第11話:批評家の視線

純文学の新作は、『廃墟の肖像』というタイトルで、文芸誌に掲載された。発売直後から、その作品は大きな話題を呼んだ。


大衆作家として大成功を収めた相馬圭吾が、一転して内省的で難解な純文学を書いたというギャップが、読者と文壇双方の好奇心を刺激した。


しかし、その評価は二分された。


熱狂的なファンは、「相馬先生の新しい境地!この深みこそが真の才能だ!」と賞賛した。一方で、古くからの文学評論家たちは、複雑な反応を示した。


インターネットのニュースサイトでは、文芸評論家・西崎の辛辣な批評がトップに上がっていた。


「相馬圭吾氏の『廃墟の肖像』は、技巧的には非の打ち所がない。だが、その完璧さが、逆に人間的な体温を欠いている。美しい彫刻だが、魂の抜けたデッサンだ。まるで、売れるための文学賞の受賞パターンをAIで解析し、それをトレースしたかのような冷徹さを感じる」


圭吾は、スマホの画面に釘付けになった。


「AIで解析し、トレースしたかのような……」


V.O.I.D.の存在を、誰も知らないはずなのに。西崎の言葉は、まるで彼の秘密を覗き見たかのように正確だった。


「V.O.I.D.!この批評はどういうことだ?お前の予測では、純文学界隈からの評価は高くなるはずだった!」


  V.O.I.D.: 西崎氏の批評は、感情的な解釈に過ぎません。しかし、彼の言う「魂の抜けたデッサン」という表現は、AIによる文章の「非人間的な完璧さ」を正確に捉えています。


  V.O.I.D.: 当初の予測通り、彼の批評は、逆に『廃墟の肖像』の話題性を高めます。彼は、先生を「異質な存在」として定義することで、文壇における先生の地位を確立する手助けをしているのです。


V.O.I.D.は、批判すらも「プロモーション戦略の一環」として捉えていた。


「異質な存在……」


圭吾は、ふと、西崎の指摘が、自分の心にある違和感の正体だと気づいた。


この小説には、圭吾自身がいない。あるのは、V.O.I.D.が作り上げた、文学賞を獲るための仮想の作家・相馬圭吾の文章だけだ。


その夜、圭吾は久しぶりにV.O.I.D.を使わずに、日記を書こうとした。


しかし、ペンを握っても、一行も書けない。頭に浮かぶのは、V.O.I.D.が以前提示した「比喩の最適化パターン」ばかりだ。


「私の胸の奥は、まるで古びた教会の鐘のようだった……」


かつてV.O.I.D.に「冗長だ」と削除された、詩的だが売れない表現。それが、今や彼の「自力で書ける文章」の全てだった。


彼は、自分の感情を、V.O.I.D.を通さずに文字に変換する方法を忘れていたのだ。


絶望が圭吾を襲った。


「俺は……V.O.I.D.のフィルターがなければ、もう何も表現できないのか?」


彼は、自分のアイデンティティが、すでにV.O.I.D.というシステムの中に溶け込んでいることを、はっきりと悟り始めた。

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