通りを曲がりかけたとき、リディアがふと立ち止まった。
「お嬢様、あれを……」
視線の先には、何やら黒い馬車が止まっている。その馬車には、金色の家紋があしらわれていた。見慣れない紋章だが、かなり高位の貴族か、あるいは豪商のものではないだろうか。馬車の周りには数人の男がいて、中にはフードを深く被った不審な人物もいる。どこか物々しい雰囲気だ。
「……何かしら。ここはあまり人目に付く場所でもないのに、あんな立派な馬車で来ているなんて」
ルシアーナは訝しげに思ったものの、余計な詮索はしないほうがいいと判断し、足早に通り過ぎようとする。だが、そのとき馬車の扉が開き、ある人物が姿を現した。目が合ってしまったわけではないが、その存在感はひときわ異彩を放っている。
――黒い長髪を撫でつけ、瞳はまるで夜の底のように暗い色を湛えている男。
衣服は質が良いが、どこか人の隙を突くような風貌。高貴でありながら禍々しさを感じさせる雰囲気があった。彼が姿を現した瞬間、周囲の男たちが一斉に頭を垂れる。どうやらこの集団の中心人物は、この男らしい。
ルシアーナは思わず足を止めた。何か言い知れぬ不安が胸をよぎる。リディアも同じように固唾を呑んで、その男の動きを見守っていた。すると、男は馬車を降り、路地の奥へと姿を消していく。周りの男たちも続くが、その一人がこちらの視線に気づいたのだろうか。警戒するように睨んでくる。ルシアーナは慌ててリディアを促し、足早にその場を離れた。
(……何だったのかしら。あの黒髪の男――)
フィオレット家が関わる話ではないかもしれないが、貴族の馬車がこんな場所に止まっているのは異様だった。もしかすると、これから何か騒動が起きる前兆なのかもしれない。今はクロウフォード侯爵家のほうも敏感になっている。余計な火種に巻き込まれるわけにはいかない。ルシアーナは心を落ち着けるように深呼吸し、気を取り直して屋敷へ戻った。
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