第8話 残響 Resonance

 ――波の音。

 遠くでサイレンが鳴っていた。

 意識の底に浮かんでは沈む光の断片。

 誰かの手が、水面の彼方から伸びてくるように感じた。


 蓮は、咳き込みながら肺の海水を吐き出した。

 頬に触れるのは、錆びた鉄の板。桟橋の残骸が、かろうじて彼を受け止めていた。

 頭上には灰色の空。

 夜が終わりかけている。霧の向こうで、薄明の光が滲んでいた。


 胸元で、ペンダントがまだ微かに光を放っている。

 その内部で、何かが起動していた。

 ノイズ混じりの音声ではなく、淡い光の粒が空中に立ち上がる。

 ――奈央の輪郭。


「……生きてたのね。」


 幻影のような声。

 蓮は、思わずその手を伸ばしたが、光は指先をすり抜けた。


「これは……残響か?」


「記録の“残り香”よ。あの時、送った信号の断片が、まだあなたの中に残っているの。」


 奈央の像はかすかに揺らめき、港の炎を映していた。

 その瞳だけが、現実のもののように澄んでいる。


「神谷は……?」


 奈央は、答えなかった。

 代わりに、光の粒が一つ、蓮の手のひらに落ちた。

 そこに映し出されたのは、暗号化されたファイル名――

 “K-LOG_Ω”


「それが“記録”の最終鍵。

 もし開くなら、もう後戻りはできない。

 真実は、誰かを救うけれど、同時に誰かを壊す。」


 蓮は拳を握りしめた。

 潮風が頬を打ち、遠くでドローンのローター音が近づいてくる。


「奈央。お前は……どっちを望んでた?」


 奈央は少しだけ微笑んだ。

 光が薄れ、朝の気配が世界を覆い始める。


「――あなたが、選ぶ方を。」


 光が消えた。

 残ったのは、冷たい海風と、掌の中のファイルだけ。

 蓮は立ち上がり、濡れた髪を払って、崩れた港の先を見つめた。


 東の空に、太陽が昇る。

 その光の中で、彼は小さく呟いた。


「なら――選ぶさ。」


 端末を起動する音が、静かな波間に響いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る