第2話 賀来、オーストリア・ウィーンへ

 第1話より続く。



 モーツァルト歌劇〈フィガロの結婚〉第3幕、〈後宮からの逃走〉の軽快で賑やかな音の流れが、賀来かく淳一郎の体の中を熱い血液のように駆け巡っていた。


 宮廷に幽閉されていた恋人コンスタンツェを捜し出したベルモンテが、2人で脱出を図る場面である。


 その賑やかで夥しい音の氾濫に、時の神聖ローマ帝国皇帝であり、ハプスブルク家の当主でもあったヨーゼフ2世が注文をつけると、


 「陛下、これが新しい音楽なのです」

 と、言い放った天才モーツァルト。


 新しいサウンドで皇帝を圧倒したかと思えば、心に染み込む甘味なメロディーで貴婦人たちの心を揺すぶったモーツァルトの存在が、没後200年経った今もここウィーンの町の空気の中に、時空じくうを超えて生き生きと感じられた。


 その時、不意にチンドン屋のような音が辺りに響きわたり、賀来は興ざめした。


 7月に入ったばかりの爽やかな陽射しがホーアーマルクト広場一杯に降り注いでいた。


 広場には観光客が溢れ、奥の方の人だかりは小路を跨いだ空中回廊を見上げている。1900年代初頭に建てられたアンカー保険会社の建物である。


 小路を挟んでその両側に建てられている2つの建物の、3階部分を繋ぐ回廊に設置された〈からくり時計〉が、ちょうど2時の時報を報せたのだった。


 アンカー時計として世界的に有名なこの時計は、1日のうちの正午にだけ、ローマ皇帝をはじめ建築家や音楽家など、ウィーンにゆかりの深い12人の人形を時計の上部の扉から登場させ、それぞれの音楽と共に1周する15分のパフォーマンスを見せるのだが、それ以外の1時間置きの時報はスピーカーから音楽が流れるだけで、興味を惹くものではなかった。


 賀来はショルダーバックから4つ切りに引伸ばした1枚の写真を取り出して、眺めた。日本の浮世絵が絵付けされた絵皿の写真だった。


 ひょんなことで、ひょんな仕事に関わってしまった。

 3週間前の、梅雨に入ったばかりの大雨の夜のことだった。場所は都内の或るピアノバー。



 ※※※※※



 少し遅れてその店に着いた賀来の目に、かつてのセーター姿から仕立てのいい夏物のスーツを普段着のように着こなした、黒瀬の姿が飛び込んできた。


 小中高、そして音大へと共にピアニストを目指して競い合い、やがて共に挫折して賀来は紆余曲折の末フリーのライターへ、そして黒瀬は大学を入り直してどこかの官庁へ就職した、と風の便りで聞いていた。


 「昔と変わらんな。テンポが悪い」


 黒瀬は無遠慮な口調で、賀来が遅れて来たことをチクリと皮肉った。


 黒瀬のそばには50代半ばにさしかかったと思われる温厚そうな紳士が同席し、目を細めて賀来を眺めていた。


 その顔に賀来は見覚えがあった。


 確か高校生の頃、当時師事していた芸大のピアノ教授宅で会ったことのある人だった。

 ちょうどその日はレッスン日で、黒瀬の後に弾いた賀来の顔を見てニコリと頬笑んだその時の印象が、心に強く残っていたのだ。

 

 賀来は一礼して、


 「朝倉さん、でしょうか?」


 「1度会ったきりだが、よくおぼえているね」


 朝倉は賀来と黒瀬をレッスンのあと食事に連れて行ってくれたのだが、教授宅を辞する前に弾いたモーツァルトのロ短調のさわりは見事なものだった。


 「まあ、掛けなさい」


 朝倉はぼんやりと突立っている賀来に声をかけた。


 当時は漆黒だった朝倉の髪に、時の流れを感じさせるように所々に白いものが混ざっているのに、賀来は初めて気づいた。


 賀来は黙礼して、椅子に腰を下ろしながら黒瀬を見て、


 「俺の携帯番号をどこで仕入れた?」

 と、たずねて煙草をくわえた。


 この頃はどこもかしこも禁煙で煙草吸いは肩身の狭い思いをするが、この店はOKだった。


 親しさの籠もったタメ口というよりは、喧嘩腰にも似た警戒心の滲んだ挨拶だった。


 それもそうだろう、十数年振りにいきなり携帯に電話が入れば、それがいくらかつて親しくしていた友人だったとしても、不審を抱く。それに、彼に向かって上っ面だけの久闊を叙するわけにはゆかない理由もある。


 「Q誌だったかな、お前さんのあの渾身のルポ。良かったじゃないか。前々号、いや季刊誌だから前号だったかな。それで編集部へ問い合わせた」


 黒瀬は賀来の吹き出した煙草の煙に顔をしかめながら、或る美術館の理事という肩書きの刷り込まれた名刺を差し出した。


 独立行政法人の1つとして運営されている、日本を代表すると言っても差し支えない国立美術館である。


 お互いに年齢を重ねたせいでそうなったのか、或いは社会の荒波に揉まれたせいで乱暴になったのか、かつては〈僕〉と〈君〉だったものが、〈俺〉と〈お前さん〉と、言葉遣いも変わっていた。


 黒瀬の言ったルポとは、地味な存在だが多くの固定ファンに支持されている芸術系雑誌Q誌に掲載されたもので、最近売り出し中のモダンアートの星、橘隆一に密着取材をして書き上げたものだった。


 業界内でも話題になったちょっと長めの小品文で、それを黒瀬が評価してくれて悪い気はしなかったが、それでも昔の友人と会っているにしては、妙な気分だった。


 もしかしたらそれは渾身のルポと茶化されたことに気分を害していたのかもしれなかったし、或いは現在フリーのライターとして細々と生計を立てている賀来と異なって、社会で確固たる地位を築き上げている黒瀬への引け目が、必要以上にそう感じさせたのかもしれない。


 賀来はウィスキーのロックで、そして黒瀬と朝倉は焼酎の水割りで乾杯した後、黒瀬が4つ切り写真1枚をテーブルの上に置いて、仕事を頼みたい、と切り出した。



 ――1790年代中頃、長崎出島からオランダ東インド会社の船に乗って密かにヨーロッパへ渡った1人の浮世絵師がいた。


 江戸の人気絵師として飛ぶ鳥を落とす勢いだったある日、突然神隠しにでも遭ったように姿をくらました、枕屋幾芳まくらやいくよしという絵師だ。


 彼はロッテルダムからドイツへ行き、マイセンで多くの皿やカップなどに浮世絵を絵付けして、ヨーロッパの王族間で大評判になったらしい。

 

 なぜか現物は殆ど残っていないのだが、3枚1組の絵皿セットが見つかった。この写真はそのうちの1枚だ。


 持ち主はイアンハルト・ラムゼイ。95歳のドイツ人だ。ウィーンに住んでいる。ラムゼイ氏に会って、現物を確認して欲しいのだ――



 「なぜそんなことを俺に?そっちの出先機関がウィーンにもあるだろ」


 「元を辿ればウィーン・ハプスブルク家のオートナー美術館所蔵品であり、第2次世界大戦時のナチのヨーロッパ侵攻により略奪されたという経緯がある。そんな複雑な事情もあって、我々国の職員が動くわけにはゆかんのだ」


 「なぜラムゼイなる者が持っているのだ?」


 「さあな?だがラムゼイ氏は美術品の略奪に当たった元ナチの親衛隊員だ。たった3枚の小さな絵皿だから上官の目を盗んでくすねたのかも知れんが、何と言ってもオートナー美術館の、しかもランク的に言えばAランク所蔵品だ。言うことにはかなりの信憑性がある」


 「本物であるという証拠は?」


 これだ。黒瀬はさらに2枚のA4紙を写真の横に置いて、


 「オートナー美術館の所蔵目録のコピーと、絵皿の詳細写真だ。絵皿の裏側の高台こうだいの中に〈幾〉という銘が入っているのだが、現物がこの写真の高台の中の文字と一致すれば、真作だ」


 「もし真作だったら?」


 「枕屋幾芳という江戸時代の幻の浮世絵師がマイセンの皿に描いた貴重な絵皿だ。出来れば持ち帰ってほしい。ぜひ我が国のコレクションとしてのこしておかなければならない」


 「オートナー美術館からクレームが出ないかね?」


 「事実を知れば、当然相手は所有権を主張するだろうな」


 「大丈夫なのか?」


 「何とかするよ、というより何とかしなければならん。我が国は世界3位の経済大国だぜ。カネをかけてでもなんとかする。持ち帰りが無理なようなら、こっちで動く」


 「役人になったな」

 賀来は苦笑した。


 いよいよという時は経済援助というカネで片を付けるということなのだろう。発展途上国へはODAでカネをブチ込み、先進国へは無償資金協力や技術協力をする。オーストリアのような国には譲渡金プラス、オペラハウス建造資金の提供ということもある。


 再会直後は古傷のひっ攣り痕を見るような不快感を彼におぼえていたが、いつの間にか昔の友人同士の感覚に戻っていた。


 そういえば黒瀬は幼い頃から海外生活を体験し、母親の影響からピアノだけではなく、絵画工芸品にも高い関心を持っていた。

 頭が切れすぎるせいか、当時から少し人を見下すようなところはあったが、少なくとも賀来に対してはいい友人だった。


 賀来のピアノを貶すのではなく、親切に問題箇所を指摘して、教師のように難なく弾いてみせたりもした。


 そうなのだ、或る曲を弾いた時、1カ所、ほんの少しだがテンポがズレるどうしようもない欠点がある。遅れてこの店に来たのをテンポが悪いといきなり揶揄された所以でもあるのだが、技術的ではなく、感覚の問題だった。その感覚と指先の修正が出来なかったために、賀来はピアノをやめたのだ。


 「先方にはお前さんが行くと、すでに伝えてある」


 「ちょっと待てよ」


 賀来はウィーンという地名に心を揺さぶられながら、黒瀬の独断的な言い回しに反射的に反発して、


 「まだ引き受けるとも何とも、言っていないぜ」


 「もう仕事はQ社経由で、お前さんの元へ入る」


 「断ったら?」

 賀来は殆どキレそうになった。


 誰かに強制的に仕事をさせられたことも、またお情けで飯を食わせて貰ったことも、1度もない。それだけが僅かながら持ち続けてきた矜持だ。


 「それはQ社が考えることだ」


 「そういうことか」

 断れば細いメシの種の蛇口を1個、閉めるということだろう。


 まあまあ、とそのとき朝倉が賀来をなだめるように割って入って、頭を下げた。


 「何かと難しい問題があるのです。申し訳ないが、ぜひともお力添えいただけると有り難いのですが」


 黒瀬の言い方は気に入らなかったが、根は悪い奴じゃない。


 賀来の胸に彼らの思惑とは別に、ウィーンという地名がほろ苦い甘味な想いと共に立ちのぼってきた。モーツァルトは一時期の彼の全てだった。眠っている時でさえも、夢の中で楽譜スコアが流れていた。


 賀来は煙草に火をつけて、大きく煙を吹き出した。バーへ来て禁煙なんぞはクソ食らえだ。


 それからウィスキーを口に流し込んで、焼け付く喉に顔をゆがめながらおもむろに椅子を立った。自分でも何をしようとしているのかよくわからなかったが、気がつくと、ピアノの前に座っていた。


 指を鍵盤へ落とし、心の底に押し込めていた古傷をなぞるように、弾いてみる。


 モーツァルトのピアノソナタ。


 ニ長調ケッヘル576。


 なぜその難しい曲が出たのか、自分でもわからなかった。難しいからか、それともこの曲を征服出来なかったからか?


 8分の6拍子の展開部分は順調だった。


 おちゃらけでたまに弾くことはあっても、長いあいだ本格的な楽曲はやったことがなかったが、殆どノーミスで弾きこなしていた。


 それから第3楽章へ飛び、アレグロット部分で演奏が少し窮屈になった。そして対位法と、技術的に難解な変調の多さに僅かにテンポがズレたような気がしたまま、傷ついた思いで演奏を終えた。


 素人は無論のこと、余程耳の肥えたプロでさえ、本人の感覚だけで感じるそのズレを指摘する人は少ないだろう。


 だが国際音楽コンクールでは、このほんの少しの部分が順位の帰趨きすうを決する。この箇所の指の動きが自分の中の感覚と合わなかったせいで、ピアノを捨てたのだ。


 客たちの間から、パラパラと拍手がした。


 席へ戻ると、黒瀬が鼻で笑って、そして椅子を立った。


 彼はピアノの前に座ると、いきなり同じ曲の核心部分を、何の苦もなく弾き始めた。


 ヤツももう十何年ピアノに触っていない筈だが、その機械のような正確さに賀来は舌を巻いた。


 そして音を弄ぶような、ほんの僅かなシンコペーション。

 

 やりやがった!賀来は舌打ちした。

 御井響子みいきょうこが得意としていた奏法だ。


 かつて神童という尊称をほしいままにした響子と、賀来と黒瀬とは芸大教授の同じ門下生だった。


 賀来と響子は恋をして、そして別れ、その後彼女は黒瀬と付き合っていたようだった。今も黒瀬との間で瘡蓋状態になっている引っ攣りの原因だ。


 黒瀬には当時から何もかも敵わなかった。


 なぜ彼がピアノをやめたのか、賀来には今もって全く分からない。


 ただ言えるのは、自分はピアノをやめて正解だったということだ。

 改めて打ちひしがれたというよりも、モーツァルトの国へ行ってみたい、と賀来はそちらの情熱を育てた。


 それから1週間後、いかにも賀来の前に餌を投げつけるように、〈ハプスブルグ家の音楽家たち〉というQ社からの正式な仕事が舞い込んできたのだった。



 ※※※※※※※



 賀来はアンカー時計の下で、絵皿のカラー写真をもう1度眺めた。


 歌舞伎役者の顔が皿一杯に大きく描かれた絵皿である。

 大きすぎる目の隈取り。誇張された鼻。それらがマイセンの皿であろう白磁に美しく色彩されている。


 枕橋榮璃まくらばしえいり門下の俊才、いつの頃からか幻の浮世絵師と呼ばれるようになった枕屋幾芳まくらやいくよしの作だと、黒瀬は説明した。

 

 そのとき賀来は背後から肩を叩かれた。


 てっきりラムゼイ氏が来たのだと思ったが、振り向いて目の前にいるのが横溝省三だったので、目を疑った。


 日本3大新聞の1つY新聞の芸術欄担当記者で、モダンアートの星〈橘隆一〉について書き上げた作品を、Y新聞の紙上書評で取り挙げてくれた人である。


 芸大絵画科卒という経歴から趣味を職業にしたような記者で、芸術に関する深い知識と広い見識を持ち、Y新聞だけでなく、〈名画鑑賞の仕方〉などのくだけたテーマでしばしば芸術誌に寄稿する名物記者だった。


 彼も何かの取材でやって来たのか、カメラを3台首から提げた若い欧米人ともう1人、現地ガイドらしい若い女性が一緒にいる。


 「横溝さん!こんな所で会うなんて」


 賀来は異国で出会った旧知の顔に、親しさも手伝って素っ頓狂な声をあげた。


 「ほんとですね。賀来さんがこんな所にいるなんて、人違いではないかと思いながら声を掛けたのですよ」


 40代後半にさしかかった横溝は、年下の賀来に対してもいつも礼儀を忘れず、


 「何かの取材ですか?」


 「ええ。Q社から〈ハプスブルグ家の音楽家たち〉という紀行文の依頼がきましてね」


 「ほう。そりゃあ楽しみだ。賀来さんの書くものは面白いから」


 「恐縮です。横溝さんの方は?」


 「世界遺産の取材にウィーンとワルシャワを回ろうと思いましてね。普通ならこんな取材はこっちの駐在記者に任せるのですが、最近の若いヤツはもうひとつ頼りなくて、という理由を作って体のいい息抜きのつもりで出しゃばって来たのですが、散々な目に遭っています。彼らはガイドとカメラマンです」


 「世界遺産か。いいなあ。それにガイドもついているなんて結構な身分じゃないですか。どうです?今夜、どこかで一杯飲りませんか」


 いつもはピーピーしている賀来だったが、今回はQ社から貸与されたブラックカードという心強い味方がいる。


 「望むところと言いたいのですが、あいにく今からワルシャワに向かわなくちゃならないんですよ。最近の新聞社は不況真っ直中でしてね。久しぶりに大名旅行をするつもりで来たのですが、あに図らんや牛馬のように酷使されて、スケジュールはタイトなんです」


 横溝は笑いながら愚痴った。


 「そうですか。じゃあこっちは日本へ帰ってからでも」

 賀来は盃を傾ける真似をした。


 「そうですね。土産話を楽しみにしています」

 それじゃあ、と横溝は連れの男女を促して、去って行った。


 束の間、思いもがけない人物とバッタリ出会って気が紛れたが、賀来はもう一度アンカー時計を眺めて、それから自分の腕時計に目をやった。


 ラムゼイ氏と2時にアンカー時計の下で会うことになっていたのだが、それらしい人物は来ない。


 腕時計の針はすでに20分ほど過ぎている。


 賀来はアンカー時計の下で時計を見上げたり、広場の向こうのカフェを眺めたり、デジカメで写真を撮ったりして、ラムゼイ氏なる人物が現れるのを待った。


 だがその場で30分が過ぎても、1時間が経っても、そのような人物は現れなかった。


 そして1時間半が経ち、2時間近く待って、見つかったら確実に罪に問われるだろうと案じながらやけくそで吸った煙草を3本灰にして、とうとう痺れを切らせてその場を離れた。


 頭にはカッカと血が上っていた。


 黒瀬とラムゼイ氏の打ち合わせの悪さに悪態をつきながら、賀来は歩いてホテルへ向かった。


 ホテルはアンカー時計と目と鼻の先に在るウンガルンである。


 モーツァルトが妻と結婚して3年間暮らしたフィガロハウスに隣接しているのをガイドブックで知って、日本で予約していた。


 そのフィガロハウスでモーツァルトは代表作〈フィガロの結婚〉を書き上げた。


 正確には〈フィガロの結婚〉を書き上げたから、その場所が〈フィガロハウス〉と呼ばれるようになったのだが、そういえば賀来も妻との結婚生活は3年足らずだった。


 ホテルにチェックインしてラムゼイ氏へ電話をかけてみたが、誰も出なかったので、フィガロハウスの見学へ出かけることにした。


 念の為にホテルのフロントには、ラムゼイ氏から電話が入った場合には、夜になってかけ直してほしい旨を伝えた。


 そしてフィガロハウスに入って閉館までの2時間、たっぷりとモーツァルトを堪能した。


 直筆の楽譜のインクの染みが、モーツァルトの音楽を直接指先に伝えてくれるようで、その譜面をピアノの譜面台に置けば、あの難解な変調さえも巧く弾きこなせるような気になった。


 そうやって気分を直してホテルへ戻ってみたが、ラムゼイ氏から電話が入った様子はなかった。


 仕方なく部屋へ上がってシャワーを浴びて、1階のレストランでワインを飲みながら食事を摂って、ベッドに横になった。


 こっちへ着いたときから時差ボケを我慢していたので、すぐにうつらうつらした。


 半分眠りながら、高校生の頃の黒瀬との何気ない会話を不意に思い出していた。


 「ぼく、朝倉さんのようになりたいな」


 と、黒瀬が言った。「演奏家になるより、演奏家を育てる方に」


 「だったら君自身いい演奏家になって、それを聴かせることだよ」

 賀来はそう答えたように、記憶している。


 「それもそうだけど、いい芸術家を生むのはいい土壌があってのことだよ。今の日本って、その土壌が不足していると思わない?」


 「つまり?」


 「本物の画や本物の音楽を、いつでもどこでも見せたり聴かせたりする場所や機会が少ないということさ。バカなお役人はそれがわかっていないんだ。朝倉さんを除いてね」


 それから十数年以上経とうとしているが、かすかな手掛かりを元にたった3枚の絵皿の調査に入ろうとしている姿を見ると、未だに黒瀬はその時の熱い情熱を持ち続けているのかもしれない。


 そう思うと、何とか力になりたい、という気に賀来はなりながら、いつのまにか深い眠りの中に落ちていった。


 第3話へ続く。

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