夢は、海の向こうへ

 崔が女と出会ったのは、昼下がりのカフェだった。


 白いシャツを着ているだけだと言うのに、まるで炙られて溶ける寸前のバターのように膨らんだ豊かな胸元。そこから目線を下ろすと、紺のタイトスカートに包まれた尻が、その曲線に今すぐ舌を這わせろと言わんばかりに張り詰めている。


 あれは服やない、もう皮膚の延長やな、と崔は思った。見ているだけでこちらの体が熱を帯びる。


 気がつけば崔の体は溶けたバターのように汗ばんでいた。


 崔の視線は、気がつけば女を追っていた。


 一言で言うと、良い女。


 崔はただ「ええ女や」と思うだけで済ませるつもりだった。そう、ただそれだけのはずだったのに。


 女がふらりとよろけた。

 熱いコーヒーが崔の胸に飛んだとき、それが飲みものなのか、女の体液なのか、一瞬わからなくなるほど熱かった。


「わあ!ごめんなさい! クリーニング代払わせてください!」

 女の声が震え、胸元もふるふると震え、その震えに崔の理性が一気に溶けた。


「クリーニング代はいらん。その代わりと言ってはなんやけどメシ一回、付き合うてや」



 2人は連絡先を交換し、食事をした翌日にはもう恋人のように寄り添い、



 翌々日には、どちらの手がどちらの身体を触っているのか分からないほど絡み合い、



 気がつけば、崔は女に沈みきっていた。


 ある夜、シーツの上で汗を冷ましながら、女が耳元で囁いた。


「なぁ崔さん、ウチと、ドバイ行かへん?」


 その声が、甘い飴に見せかけた蠱毒のごとく、崔の鼓膜にべっとり貼りついた。

 あぁもうこの女からは逃げられない、と崔は笑った。


 女が手配したエミレーツのビジネスクラスのシートは豪奢だったが、女の躰の柔らかさには勝てなかった。


 崔がシャンパンを口に運ぶたび、女の指がグラスの縁をなぞるたび、その指先で何人の男を落としてきたのか、その想像は崔を何度もたぎらせた。


 そして、そんな女が選んだのは、俺。

 崔はご機嫌だった。


 ドバイの会社に着くと、支社長と名乗る外国人の男が笑みを浮かべて出迎えてくれた。男はなぜか流暢な関西弁で


「いや〜、彼女は優秀やでぇ。数字も、男も、よう転がすわ」


 崔はその言葉を褒め言葉だと思ってしまった。

 末期の恋は、毒を蜜に変える。


 女のプレゼンを見つめる崔の顔は、恋ではなく崇拝のそれだった。客たちの視線を女はマウスひとつで転がしていた。



 だが夜になると、女が叱責される声が壁の向こうから響いた。


「あと二千万足りへん言うてるやんけ! 何しとんねん、このボケ!」


 ノルマが足りない、その言葉が崔に響いた。昼間の崔は営業マンだ。気持ちはわかる。痛いほど。


 しばらくして、女が戻ってきた。笑みが薄皮一枚で貼りついたような顔で。その裏は疲労と焦燥がにじんでいた。


「どうしたん?」

「……なんもないよ」


 嘘だらけなのに、嘘が甘かった。


 崔は女を抱きしめた。腕の中の女は、どこか獣の匂いがして、それが崔にはたまらなかった。


「聞いた。なんで相談してくれへんの? 二千万くらいなら俺がなんとかしたる」


「そんなん、悪い」

「ええやん。ふたりの未来のためやろ」


 未来。


 その言葉がドバイの砂漠級に乾ききっていることにも気づかずに。


 崔は、ドバイにある二千万円のリゾートマンションの契約書にサインをした。

 そのペン先が紙をこするたびに、女の身体をなぞっているような錯覚に落ちていった。


 ドバイ最後の夜は暑く、二人は熱く燃え上がった。女は、崔に甘い声で言った。


「今の仕事が終わって、日本に帰ってきたら結婚しよ。指輪はあんたが選んで」


 崔は浮かれた。

 しかし、女は消えた。


 LINEも、インスタも、電話も、まるで最初から存在しなかったみたいに。


 女はぷつりと姿を消した。


 崔の指輪は渡す相手を失ったまま、箱の中でゆっくりと朽ちていくように見えた。


 半年後、マンション投資そのものが詐欺だと判明した。


 崔の胸に最後まで残ったのは、女が置き去りにした体温の記憶と、その体温に自ら進んで焼かれた、どうしようもなく光を放ち続ける愚かさ、そしてまがいものの契約書だけだった。


 

 崔は今日も、筮竹を揺らす。

 心に大きく空いた穴を埋めるために。


 遠目からそんな崔の様子を見ていた女がいた。


 女は四柱推命の占い師、軍鶏呼しゃもこ。軍鶏呼は崔のような男や女を何人か知っていた。


 ロマンス詐欺の方がまだマシだ、と軍鶏呼は思った。これじゃあ、残された方は……永久に待ち続けてしまう。相手が戻ってくるのを。


 盗んだのは、金だけではなく、心。

 銭形警部のようなことを言いたくなってしまう。



【軍鶏呼注釈】

 これは一昨年あたりから流行し始めたアッパーマス層〜準富裕層をターゲットにした、高級詐欺師による詐欺です。


 この手のご相談、何回かお受けしました。


 たいていは、海外で働いている恋人に会えない、とのご相談から始まり、よくよくお話を聞くとそれ詐欺ですよ、警察にご相談されてみては?的な話になることが多かった記憶があります。


 この詐欺が卑怯なのは、実際に会える、体の関係も持つ、その上でお金を奪うことです。


 大体奪うお金はその方の年収1年から2年分程度。その方にとっては、無理をすれば支払えないこともないため、また、詐欺師に対して恋心も残っているため、血眼になって取り返そうとは思わない金額であることが多いです。


 物語の中では、2000万の設定にしましたが、私、個人の印象としては、このタイプの詐欺のボリュームゾーンは5000万〜1億位だと思います。


 ポイントとしては、現地に赴くにあたり、日系のエアラインを使わないこと、


 謎に日本語を巧みに操る外国人社長が登場してくるあたりです。


 この2つがセットになった時点で、私は詐欺であると認定していました。


 詐欺師はターゲットを、インスタなどで選んでいるようです。ご自分の行動範囲を写真にあげるときは、どうかご注意なさってください。


 詐欺師もインスタをよく見ています。


 詳しい解説は、軍鶏呼の知人、占い師しゃもこの短歌作品で書かせていただいております。よかったら。(宣伝)

 https://kakuyomu.jp/works/16818622177106057219/episodes/16818622177136492513

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