第3話 幽霊のような屋敷
夕刻になると、フィオレット家の館は一層薄暗さを増し、広すぎる空間に閑散とした空気が漂う。借金の影響で多くの使用人を解雇せざるをえなかったため、館のあちこちが手入れ不足で荒れ始めていた。ルシアーナは、胸が苦しくなる思いで廊下や部屋を見回る。幼い頃には、こんなに寂れた様子ではなかった。かつては明るい笑い声が絶えず、使用人たちが活気に満ちた声を上げながら行き交っていたのに、今では一部の古参の使用人たちだけが、何とか館を支えている状況だ。
リディアや執事のエヴァン、料理長のマルコ、それに掃除をしてくれるメイドが数人。これが今、残されている使用人のほとんどである。どこをどう削ってももう限界に近い。それでも、皆がルシアーナに対して「お嬢様、ご武運を……」と微笑みかけてくれる。誰もが、ルシアーナが自分の犠牲を払って館を守ろうとしていることを分かっているのだ。
だが、その笑顔を見るたび、彼女の胸は締め付けられる。自分が本当に正しい選択をしたのか、今でも確信を持てない。ヴィクトル・クロウフォードという人物は、まるで氷の壁に覆われているように感じる。彼がフィオレット家を救うのは、まぎれもなくその圧倒的な財力のおかげだが、同時に、彼は情というものを一切感じさせない。婚姻関係をビジネス契約のように扱い、最初からルシアーナを“道具”として見ているようにさえ思える。
「——でも、これがわたしの選んだ道。嘆いていても仕方ないわ」
薄暗い廊下を歩きながら、ルシアーナは自分に言い聞かせる。いずれクロウフォード家に嫁いだのち、自分はどうなるのだろう。冷遇され続けるのか、それとも表向きだけは夫婦として振る舞いながら、実質的には孤独な日々を送るのか。
そのとき、遠くから何やら人の声が聞こえた。男性の荒い声——それは、執事のエヴァンの声だろうか。どうやら玄関ホールのあたりから響いているようだ。ルシアーナは足早に向かった。
「失礼ですが、お引き取りいただけませんか。今、当家は客人をお迎えできる状況ではなく……」
エヴァンの声が小さく震えているようにも聞こえる。誰かが玄関先で執事に食ってかかっているのかもしれない。これまでにも、取り立てやら冷やかしやら、ろくでもない来客が多かった。フィオレット家が没落しかけている今は、ここぞとばかりに難癖をつけようとする輩もいる。
ルシアーナが玄関ホールに駆けつけると、そこには痩せぎすの男性が数人、エヴァンを取り囲んでいた。明らかに貴族の出ではなく、まるでならず者のような風体だ。おそらくは金銭のトラブル絡みの輩だろう。彼らはエヴァンに威圧的に詰め寄り、支払いを求めているようだった。
「なんだ、お前ぇ。使用人風情が偉そうに。いいから当主を呼べ。いくらか取り立ての金が残っているんだろうが」
「そうだそうだ。こっちはちゃんとした依頼を受けてきてんだ。フィオレット伯爵家の借金はまだ全額返ってきちゃいねえぞ?」
その言葉に、ルシアーナの胸は鉛のように重くなる。確かに、正式な手続き上はすでに返済期限を過ぎている負債がいくつもあったし、今までは分割でなんとか誤魔化しながら凌いできた。だが、それももう限界だ。クロウフォード家からの援助金が届けば一括で返せる予定だったが、まだそれは振り込まれていないのだ。
エヴァンが毅然とした態度を取ろうとしているが、年老いた彼には相手が悪い。ルシアーナは、一呼吸置いたのち、落ち着いた声で割って入った。
「ご用件は存じております。ですが、本日は取り立てに応じることはできません。クロウフォード侯爵家からの支払いを待って、きちんとお支払いしますので、どうか今日はお引き取りください」
ならず者たちはルシアーナを見ると、いやらしい目つきで嘲笑った。女性である彼女が交渉相手となるなら、侮れるとでも思ったのだろうか。
「へえ? 随分としおらしいじゃないか、お嬢さん。お前さん、フィオレット伯爵の娘だったっけ? お仲間には悪いがな、俺たちも仕事で来てんだ。金がないなら身の回りのものを差し押さえるしかねえよな」
そう言って、男たちは勝手に館の中へ入り込もうとする。ルシアーナは動揺しているエヴァンを横目に、毅然とした態度でその前に立ちふさがった。
「お引き取りください。もしこれ以上、無断で当家の中に入ろうとするなら、衛兵を呼ばざるをえません」
男たちは、一瞬ルシアーナの強い瞳に気圧されたかのようにたじろいだ。しかし、すぐに嘲笑を浮かべる。どうせ没落寸前の伯爵家に衛兵など呼べるはずがないと高を括っているのだろう。このままでは、押し入られて館の品々を手当たり次第に奪われるかもしれない。さすがのルシアーナも、内心焦りを覚えた。まだクロウフォード家からの正式な財政支援が届いていない現状、彼らの要求を払拭する方法はない。何とか言葉で追い払うしかないというのが実情だった。
しかし、そのとき、廊下の奥から足音が聞こえてきた。振り返ると、そこには一人の男性が凛とした姿勢で立っている。小綺麗なスーツに身を包み、手に書類鞄を抱えたその姿は、先ほどヴィクトルに付き従っていた秘書だ。
「……こちらはクロウフォード家の管理下に置かれる予定の伯爵家だ。勝手に入り込むのは契約に対する冒涜だぞ」
秘書は冷静に、そして鋭い口調でそう告げると、男たちに書類の一部を見せつけた。男たちは「クロウフォード」という名を聞いた瞬間に、小さく身体を震わせる。大貴族であるクロウフォード家に刃向かうことがどれほど危険か、ならず者の彼らでも知っていたのだろう。彼らは途端に下手に出る素振りを見せた。
「こ、クロウフォード侯爵家……? そいつは、ちょっと話が違うな……」
「まあ、ここは一旦引き上げるが……また来るからな。金が揃ったら、きちんと返せよ」
そう捨て台詞を残すと、男たちはそそくさと館から立ち去った。それを確認すると、エヴァンはほっとした様子で肩を落とす。ルシアーナも同様に胸を撫で下ろしたが、同時に、彼女の心に複雑な思いが渦巻く。結局のところ、クロウフォード家の名がなければ、彼らを追い払うことは難しかった。伯爵家という看板は、もはや効力を失いつつある。その悔しさが、ルシアーナの胸を苦く染め上げる。
「助かりました。……ありがとうございます」
ルシアーナがそう言うと、秘書は事務的な表情のまま頭を下げる。彼は特に名乗りもしないが、どうやらヴィクトルの片腕として様々な案件を処理しているらしい。ルシアーナとしては、どのように接していいのか分からず、ただ礼を述べるにとどまった。
「こちらも、侯爵様から当家の状況を報告するように言われておりますので。なるべく早く借金の整理ができるよう手配しております。くれぐれも、ああいった輩にはお気をつけください」
実務的な言葉だけを告げると、秘書は足早に去っていく。その背中を見つめながら、ルシアーナはほのかな苛立ちと悔しさを覚えていた。確かに彼らに助けられたが、それもまたフィオレット家の威厳や力ではなく、クロウフォード家の庇護によるもの。自分たちはすでに守られる立場でしかないのだ。そこにあるのは屈辱感と、どうしようもない現実だった。
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