ACT.1 "BREAK" 2
※
自分の命よりも他人を大切だと思う事はまるで薬に酔っているような気分なのだが実際のところは薬などではなく脳の中で分泌される麻薬の見せる幻想なのだ大脳辺縁系で分泌される麻薬の量が最大に達した時に人を狂わせる最大の幻想である恋愛感情が生まれる恋だの愛だのいうモノは既に科学によって見極められた幻想だその幻想に囚われたまま生きることはなんと惨めなものなのだろうがそれでもその幻想を無くしては生きていけないほどに幻想に弱められた者もいる宛ら麻薬に身体や精神を蝕まれながらも禁断症状を恐れて離れることが出来ないジャンキーのようなものだそんな人生は御免だそんな惨めにモノになってたまるかそれでも離れることが出来ないのは何故なのだ愛しいと今でも思うその声を思うだけで幸福な気分になり笑顔を思い浮かべるだけで全てが満たされるのは一体なんなのだこの恍惚感を失いたくないのならばその記憶を糧に余生を過ごせばいいのだしかし何かをするごとに気付かされるのは全てがその記憶に繋がることだけに思えること
イトシイ
愛しているのだろうその対象だった者が消え去ってしまった今でさえもだからこそ彼女を死に追いやった全てに復讐をせずにはいられない自分を思えば
「みどり」
※
オレにとっての衣琉は、
仲間。
友達の妹。
友達。
妹。
その全てでありながら、どことなく畏怖するべき存在だとすら思えるのは一体なんなのだろうか。畏怖。畏怖? 怖いのか? 畏怖? 畏れているのか?
オレの内にある衣琉。
オレにとっての衣琉。
「ちょっと鳴砂……半分もご飯残ってるじゃないの、具合でも悪いの? ならなおさら食べなさいよ?」
夕飯がすき焼きで嬉しいハズの時でも滋留の言葉は回り、
「おーい鳴砂ぁ! 何時間風呂に入ってるつもりだ!?」
風呂に入ってぼんやりと換気扇周辺の、ゆずエキス配合入浴剤の所為で濃い黄色になった水滴を見ていても滋留の言葉は回り、
「————————……」
いつまでも——
『お前にとっての衣琉って、なんだ?』
滋留の言葉は、耐えずオレの中に回り続けていた。
「鳴砂、お前いつまで盥洗ってるんだ」
「—————……」
「……鳴砂っ!」
「うを!? お……親父、いきなり耳元で叫ぶなよ!」
心臓がドクドクならずバクバクと脈打っている、くそ動悸がウルセエ……いっそ心臓止まりやがれってんだ——止まったら困るだろ。大混乱か? 自分。
親父はトレードマークのねじり鉢巻を薄くなった頭に巻き直しながら、オレの顔を見ていた。この親父を見る度に意識しているとしか思えない魚屋振りに脱帽させられる……ねじり鉢巻にゴム長に店名入りエプロンだぞ? この時代に生息しているべき者じゃない。
物言いたそうだったので、オレは蛇口を捻って盥を洗っていた水を止める。それと同時に、機を見計らうようだった親父が口を開いた。
「帰ってからこっち、上の空じゃねぇか。なんだ、学校で苛められでもしたか?」
「自分よりでかい息子になに言ってんだよ」
「オウそうだな、チビじゃあなかったか。じゃあ何だ? 応援団から追い出されて寂しいのか、コラ。高校行ってまたやりゃイイじゃねえか」
「違うっつーの……。なんでもねーよ、別に」
「けっ、親父を信用しろ、かあちゃんには黙っててやる。女のコトか? 中坊の分際で」
「オンナっちゃあオンナだ……が……」
オンナ? 女だと?
あれも女か一応——やめろっ、余計わからなくなってくる。
あいつが女? 女——た、確かにそれ以外には見えない、確かに女だ。少女だ。でもそれを意識しちゃならない、少なくとも今は。
あいつは仲間だ。女とか、そういうモノで仕切ることを考えたことがなかった——アレはただの衣琉。それ以上も以下も無い、女でももちろん男でもない衣琉だ。
もし女として見たらどうなる?
チビだけれど顔は可愛い方だろう。眼も大きいし、何所も細くて頼りない……感じは、する。この際は小さいってところもそれなりの評価になる、庇護心をそそるとか。運動神経もいい、身軽だし。それに加えて頭も良くて家柄もあって——ちょっと待てよ。
考えたらそうそういない、逆玉の輿に乗りたいぐらいの女じゃねーか(オレにそういう考えは無いが)。
衣琉の事をどう思う? 女として見たらそういう評価だ。
衣琉として見た途端にあやふやになる。近頃よく見せるようになった、不安そうな表情。不確定で不安定な物腰。泣き出しそうな眼差し。
……なんだ?
なんなんだ?
「ははぁ、近いところでいつも迎えに来る倭柳ちゃんかな」
「なっ」
倭柳と言うのは衣琉の事である。
「お、図星か? なんだ、迫ったのか? それで平手でも食らったか」
「——てねぇよ! だ、大体別にそういうコトで悩んでるとかじゃなくてだな」
「じゃあなんだよ」
この親父なら息子が犯罪者と聞いても動じなさそうだが「親父でも教えられんっ!」
「ケチ……かあちゃんに言ってやる」
「言うなぁ——っ!」
……オレにとっての衣琉はなんだろう……。
衣琉は、ダレなんだ?
「あっ、ナルナル今日は随分早いんだぁ? ——って……なにその顔? なんか寝不足してなァい?」
「あー……」
オレは上の空で眼につくったクマの辺りをボリボリと掻く。滋留の所為でまったく眠れなかったと言うのに、その滋留は今日もオレの自転車に寄りかかってスヤスヤと寝息を立てている。イラついてつい少々本気で蹴りをいれるのだが——クソッ、起きやしねぇ。
「起こさないであげてよぅ? 滋兄疲れてるから」
「疲れてる? 生徒会の仕事補佐役に思いっきり押し付けてて、何に疲れてるんだよ」
「……滋兄ね、苦労性で貧乏性なの。外面は死守するでしょ? 体面、死んでも守るでしょ? 滋兄はね、自分が貰われっ子だってコトを擬似的にでも忘れられないヒトなの。僕みたいに忘れたフリして生きて行こうって思いつけないヒトなの。だから、そう言う境遇を覆せるぐらいにいっぱい頑張るから——お義父さんやお義母さんをガッカリさせたがらないヒトだから、気を抜けるところってホンとに少なくて」
……のほほんとして、悩みもなさそうで。
羨ましいほどに小春日和のオーラを発散してる、
オレの知ってる滋留はそんなヤツ。
「僕とかナルナルとかね、あと綾姫ちゃんとかエンちゃんとか。すごく少ないヒトの前でだけ、被ってる猫を外すの。ホントはすごくすごく疲れてるのに、真面目だから息抜きも出来なくて……だからね、こーゆー滋兄はホント。そーゆーのを晒せるのは僕やナルナルの前だけ」
「……器用貧乏……か」
「そうそう、そんな感じ。そのクセ欲張りにも博愛主義でなきゃイヤだってヒトなんだぁ。だから、みんなが幸せになれる道を探すの。……最良の選択を採っても、不幸になるヒトは必ずいるっていうのにね」
滋留は、みんなが幸せになる道を探している。衣琉を幸せにしたいから冷静さを偽る。宇都宮の爺さんが残した遺言の為に泥棒の片棒を担ぐ。
ならば、
昨日の言葉の意味は?
昨日の言葉も誰かの幸せにかかわることで、オレがそれを考えなきゃ誰かが幸せになれないというのか? だとしたら、一体誰が?
朝はいつものように慌ただしい駆け足で過ぎ行く。カーブの余波で宙を舞い、それでも起きない滋留をおぶ紐でしっかり固定して。
オレ達の日常。もう来ない季節。もう来ない今日。
それを楽しむことは自然だった。
『お前にとっての衣琉って』
オレにとっての衣琉ってのは——
『なんなんだ?』
……なんなんだろう。
「聞いてよ瀬尋ぉ〜〜っ……」
「なんだ……どーした早川」
後で聞いた話によると、本日早川の嘆きを聞かされたのはどうやらオレが四人目だったらしい(不吉な数字だ)。
「だってねだってねぇ、シゲくんひどいんだよ、一身上の都合により欠席なんて言って……僕だって副会長職の引継ぎで忙しいっていうのに、昨日の下校時間何時だと思う? 九時だよ? 記録物だよこれはっ」
滋留は大体において親しい人間に『シゲ』と呼ばれている。
「それでも君とシゲとシズちゃんは三人仲良くお手て繋いで楽しく下校してて」
「って見てたのかよ」
「——見たくなかったけどしょーがないじゃないか見えちゃったんだからッ! 生徒会室から玄関は伏角四十五度で見えちゃうんだよっ!」
「測ったのか」
「てないけどっ」
ヒトの机上でシクシクサメザメとやりだす早川にオレは少々同情する。本来は滋留よりも早川の方が会長職を担うに適材だと思うのだが、どーもコイツは地味な副会長と言うモノを好み……と言うか、『レッツゴー盛り上げて行くぜ縁の下』をモットーにしている奴だから、可哀想なことに暴君滋留の後始末を一手に引き受けさせられているのだ。不憫なことこの上ない。
「シゲってばさぁ、ヒトの前で猫被るじゃん? あいつ永遠にあの餌のいらない猫と一緒に暮らしていくのかなぁ」
「じゃねーの? 外面仮面滋留の恐怖」
「そしたら大概本性知ってる僕とか瀬尋とかに皺寄せ来る?」
「来るだろうな」
「僕もうこんな暮らし耐えられない、もう金輪際絶対シゲのフォローなんかしてやらないんだっ! 僕は自由になるったらなるんだぁ!」
本気で同情する……今回はかなり参ってるみたいだぞ早川。一体昨日どんなことがコイツらの間にあったんだ、てゆーか滋留はいったい何をしたんだ?
「なにがあった、オニイチャンに話してみなさい」
「オニイチャン、シゲは昨日の放課後に新旧生徒会役員に召集を掛けて引継ぎ過程の状況報告をさせたんだ、そしたら流石に会長職はイロイロ多くて遅れてることが判明したッ! 彼はなんと言ったと思う? 『副会長職が大体終わってるなら、ちょっと頼むよ。今日中に移行終らせてくれ』だってよ!? 僕は新会長の上月君と一緒に九時まで粘る羽目に陥ったよっ、僕はもうあんな暴君の下につくなんて耐えられないぃ〜〜っ!」
「わかったわかった、どうせそれも中学生活と共にもう終わりだろ?」
「瀬尋っ、シゲが外部の高校に行くと思ってるの? どうせ高校でもあの暴君と一緒に多分強制的に僕はそういう職へと引き摺られていくことがわかってるんだ、自分の死が見えている僕の気持ちがお前にわかるか————っ! 瀬尋のスカポンターンッ!」
「死!? 死を持ち出すほどか!?」
「ああそうさ、死ぬほどつらいっ! もー死んじゃうぅ————っ!」
早川はオーバーアクションで再びメソメソとやりだす。周囲はそれを見てまた始まったと笑い出した。
「もー、僕もうヤだよぉ〜〜っ……」
「はいはい……」
暴君の滋留。——オレの知るジル。あいつは顔を使い分ける。イルの前では冷静であることを決めたサポーター、養父母の前では優等生の息子。生徒達の前では温厚そうな生徒会長、そして本性を知る者の前では暴君ってゆーか根性ワル。——オレが知るのは取り敢えずその四パターン。
なんとゆーか、あいつの顔は一定しない。普段は飄飄としながら全てを脇に受け流して、何も塞き止めることもせず……
砂みたいにサラッとしてるのは、どんな顔の時も一緒だけれど。
最初に会った時は二人共完全無欠のスーパーマンのように見えたのに、時間が経つとイロイロと見えてくる。滋留の本性、衣琉の本音。
形が一定しない、砂細工のような滋留。
不安定で不確定な水のように頼りなげな衣琉。
最後のミッションを前にして感じ取ってしまう二人。
——苛立ち紛れに、オレは寝不足の所為で痒い目の下を思いきり掻き毟った。
「あっ、ナルナルに滋兄っ」
玄関で待ち伏せていた衣琉に声をかけられ、階段で合流したオレと滋留は顔を上げる。衣琉の傍らには莫根がすっかりいつもの調子で佇んでいた。
さっさと帰るべく(そしてミッションに向けて体力と気力を温存すべく——なんてったって滋留の所為でたった一日の間に無駄に狼狽をし、疲れている)オレ達は扉に向かった。
少々規格ハズレな規模をしている所為で十波ヶ丘系列の学校には正門やゲタ箱と言う物がない。まだるっこしいし、混雑がすごいからだ。こうやってそういう物を撤去していても、玄関ホールには生徒がかなりの数いて結局は混雑——あっ。
「ほかぁ————くっ!」
「ぅへぇ!?」
奇妙な声をあげて滋留が仰け反る。行動が起こるよりも一瞬早くその存在に気付いていたオレでもあまりの突飛さに度胆を抜かれ——爆笑をこらえる。
「あはっ、あははははははっ! 捕まえたよ滋留クン、随分良いご身分じゃないかこんなに明るいうちから帰路につこうだなんて! 心配しなくても君の分のお仕事はとても沢山残しておいてあげているんだからね、さあ生徒会室へレッツゴーしようかぁっ!」
「え…エン!? ちょ、ブレイクっ…」
「聞こえないね、ああ聞こえないとも、君にはいつか復讐をせねばならないと思っていたのさ、あ——はははははははははッ!」
隙をついて背後から忍び寄り滋留の首に腕をかけていたのは——言わずもがな、逆襲の早川。昨日のコトはかなり根に持っているな、なんてったって目が血走ってる。ずるずると滋留を引き摺って五階の生徒会室へレッツゴーの予定のようだ。
「助けて倭柳——っ! 瀬尋——っ!」
「因果応報、南無阿弥陀仏」
「エンちゃん怒ってるから関わりあいたくない」
「あああ〜〜〜〜っ!」
淡白な妹と薄情な友人に見捨てられた滋留は、悪魔の如き形相の早川に連れられ退場の様子。赤い靴を履いていた女の子の様だ……異人さんに連れられてグッドバイ。滋留の声が谺し、更にその上から早川の声が——まるでピザの上にトッピングされたチーズの如き粘っこさで——覆い被さって…フェードアウト。
因果応報とは存在するらしい。天の神様はちゃんと人間の行動を見てるんだなァ。
「エンちゃんキレてたけど、滋兄ってば何したの?」
「会長職の引き継ぎ全部押し付けたらしい」
「あー……エンちゃん、不幸の二等星だもんね。どーする? 先に帰っちゃおうか」
「そうだな」
「じゃーねぇキョウちゃん、まった明日っ」
「うん、じゃあねィ」
莫根に手を振り、衣琉は折り畳んでいたキックボードを広げる。オレは自転車の鍵をポケットから出して、その脇をいつものように並んで帰った。
『お前にとっての衣琉って、なんだ?』
わかんねえよ滋留。妹っていうのが一番近いような気がする、放っておけなくて(あくまで)見た目がどうも頼りなげで。
何処かでひどく不安定、ゆらりゆらりと振り子かヤジロベエみたいに。
見えない。不透明。
なのに何処かでひどく透き通ってる。
時々思うイルの表情。
コイツは涙を流した事は無い。
けれど笑ったことも無いような気がする。
どうして滋留はオレにあんなことを聞いたんだろう? 滋留は言わなきゃならなくなる時が来るといった。それも、近いうちに。
衣琉も滋留も、
何を思って行動をしているのか——……。
本人じゃないんだから、オレがわからないのは当たり前なんだがな。
「ねえナルナル、僕ちょっと寄り道するけどいいかなぁ?」
オレを見上げて衣琉が唐突にそう切り出す。この身長さえなければ、そして童顔でなければ———普通なんだろうけれどなぁ。童顔って中一なら童顔で当たり前なんだがコイツの幼さは郡を抜いている。大きめの眼とよく喋る口の所為だろうか、要点を脳で濾過して伝えないからなのか。
「あ? 珍しいな、どこにだ?」
「近くだよ、英公園ってあるでしょ? あそこ」
…はて、近く? それでハナブサ? …知らない名前だ。
「…どこの…公園だ?」
「あれ、ナルナル地元民なのにっ…。あ、もしかして『エイ公園』とか読んでない? そして呼んでない?」
「あ、エイ公園ならわかる」
「——……」
「……なんだよ」
「読めなかったんだぁ……」
「え、あれってハナブサって読むのか? そんなの習わなかったぞ!?」
「いや、辞書に乗ってないかな。ま、とにかくそこに寄り道したいのッ……ダメ?」
「……別に、いいけどなっ」
オレはブスッとした口調でそう告げた。
「ここで、お祖父ちゃまに会ったの」
常緑樹の葉に埋もれるような緑色のベンチに向かってしゃがみながら、数秒間手を合わせていた衣琉が、そう呟いた。
「お祖父ちゃまに会ったのはね、春と夏の間みたいな頃だった。そのすぐあとの夏休みから僕の素性教えられて、『イロイロ』の準備期間に入ったんだ」
立ち上がった衣琉は振り向き、オレの方を見る。しかし視点はオレより遠く、向こう側の小さな花壇へと合わせられている。
「暑い日だった。お祖父ちゃまは息抜きに行こうか、って僕をここに連れ出してくれた。あの時の僕は突然押し付けられた役目が降って湧いた災難みたいに思えてね。こなさなければならないノルマのあまりの膨大さに、かなり参ってた」
オレは思う。
暑い夏の日、陽光を弾く光沢を持つ常緑樹の葉。杖に顎を凭せ掛けながらにこやかに、羽根を伸ばす孫を見据える優しい眼差し。緑のベンチに映る木洩れ日。涼しいようで蒸し暑いような、着流しの中に吹き込む風。二年前の、自分の素性を知らされたばかりの衣琉は、当然ながら今よりも少しだけ幼い顔をしていた。
弱そうで、すぐに壊れそうな。けれど今と変わらない何かを保っているような、ソレはずっと瞳の中に針先ほどの小ささで輝き続けているような、
それはまるで小さな太陽を眼に飼っているような——……。
イルに惹かれた奴は皆、幸か不幸かソレを感じとってしまった奴らなのだろう。
この子を待つ運命に挫けぬように
強く強く育てねば
この子のためにも
水鳥のためにも
青い空と緑の樹影。自分の心臓がゆっくりと休んでいく音に耳を澄ませ、オレは思う。何を思う?
不思議と感じない恐怖を思ったのか、どこかで自分を待っている家族を思ったのか。
ソレは多分、
「それでね、それが最後」
最後?
オレの意識が現実に戻る。
「お祖父ちゃまはね、このベンチに座ったまま動かなくなった。このベンチに座って、こう……杖に顎を凭せ掛けたままで、亡くなったの」
死んだ? 目の前で?
「結構ね、お年を召していたから。僕や僕のお母さんの事での心労も重なって、かなり弱ってたんだって。あとで伯父さまが教えてくれたんだ」
「衣琉っ……」
「笑顔を浮かべていたんだ。何か、死の寸前によい夢でも見れたのかもしれないって、綾姫ちゃんは言ってくれた」
「衣琉」
「今日はお祖父ちゃまの誕生日だからね、お祝いしてあげるの。命日に来たんじゃ辛気臭いって嫌がるようなヒトだったし……お墓でもなく、一番一緒の時間を過ごした場所で言ったげた方がいいかな、って。お誕生日オメデトウございます、お祖父ちゃま」
衣琉は笑った。曇り空の下で、青と緑とに彩られた日を思いながら。
あの青い空と、常緑樹の木洩れ日の下。
出会って別れた運命を思いながら。
……運命ッてのはなんなんだ。定められた宿命? 昨日一睡もできず悩んでいたオレや、今複雑に衣琉を見るオレは、最初から決められていたとでも言うのか?
最初から決まってた? 最初ッてのはいつだ。
決められてた? 決めたのは、誰なんだ。
運命なんかではなく、それは偶然だった。もしくは造られた偶然——必然だったんだ。
確率論も結果論も結局答えはそれこそ神のみぞ知るところ。じゃあ、神は誰だよ。
神なんてのはいない、苦しい時しか信じたことはない。
神を恐れた事はない、その怒りも恐れた事はない。
オレが恐れるのは、居心地のいい仲間を奪われることだけだ。
「ねえお祖父ちゃま、僕は強いよ。僕はもう弱くないよ、見ていらっしゃるなら知っているよね? 僕はね、弱くないんだよ。……たとえ」
風が吹いた。
オレは顔を顰める、砂埃が目に入った。ベンチを見ながら祖父さんに話し掛けているようで…自分に何かを言い聞かせているような衣琉。その髪が風に舞う。中途半端な長さのその髪が、風に掻き乱される。
「——と闘うこととなっても——……」
イルだった。
見えた横顔は、衣琉ではなくイルだった。もう一人の衣琉。もう一人のイル。真実の名を持つ怪盗である時の、———イル。
「僕は闘えるよ。誰かのためになんて生きても無意味だよね、誰かを幸せにしたいと思ってとる行動だとしても結局は幸せになった誰かを見て自分が幸せになりたいだけなんだもの。だからね、僕は僕のために生きるよ。あなたの望む道を僕が歩んだとしても、それがあなたの御遺志の上に無い事だけは覚えておいてくださいますよう。お願いしますね、お祖父ちゃま」
大人びたような顔は嘘だった。
最近見るようになった、儚げな衣琉は——
最近見るようになったんじゃない。ずっと見ていたんだ、ただ感じかたが変わってしまっただけ。慣れた所為でその裏側を僅かに見透かせるようになっただけ。
見慣れない表情が出るのはいつでも仕事に関連した時だけだったから。きっとその表情は大人びたものなのだと、オレは幻覚を見ていたのだ。本当のその表情は、自分に圧し掛かる数多の厄介ごとに挫けそうで——それでも強がらなくては生きていけなくて——
衣琉は、ずっと……
ほんの僅かずつ素顔をさらしていた。
シグナルを出していたんだ、本当は怖いことを隠しているのだと。
言い聞かせる。僕は大丈夫。なんでも出来る。なんでも頼って? ほらね、僕はなんだって出来る。出来ないことなんて無い。だって僕は——……
「はわわっ? あー、ナルナル、目の辺り思いっきり掻いたでしょぉっ!? 中華饅頭みたいにフヤフヤして腫れてるもんっ。寝不足は美容の大敵だって大御所女優の皆様方は口をそろえて仰ってるんだぞうっ!」
オレに近付き、見上げて。いつものように見上げてくる。当たり前のように見下ろしている。なんでもない、なんでもない。僕は大丈夫、なんでもない。
心配もさせない。同情は拒む。協力は突っ撥ねる。
子供らしさの中に隠した達観してる自分。全てに諦観を持ってる自分。
何もイラナイ。干渉しないで。
僕をくずおれさせてはしまわないで。
……何もかもを拒絶しなければお前はお前でいられないとでも言うのかよ?
「弱音吐けよ」
「……ナ……ルナル……?」
「お前ずるいぞ、オレをまき込んだのはお前でオレは両親にもいろいろ隠し事をしなきゃならなくなってるけれど、逆にお前達にはなんでも話してた。お前らの前では誠実でいた。お前が『仲間』って言ったからだ、仲間はトクベツなんだろ? なんでも曝せて、虚を埋め合うことが出来て、そうしてちゃんと信頼できて。なのに、お前は何も言わない。嘘は言ってないけど本当のことも言ってない。大事なところは隠しっぱなしで、誰にも何も言わせないで、自分の痛みは自分一人で抱え込んでる。誰かに手伝わせようなんて毛頭考えてないフリしといて、本当は誰より支えて欲しがってる。爺さんの『遺産』や呪遺物のこと、一人で抱えて洩らさない。そんなの卑怯だろ、ズルイだろ」
泣かない。怒らない。笑っているのは表面だけ。口の端を吊り上げるだけの不自然で精巧なイミテーションの笑顔の裏。
その表情のすべてが、どこかで相手を強く拒み続ける……見えない壁に映し出された最高のイミテーション。
衣琉みたいに、良いものを見続けることにより養われる真贋区別の美術眼があるワケじゃない。けれど判ることは判る……時だってある。
ああ、そうだ。
そうだよ、コイツは結局笑っていない。笑う余裕を持ち合わせてなんかいない。結局自分のためにしようと思ってても、行き付くところは『誰かの意思』なんだろう?
だから笑わない。だから泣かない。
だから笑えない。だから泣けない。
だからオレは、
「お前ばっかりもう一段向こう岸にいるみたいじゃねーか。オレとか滋留とか、自分の領域に踏み込ませなくて……結局お前は仲間って言いながら自分の近くに誰も寄せつけないように配慮してる」
「僕は」
「可哀想ぶってるわけじゃないし、自分を特別視してるでもないけれど、お前は何処かで一線引いてるんだよ。自分で自分の周りに線を引いてるんだ」
「ナル」
気まずくて地面に落としきっていた目線を戻す。衣琉はオレを呼ぶ。
『イル』はオレを呼んだ。
『瀬尋鳴砂』じゃない、もう一人のオレを。
「君は僕を知らない、僕の感じてきたあらゆる事象を一つとて共有していない。僕も君を知らない、何一つ共有していない。……そんな他人に自分の重荷を任せるほど……僕は無責任じゃない」
「でもお前はっ」
「君は——僕を誰だと思ってるんだ? その程度のことは僕にとって大したコトではないよ。『つらいはずだ』とでも言いたいのか? つらいよ? でもそれだけだ、つらいからどうって事は無い。生きてる証拠だとでも思って母親を殺した自らの生を噛み締めるだけさ。僕は別につらいことがあっても死ぬわけじゃない、君だって僕の荷物を背負っていないからといってとりわけ罪悪感を覚えるわけでもないだろう?」
「イル!」
「この話はやめだ。僕は僕で、君の干渉なんか無くたって生きていけるんだからね」
冷たく突っ撥ねられた言葉。普段と違う意味で他人を寄せつけないその雰囲気。
……思えばケンカをしたことは無かった。
なんとなく判ってるつもりだった。ケンカなんて結局は相互理解の過程みたいなものだから、今更理解するところは無いと思ってた。大体わかってると思ってた。
判ってる、つもりだったんだ。なんとなく。
最後のミッションを前にして、オレ達はどうやら———
ケンカをしてしまった、らしい。
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