子供部屋からアイラブユー
ぬまべ
プロローグ
現実というものは、いつだって"ロマンス"だとか"理想"とは程遠いところにある。この点について異議を申し立てる者はいないだろう。
本来、現実と理想は対極に位置するものだからだ。
無味乾燥な現実があるからこそ麗しい理想が生まれる。またその逆も然り…。
たとえばある一人の芸術家が描いた"最高傑作"と名高い芸術作品があるとする。
でも、芸術家はその作品を気に入っておらず、できたらこの手でビリビリに引き裂いてナキモノにしたいと考えているかもしれない。
そして、実際に芸術家はアトリエでひっそりとその作品をビリビリに引き裂いて屑籠に捨てることだろう。
この場合誰も芸術家を責めることはできないはずだ。なぜなら、その作品は芸術家のものでありその作品をどうするかの決定権は芸術家にあるのだから。
だが、一部のマスコミや評論家はその芸術家の行動を激しく非難するはずだ。
なぜ世間に認められたあの名作を屑籠に捨てたのかと。錯乱しているのではないか、と。
やがて報道は加熱していき、ネットにまで波及するとその芸術家は表に出てきて自分のシタコトの説明責任を果たせなどとバッシングされるようになる。
今やネットコメンテーター達は無視できない影響力を持っているからだ。
そして、芸術家は心のなかで叫ぶ。
"ああ!この世界が自分一人であったならどんなに気が楽であろうか!"
と。
要するにこれが現実と理想の違い(あるいはギャップ)なのである。
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「縁があったらまた会おうね」
最後に約束を交わしたあの日からメールを送り続けて四年目の今年の正月。
四度目の年賀状がこなかった日を最後に、ボクはあいつのメールアドレスやら手紙やら写真やらをすべて抹消した。
果たされない約束やら写真に写るあいつの笑顔やらを見ることにこれ以上耐えられなかったのだ。
正直なところウンザリしていた。写真を見れば吐き気を催すほどに。
そして、あの"最初で最後の日"を思い出すたびに、なぜ醜い愛想笑いを浮かべるあいつをこの手で始末しなかったのかと自問する"自分自身"が猛烈にイヤだった。
あいつの何を愛していたのか。いやそもそも、本当にあいつを愛していたのかさえ今となってはわからない。
それほどつかみ所のない曖昧模糊とした恋だった。
そして、ボクは確信する。
基本的に恋というのは愛情の顕れなどではなく、自分自身の欲望を満たすためにするエゴイスティックなものであるのだということを。
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