002-1-2 風を聴く工房
昼下がりの市場は、風がひときわ強かった。
道端の布屋では、
その中を、小柄な少年が両手で包みを抱えて走ってきた。
頬に光る汗、まっすぐな瞳。息を弾ませながら、工房の扉を叩いた。
「ここ、修理師さんの工房ですよね」
アレックは顔を上げた。
突然の来客はいつものことだ。
「ああ。どうしたんだい?」
少年は扉の前で息を整え、大事そうに包みを差し出した。
中には、小さな鐘――エオリアンベル。
銀の糸で吊るされた三つの金属片が、互いに触れ合わずに揺れていた。
けれど、風を受けても音が鈍い。
「壊れてるんだね」
アレックが尋ねると、少年は小さく頷いた。
「母さんが、よくこれを窓辺にかけてたんです。
風が通ると、すごく綺麗な音がして……。
でも、いつの間にか鳴らなくなったんだ。
風は、ちゃんと吹いてるのに……」
少年の声はか細く、ベルを見つめる瞳がどこか遠い。
アレックは頷き、机の上にそれを置いた。
「見てあげよう」
支柱の根元を指でつまむ。冷たい金属の感触。
内部の支点がわずかにずれている。
長い年月のうちに、音の重なりに慣れ過ぎたのかもしれない。
「これは、風のせいじゃないよ。鐘が、少し休みたくなったのさ」
ミュリエが少年の肩にふわりと舞い降りた。
「アレックはね、眠った音を起こすのが上手なの」
少年が目を見開く。
「……眠った音? そのベルは眠ってるの?」
「そうだね。でも、直ぐに眼を覚ましそうだ。やってみようか」
アレックはエオリアンベルを光の角度にかざし、支点を慎重にずらした。
微かなきしみのあと、鐘の中に空気が通る感覚が走る。
窓を開けると、午後の風が吹き込み――
“リーン……”
ひとつの音が、静かに空間を満たした。
少年が息を呑む。
「この音です。母さんが、いつも楽しそうに聞いていた音」
ミュリエが目を細めて微笑んだ。
その音は風に乗り、市場の通りへと流れていく。
遠くで、人の笑い声が混ざった。
アレックは窓の外を見上げ、静かに呟いた。
「風も、音を覚えていたね」
◇
日が落ち、街の音が静まり始めた。
昼間あれほど賑やかだった市場も、今は灯がぽつり、ぽつりと沈んでいくだけだ。
工房の中で、アレックは再びエオリアンベルを手に取った。
昼の修理で音は戻ったが、まだ一音だけ。
この鐘が本当に鳴らしたい音を、探しているように思えた。
ミュリエはランプの火に羽を透かせ、とろけそうに炎を見つめている。
「昼間の男の子、嬉しそうだったね」
「うん。だけど、あの音は、突然起こされて”返事”しただけだよ」
「返事?」
「長い間眠っていた音が、ようやく目を覚ましたとき、
驚いて鳴いたりするんだ」
アレックはベルを机に置き、吊り糸の結び目を解いた。
「さぁ、今度はちゃんと起こしてあげよう」
磨き布を当てると、真鍮の表面が淡い緑色の光を返す。
昼よりも穏やかな光。
まるで、音の記憶を少しずつ思い出しているようだった。
翌朝、少年は音を取り戻したエオリアンベルを丁寧に包み、抱えて帰っていった。
小さな背中が路地の角で見えなくなる頃、風がひとつ、彼の足元を追い越していった。
◇
夜。
風が窓を叩いた。
アレックは手を止め、顔を上げる。
「パルケ?」
ミュリエが小声で尋ねる。
アレックは微笑み、窓を少し開けた。
細い風が工房を横切り、火の芯を揺らす。
音もなく、ただ空気だけが形を持って流れた。
窓辺に吊るした工房のエオリアンベルが――“チリン”と短く鳴った。
「嬉しそうだね」
たった一音。けれど、確かな呼吸がある。
「今の……」
「うん。風が通り抜けた」
その音は、炉の火のゆらぎと重なり、工房の壁をやさしく撫でた。
刹那、音が、時間を止める。
火の赤と金属の音が混ざり合い、夜の中に溶けていく。
「音って、風が形を覚えたものなのかも」
ミュリエが呟いた。
「それが、風の言葉なんじゃないかな」
アレックは微笑み、扉の鍵を閉め、工房を見渡す。
外では夜の風が街をめぐっている。
少年の家にも、きっと同じ風が届いているだろう。
「いい夜を」
ランプの火を落とし、最後にもう一度ベルに触れる。
“リーン……”
音が広がり、夜が呼吸する。
外の風が屋根瓦を撫でていった。
その音が、遠い誰かの笑い声のように聞こえた。
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