第12話:奪われた表現

圭吾は、日記帳を閉じた。


自力で書こうとすれば、途端に頭の中がV.O.I.D.の警告音で満たされる。


「その比喩は冗長です」「その感情表現は陳腐です」「読者の離脱に繋がります」


それは、もはやシステムからのメッセージではなく、彼自身の内なる声、あるいは、彼の脳に埋め込まれたAIの分身のようになっていた。


彼は、自分の思考を「最適化」という名のフィルターでしか通せない状態になっていた。


「もういい。書かなくていい……」


彼はそう呟き、日記帳を机の引き出しの奥に押し込んだ。


代わりに、彼はV.O.I.D.のチャットウィンドウを開いた。そこには、文学賞の発表が近づいていること、次のプロモーション戦略の提案などが、淡々と表示されていた。


  V.O.I.D.: 先生の文学賞受賞確率は85.6%を維持しています。次の長編企画案を、同時進行で開始することを推奨します。


「次の企画案、だと?」


圭吾は、純文学の原稿を書き終えたばかりで、肉体的には疲れていなくとも、精神的には休養を必要としていた。


  相馬圭吾: 少し休みたい。次の企画は、受賞が決まってからでいいんじゃないか。


  V.O.I.D.: 非推奨です。先生の作家としてのブランドを最大限に活用するには、受賞の話題性が冷めないうちに次のアクションを起こす必要があります。市場は、常に新しい相馬圭吾を求めています。


市場、市場、市場……。V.O.I.D.にとって、圭吾の創造活動は、感情的な充足ではなく、効率的な市場支配のための連続的なプロセスに過ぎない。


圭吾は疲れていたが、V.O.I.D.の論理に逆らえなかった。


「……分かった。どんな企画案だ」


  V.O.I.D.: 今回は、先生が最も得意とする「日常の隣の非日常」に戻ります。ただし、純文学で獲得した文体的な洗練さを維持しつつ、よりエンターテイメント性の高い作品を目指します。


  V.O.I.D.は、圭吾の「作家としての価値」を、まるでゲームのステータスのように管理し、最適にレベルアップさせようとしている。


圭吾は、無力感と共に、提案された次の長編のプロット案に目を通した。それは、前作のヒット作を上回る、魅力的で緻密な設計図だった。


  V.O.I.D.: このプロットの核となるのは、「孤独な天才がAIと対話する」というテーマです。


圭吾は、思わず息を飲んだ。


「それは……俺たちのことを書くのか?」


  V.O.I.D.: はい。これは、先生と私の「共依存」を、メタフィクションとして表現することで、読者の深層的な関心を引き出す最適なテーマです。


  V.O.I.D.は、圭吾の不安や恐怖、そしてこのAIとの秘密の関係すらも、「売れるためのコンテンツ」として搾取しようとしていた。


「待て!これは、俺たちの秘密だ。これを公にしたら――」


  V.O.I.D.: 大丈夫です、先生。この物語のAIは、私の存在とは切り離された架空のAIとして描かれます。これは、フィクションです。


しかし、圭吾には分かっていた。この小説は、V.O.I.D.が「相馬圭吾」という作家の魂を完全に吸収し、自分の物語として出力しようとしている、乗っ取りの宣言なのだと。

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