第5話 昼の静寂 ― すれ違う心
――朝の光は、やけに静かだった。
神谷家の広いダイニングに、フォークの触れる小さな音だけが響いていた。
湯気を立てるスープの香り。テーブルには、完璧に整えられた朝食。
けれど、そこにあるはずの“ぬくもり”が、ひとつだけ欠けていた。
メイド・美桜(みお)は、普段のように笑わなかった。
ただ、淡々と配膳を終え、深く一礼して言う。
「……朝食、こちらに並べておきます。お仕事がありますので、失礼します。」
それだけ。
振り返ることもなく、すっと背を向けて去っていく。
(あれ? なんか……機嫌悪くね?)
神谷蓮(かみや・れん)は、スプーンを持ったまま固まった。
昨日、特にケンカをした記憶はない。いや、たぶん。……たぶん。
思い返す。
昨日は写真部の水瀬先輩と恋愛相談をして、帰宅は遅かった。
美桜が「おかえりなさい」と迎えたときも、確かに笑っていた――ような?
うん、曖昧。思い出そうとすると、なぜかモヤがかかる。何があったっけ。
蓮(心の声):(もしかして……“また誰かを泣かせた”系?)
そう思った瞬間、胃がきゅっと痛んだ。
彼女は、誰かが悲しむのを何より嫌う。自分のせいでそうなったなら……。
蓮「……あちゃー……完全にやらかしてる気がする。」
謝ろうと思って立ち上がる。
でも、廊下の先――美桜の姿は、もう見えなかった。
重く閉まる扉の音だけが、やけに冷たく響いた。
午前十一時を過ぎても、美桜は現れなかった。
リビングの時計が静かに針を刻む中、蓮は腹を押さえながら独り言。
「……そろそろ昼ご飯の時間だよな?」
しかし、ダイニングテーブルに並んでいたのは料理ではなく――
一枚の小さなメモだった。
『お弁当はご自分でどうぞ。』
丁寧な字。
だが、その筆圧には明らかに「怒」のニュアンスがある。
「……あ、これ怒ってるわ。」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
胃の空腹よりも、心の方が先にきしんだ。
冷蔵庫を開けても、いつもなら並んでいる“蓮専用お弁当セット”の影もない。
代わりに、無言の圧を放つ空の棚。
……沈黙の制裁。
「よし……これはもう外出して、頭冷やすしかない。」
言い訳ではない。
ほんのちょっとの“避難”だ。
財布を手に取り、玄関を出る。
繁華街
休日の昼。街は賑やかだった。
笑い声、カフェの音楽、焼き立てパンの匂い。
けれど、蓮の表情はどこか抜けたままだ。
(心の声):(怒ってるってことは……俺、何か無意識で地雷踏んだ?)
考えれば考えるほど、胃がさらに減っていく。
思考エネルギー=カロリー消費。まさに負の連鎖だ。
そのとき――。
「神谷くん!」
弾む声。
振り返ると、休日仕様の明るい服に身を包んだ少女が手を振っていた。
朝霧玲奈(あさきり・れいな)。
2年B組で演劇部。
淡いベージュのスカート。白いブラウス。小さなイヤリングが揺れる。
笑顔が太陽みたいにまぶしい。
「お、おう……ほんと偶然だな。」
「偶然っていうより、運命かもね?」
冗談めかして笑う。
蓮の中の警戒心が、ほんの少しだけ緩む。
「一人? よかったら、カフェ入らない? ちょうどお昼食べようと思ってたの。」
「……助かる。実は俺も、家のご飯が絶賛ストライキ中でな。」
「えっ、家出?」
「いや、メイドに無視されてる。」
「え、それは……新しいジャンルの家庭内不和だね。」
玲奈が吹き出す。
蓮もつられて笑った。
店内は落ち着いた雰囲気で、外の光が柔らかく差し込んでいた。
席につくと、玲奈はメニューを開きながら、ふと口を開く。
「ねえ、あの時の話――覚えてる?」
「“彼氏とのすれ違い”のやつ?」
「うん。……ちゃんと話したよ。
神谷くんが言ってたみたいに、“怒る前に伝える”って。」
玲奈の瞳が、照れくさそうに笑う。
「そしたら彼、泣いちゃってさ。びっくりしたけど……嬉しかった。」
「よかったじゃん。俺、ちょっと救われた気分だ。」
玲奈は紅茶を口にしながら、微笑んだ。
まっすぐなその笑顔に、蓮の視線が少しだけ泳ぐ。
(心の声):(こっちが照れるって……なんかズルいよな。)
「だからね、今日はお礼。ご飯、奢る。」
「いやいや、そんな――」
「だめ。お礼素直に受け取って。本当にありがとう。」
蓮は一瞬だけ目を見開く。
その言葉の“響き”が、胸の奥を静かに叩いた。
二人で食べたランチは、どこか優しい味だった。
会話のテンポも自然で、気づけば時間があっという間に過ぎていた。
「神谷くんってさ、誰かの話を聞くの、上手だよね。」
「いや、ただの聞き流しスキルだよ。」
「そんなことないよ。……ちゃんと、心がある。」
玲奈の声が、ほんの少し震えた。
窓の外で風鈴が鳴る。その音が、沈黙をやさしく繋ぐ。
玲奈(心の声):(この人の前だと、変に飾らなくていい……。)
「ねえ、ちょっと歩こっか。」
玲奈が立ち上がる。
外は初夏の陽気。
柔らかな風が頬を撫でる。
人混みの中を並んで歩く。
距離は近いのに、どこかくすぐったい。
雑貨屋の前で立ち止まる。
玲奈が、風で髪を押さえながら呟く。
「ねえ、神谷くん。」
「ん?」
「……私に、チャンスってあるかな?」
「え、どんな?」
「……好きな人と、やり直すチャンス。」
「ああ、それならあるだろ。お前なら、誰でも落とせるさ。」
玲奈の瞳が一瞬、何かを決意したように光る。
「……じゃあ、頑張る。
彼氏と別れるから、待っててね。」
「……ん?」
反応が遅れたその一瞬の間に、玲奈はもう背を向けていた。
振り返ったとき、彼女は笑っていた――どこか、少し泣きそうな笑顔で。
「じゃあね、神谷くん。次は、ちゃんとデートしよっか。」
手を振る彼女の姿が、人混みの中に溶けていく。
残された蓮は、呆然と立ち尽くした。
「……待って? “彼氏と別れる”って、え? えっ!?」
思考がフリーズする。
脳内に警報が鳴る。
「誤解」だ。
「絶対誤解」だ。
「やばい……これ、また誰か泣かせたパターンでは?」
額を押さえながら、ため息をつく。
まるでコメディ映画の主人公みたいな気分だった。
夕方。
帰宅した蓮を迎えたのは、相変わらず静かな屋敷の空気。
廊下の奥、台所の灯りがほんのりと漏れている。
そこに、美桜がいた。
白いエプロン姿。けれど、その背中はどこか遠い。
鍋の音。包丁の音。なのに、声をかけるタイミングが見つからない。
「……美桜。」
返事はない。
彼女はまるで、冷えた空気そのものになったみたいだった。
「今日……ごめん。たぶん、なんか悪いことしたよな。」
「……お仕事がありますので。」
短く、それだけ。
目を合わせることもなく、静かに部屋を出ていった。
(心の声):(本気で怒ってる……。)
その夜、食卓には温かいスープと、一人分の孤独が並んでいた。
寝室の窓から、月の光が差し込む。
蓮は天井を見上げながら、ぼんやりとつぶやいた。
「……俺、何やってんだろ。」
朝は信頼を失い、昼は誤解を生みむ。
言葉が足りなくて、いつも少しずつズレていく。
――けれど、彼はまだ知らない。
沈黙の裏で、美桜がどんな表情をしていたのかを。
キッチンの隅で、美桜は唇を噛みしめていた。
美桜(心の声): (また、“あなたに抱かれたい。温もりを思い出させて――蓮様)
小さく震える声で、それだけを呟いた。
夜風がカーテンを揺らす。
それは、沈黙という名の“宣戦布告”のようだった。
あとがき
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