春の足音1

 

 沈丁花の香りが芳しい三月中旬の週末。


 響也と出かけることになった帆花はゆりかもめに揺られ、臨海地区の景色を楽しみながらテレコムセンター駅で下車した。


 目的地のテレコムセンタービルは駅に直結していて利便性が高く、巨大な凱旋門のような外観が特徴的だ。周辺は研究機関が集まる落ち着いたビジネス街で、休日のためか人が閑散としている。


 ビル専用エレベーターに乗り二十階で降りて展望室に上がると、地上九十九メートルの高さから望む絶景が飛び込んできた。


 昼前の爽やかな青空を背景に、東京タワーやスカイツリーをはじめ、レインボーブリッジやフジテレビ、パレットタウンの大観覧車など有名な観光スポットが並んでいる。


 「すごいね響ちゃん! 東京湾と湾岸地区を見晴らせるよ。こんな場所があったんだね」


 「俺も初めて来た。灯台下暗しってやつだな」

 

 わくわくしながら周囲を見回す。広々とした展望スペースにはテーブルと椅子が置かれ、壁に絵が展示されていた。


 ビル周辺には高い建物が少なく、視界が遮られないおかげで開放感に溢れている。


 「素敵な場所なのに人が少ないね。穴場なのかな」


 「日本夜景遺産に認定されてるから夜は混むかもな。ちなみに夏は東京湾の花火が目の前で上がって、元旦は初日の出スポットの名所になるらしいぞ」


 「へぇ、そうなんだ。確かにここから眺める夜景は幻想的だろうね」


 「夜に来たかったか?」


 「ううん。日中の眺めも最高だよ! 都会らしい華やかな景色が見れるし、羽田空港から飛び立つ飛行機が横切るのも、コンテナ埠頭に寄港する貿易船を眺めるのも楽しい」

  

 会話しつつ、静かな時間の流れる展望室をゆっくり回る。帆花は窓際に設置された無料の望遠鏡に近付き、中を覗いた。


 「わぁ、望遠鏡を通すと遠くまではっきり見えるよ。ほら、響ちゃんも覗いてみて」


 興奮気味に響也の上着を掴むと、頭上からふっと笑みが降ってきた。子供扱いされたと思い、不満げに睨んで抗議する。けれど響也は悪びれず、


 「バカにしたわけじゃねぇよ。喜ばせ甲斐があると思ってつい、な。お前は本当に感情表現が豊かで見てて飽きない。楽しませようと張り切ったところで、結局いつも俺の方が嬉しくなるんだ。――敵わないな」


 慈しむように頭を撫でられ、体の芯がふわっとした。一瞬で機嫌を直してしまう魔法の掌で笑顔を取り戻す。


 腰の後ろで手を組み響也を見上げると、襟元で光るネックレスに視線が移った。


 「俺が贈ったの、着けてくれたんだな。よく似合ってる」


 「ほんと? よかった。このネックレスが似合う、素敵な大人の女性に一歩近付けたかな?」


 「それなら十分なってる。ずっとお前の顔を思い浮かべながら選んだんだ」


 さらりと告げられた一言に胸が高鳴り、顔が熱くなる。ふんわりまとめた髪を指で弄んでいると、響也の手が伸びてきて額にかかる前髪を横に流してくれた。


 「いつもと雰囲気が違うな。化粧を変えたのか? 服も初めて見るやつだ」


 「う、うん。今日は自分なりにお洒落してみたの」


 ハイネックのリブニットにジャンパースカート、ショートブーツを合わせた綺麗めスタイルは大人の女性らしさを意識して選んだものだ。


 顔周りをすっきり見せてくれる深めのVネックと、サイドベルトで絞ったウエストから広がるAラインのシルエットが気に入っている。


 「響ちゃんとお出かけするならできるだけ可愛くしたかったんだ。まぁ見た目をちょっと工夫したくらいじゃ大して変わらないんだけどね」


 はは、と笑って頰を掻く。特に返事を期待していたわけではなく、再び望遠鏡を覗き込む。


 「綺麗な景色だなぁ……ずーっと見てたいくらい」


 「ああ、すごく綺麗だ」


 「ふふ、響ちゃんはまだ望遠鏡使ってないじゃない」


 「見てるよちゃんと」


 「もうっ嘘ばっかり――」

 

 振り向いてドキッとした。景色の話をしているはずなのに。まるで眩しいものに憧憬を抱く表情で。


 奥深い場所で情熱の炎が燃え上がり、抑えきれず光を漏らすような眼差しに心を揺さぶられる。


 帆花は高鳴る胸を片手で抑え、深呼吸した。


 「あのね響ちゃん。天然なんだろうけど、そういう思わせぶりな態度は罪作りだと思う」


 「心配するな。ちゃんと自覚してやってるし、他の人にはしない」


 「え?」


 問い質す前に手を繋がれ、思考が停止した。足に根が生えたように直立していると、響也がすっと距離を詰めてきて耳元で囁く。

 

 「放っておいたらすぐにでも他の男に声かけられそうだからな。俺の側を離れるなよ」


 命令口調に反する甘い声が鼓膜に染み込む。きゅっと指に力を込められ、離さないという強い意志を感じて体温が急上昇した。


 どうにか頷くと、満足げに口角を上げた響也は握った手を引いて歩き出した。

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