白い結婚 ~その冷たい契約にざまぁを添えて~
みずとき かたくり子
第1話
ルシアーナ・フィオレットは、濃紺のドレスを慎重にたたみながら、開け放したままの窓の外に広がる曇天を見上げた。その瞳には諦念と、それを払うかのような強い意志が渦巻いている。かつて華やかでありながらも穏やかだった日々は、家族の財政破綻という現実によって無残に壊されてしまった。貴族社会において“伯爵家”という地位を持つフィオレット家は、見栄えこそ立派だが、その実、借金で首が回らなくなりつつある。かつてはパーティの常連として名を馳せたフィオレット家も、今では館の維持費さえかろうじて工面し、使用人たちに充分な給料すら払えない状況だった。
ルシアーナが生まれて以来、この館はいつも優雅で、それでいて温かみを感じる空間だった。ルシアーナの母、フロランス・フィオレットは気品に満ち、誰からも慕われる女性だったし、父のエドゥアルド・フィオレットは社交界でも名の通った人格者だった。もし、あの悲劇が起こらなければ――そう思うと、彼女の胸には今でも痛みが走る。フィオレット家を立ち行かなくさせた最大の要因は、父が手を広げすぎた外商との取引の失敗と、そこに続く詐欺被害である。経済的な信用を失ったことで、資金繰りは思うように回らず、多くの関係者が離れていった。そして今、屋敷の中には“形だけの伯爵家”を象徴する品々だけが残され、じりじりと追い詰められている。
「——お嬢様。そろそろお時間でございます」
ドアをノックしながら控えめに声をかけてきたのは、ルシアーナが子供のころから世話をしてくれている侍女頭のリディアである。リディアは幾分か心配そうな面持ちを隠せずにいた。年の頃は五十手前だろうか。ルシアーナが幼いころから、良き相談相手としてそばで仕えてくれた忠実な使用人だ。彼女の胸にもまた、フィオレット家の現状に対する嘆きと、愛する主家を何とか守りたいという一心がうずまいている。
「分かっているわ、リディア。……すぐ行く」
ルシアーナはそう告げると、最後に指先でドレスの皺を整えた。そして一つ深呼吸をして、部屋を出る。これから向かう先は、このフィオレット家が選んだ“最後の手段”を正式に決定する場でもあった。
屋敷の廊下を歩きながら、ルシアーナは考えを巡らせる。これから自分が向かうのは、来客用の応接室だ。そこでは、侯爵家の当主でありながら若くして社交界を牛耳る男、ヴィクトル・クロウフォードが待っているはずだ。彼との縁談——いや、実際には“契約結婚”と呼ぶほうが適切だろう。家名を守るため、そして借金を一瞬にして清算するために、ルシアーナは彼との政略結婚を引き受けることになっていた。
“クロウフォード侯爵家”は、今、貴族社会でも抜きん出た財力と影響力を持つ家系である。その当主であるヴィクトルは、先代から受け継いだ莫大な資産をもとに、複数の事業を手広く展開している天才的な実業家だ。しかし、その青年侯爵には冷酷で冷たい人間性があると、噂されていた。社交界で見かけても、その整った容貌とは裏腹にまるで近寄りがたい空気をまとっている。愛想を振りまくどころか、他人を拒絶するかのような鋭い目つきで、誰も彼に気軽には話しかけられないのだと。だからこそ、彼の真意がどこにあるのか、どのような人物なのか、噂はあれど正確な情報を得ている者は少ない。
そんな男が、なぜ没落しかけた伯爵家の長女と結婚をするのか——その真意を知る者は、今のところ誰もいない。まさか好意からの婚約申し込みではないはずだ。むしろ、財政難を抱える伯爵家の“名目”を買いたいのだろう、と誰もが推測している。そもそも契約の条件は、「妻となる人間には一切の愛情を注がない」「クロウフォード家のイメージを損ねない程度の振る舞いをする」「決して当主の権力や財力に口出しはしない」という、どこまでも冷たいものだった。もしルシアーナがこれを受け入れるなら、フィオレット家の抱える膨大な借金の全てを肩代わりする。それがヴィクトルからの提案である。それはあまりに一方的な取り決めだった。
今までのルシアーナなら、こんな話には決して乗らなかっただろう。たとえ伯爵家が傾きかけているとはいえ、彼女には矜持があったし、“貴族らしい誇り”を捨ててまで相手の慰み者になるような屈辱は受けたくない。けれど、母や妹、そして最期までフィオレット家を守ろうと奮闘して亡くなった父のためにも、彼女には“家”を存続させる義務がある。少なくとも、フィオレット家が自分の代で名声を地に落とし、すっかり潰えてしまうのを見過ごすわけにはいかないのだ。
気づけば、自分の足取りは重く、まるで綱渡りをしているかのように慎重になっていた。リディアが、少し心配げに視線を送ってくる。その気配を感じて、ルシアーナはほんの少し笑みを返す。
「大丈夫よ、リディア。——わたし、ちゃんとやり遂げてみせるわ」
そう呟く彼女の瞳には、怯えよりも決意が宿っていた。貴族として産まれたからには、最後まで貴族としての意地を見せる——そんな強い意志がそこにある。扉の前に立つと、執事が扉を開けてくれた。コツコツ、と硬い床を踏む靴音が応接室に小さく響く。
部屋の奥に目をやると、ソファに深く腰を下ろし、悠然と足を組む男がいた。灰色がかったプラチナブロンドの髪はきっちりとセットされ、その顔立ちはまるで彫刻のように整っている。それが、ルシアーナが今から契約を結ぶ相手——ヴィクトル・クロウフォードだった。彼の傍らには、秘書らしき男性が書類を数枚手にして控えている。
「……お初にお目にかかります。クロウフォード侯爵様」
ルシアーナが視線を落とし、慎ましく一礼すると、ヴィクトルは彼女を一瞥しただけで、ほとんど反応を示さない。しかし、目の奥には僅かな光の揺れが見えた。形式的な挨拶すら必要ないとばかりに、彼は一言だけ言った。
「お座りください」
丁寧とも無愛想ともつかない、どこか冷徹な響きをもった声。まるで業務連絡をするかのようだ。通常、初対面であれば当主として最低限の挨拶を交わすものだが、彼にはその気配はまるでなかった。まさしく噂通りの“冷たい侯爵”という印象に、ルシアーナは内心溜め息をつく。もっとも、これが初対面だからといって彼の態度に戸惑っている場合ではない。ルシアーナは、自らの意思で結婚の形を受け入れなければならないのだ。
ルシアーナがソファに腰を下ろすと、ヴィクトルは言葉を続けることもなく、秘書に顎をしゃくった。すると、秘書は手に持った書類をテーブルに広げる。そこには細かい文字でびっしりと条項が並んでいた。それを目にしながら、ルシアーナは胸の奥が冷たくなるのを感じる。
「これが婚約契約の書類となります。ルシアーナ・フィオレット様、改めてご確認いただきたいのですが、まず大前提として、今回の結婚は“クロウフォード侯爵家”の要求を満たすことが第一となります。つきましては、愛情を求めない、後継ぎを求めない、婚姻関係を維持することで得られる社会的信用をお互いに利用する……こういった条件が明記されております」
秘書がそう言うと、ルシアーナは一度だけ首を縦に振る。すでに話は聞いているが、こうして文字として見ると改めてその非情さを痛感する。そして最後に残酷に記されている一節があった。
——「双方の合意があれば、いつでも婚姻の解消が可能。ただし、契約締結後はフィオレット家の財政をクロウフォード家が管理することとし、離縁の時点でフィオレット家に返せない負債がある場合、伯爵家の財産一切をクロウフォード家が接収する」——
ルシアーナは無意識に喉を鳴らした。つまり、この婚姻により借金が清算されたとしても、離縁する段階で再び負債が生まれていたら、そのときは全てを失う可能性がある。再起不能になるかもしれないのだ。
(……もっとも、だからこそ今、わたしが生贄になることでしか、家を守る術はないのかもしれない)
そう思うと、ほんのわずかに肩を落としそうになった。しかし、ここで弱音を漏らしてはならない。フィオレット家の当主代理であるルシアーナが、気丈に振る舞わなければ誰が守るというのだ。
「契約書の内容は理解しました。……私どもには、これ以外に道がないと重々承知しております。ですから、ここに記名し、婚姻を結ぶことに異論はございません」
ルシアーナが固い声でそう答えると、秘書は淡々とした態度のまま、羽ペンを差し出してきた。彼女は静かにペンを受け取り、書類の指定された欄へと名前を記す。ペン先が紙をこすれる音は、やけに大きく響いたように思われた。
書き終わったペンを置き、ルシアーナはおそるおそる顔を上げる。すると、ヴィクトルは興味がないとでも言わんばかりに視線を投げかけただけで、また別の書類に目を移してしまった。彼の態度には微塵の感情すら感じられず、ただ「形式的に済ませている」様子が透けて見える。その冷たさに、少なからず胸がちくりと痛んだ。
「ヴィクトル様にもご署名をお願いします」
秘書が促すと、彼は無言のまま書類に目を走らせ、素早く署名をした。全くためらいのない、その筆跡。彼にとっては、これがただの“ビジネス契約”に等しいのだろう。ルシアーナは複雑な思いを抱えたが、それを表情に出すまいと必死に堪えた。
これで婚約は正式に成立した。あとは、1週間後に執り行われる結婚式を待つだけだ。いわゆる華々しい宮廷式ではなく、内輪の簡素な挙式に決まっているのも、クロウフォード家からの指示だった。世間体のために最低限の儀式だけは行うが、大々的に披露するつもりはない、ということだろう。ルシアーナにとっても、過度な注目を浴びたくなかったので、むしろ都合が良いと言えば良い。
「では、これにて契約は成立です。おめでとうございます、と言うべきかどうかはわかりませんが……」
秘書は多少皮肉めいた口調でそう言うと、丁寧に一礼して書類をまとめ始めた。その背後で、ヴィクトルは何も言わずに立ち上がり、すぐに部屋を出て行こうとする。ルシアーナのほうを一瞥すらしない。そのことに、さすがのルシアーナも、いささか戸惑いを覚えた。とはいえ、もともと愛想を期待してはいなかったし、ここで引き止める理由もない。
しかし、部屋を出る直前、ヴィクトルが唐突に口を開いた。
「挙式の日まで、あなたは伯爵家で待機していてください。こちらから連絡が行くまでは、この屋敷にいてもらう。……何か問題があるなら言いなさい」
ヴィクトルは振り返らないまま、扉のほうを見据えたまま低くそう告げる。その言葉は、まるで「あれこれ言わずに大人しくしていろ」と念押ししているようにも聞こえる。ルシアーナは喉の奥で言葉が詰まるのを感じたが、ここで無闇に反発したところで何も得はないと悟り、控えめに答えた。
「……承知いたしました。特に問題はございません」
それを確認したのかしないのか、ヴィクトルは扉を開け、そのまま退出していく。扉が静かに閉まる音が響くと、応接室にはルシアーナとリディア、それに秘書だけが残った。リディアは少し険しい表情をしているが、主人に意見するような無礼は働けない。ルシアーナは重いため息をつくと同時に、これで全てが決まったのだと頭を切り替えた。
「……リディア、部屋に戻りましょう。今日のところはもう、用事は済んだわ」
彼女の声には気力が削がれた感がありありと表れていた。自分の人生を“クロウフォード侯爵家”という巨大な存在に捧げる代わりに、フィオレット家が生き延びる。それは理屈としては分かっているが、決して心が晴れる話ではない。ひとまず、ルシアーナは自室に戻りたいと思った。
扉を出ようとしたとき、秘書が言いにくそうに声をかけてきた。
「フィオレット伯爵家の皆様には、クロウフォード家から後日援助金が振り込まれ、すぐに借金返済ができるよう手配がなされる予定です。……ですが、どうか、挙式までの間、あまり目立った行動はなさらないほうが宜しいかと。旦那様(ヴィクトル)のご意向を損なう可能性もございますし、何より、婚姻契約に違反する恐れも……」
その言葉を聞きながら、ルシアーナは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。“最初からそういう扱い”なのだ。あくまでも“従うこと”を前提にしており、勝手な振る舞いをさせない。その念押しとしてのアドバイスである。ルシアーナは小さく頭を下げると、無言のまま部屋を出た。
廊下に出ると、リディアがそっと彼女の隣に寄り添う。その瞳には、言いたいことが山ほどある様子がありありと滲んでいる。だが、ここはフィオレット家の館とはいえ、今やクロウフォード家からの使いが出入りしている。変な噂が立つと厄介だ。リディアはそのあたりの事情をわきまえているからこそ、何も言わずに付き従ってくれている。
「……ありがとう、リディア。部屋に戻ったら話しましょう」
ルシアーナがそっと耳打ちすると、リディアは静かにうなずいた。
こうして、ルシアーナとクロウフォード家の“冷たい契約”は動き出した。挙式まではもう1週間しかない。その間に、ルシアーナが何を思い、どんな決意を固めるのか。それが、今後の人生を大きく左右していくのだろう——彼女はまだ、その現実の大きさを本当には実感できていない。
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