まがい屋 2 ファイル7
押戸谷 瑠溥
第1話 序章
「24点の国宝の
江藤はその話を聞いて驚いた。
大阪難波のビルの1室に事務所を構える江藤の元に、とても紳士とは言えない50代の独特の雰囲気を持つ男が現れたのは、5月連休も終わった或る日の午後だった。
やっと初夏の声を聞いて空も澄み渡り、大阪湾上で着陸態勢を取る航空機の機影もはっきり見える日が続いていたのに、今週に入ってからは政治も経済も混沌とする日本の行く末を暗示しているのか、或いは単に偏西風のもたらす北京からの黄砂に含まれる汚染物質のいたずらか、ビルから見える湾の景観は夏霞をかけたようにその姿をぼかしていた。
男は細身の体を地味だが仕立てのいいスーツで包み、やはりこれも目立たないが作りのしっかりした革製のドキュメントケースを小脇に抱え、紹介者の名刺を指に挟んでやって来た。
名前も名刺の交換もなしにしてくれと紹介者に言われていたが、この手の男の正体は割れている。
紳士というには気品と礼節を欠いたようなところがあり、どこか人を見下すような上から目線と、日本を動かしているのは自分たちだといわんばかりの傲岸不遜な振る舞いは、中央官庁の役人どもが、地方の小役人に見せるこけおどしと同じ種類のものだった。
その男が少々のことでは動じない江藤も驚くような話を持ち出した。
書類入れから写真の束を取り出して、硝子のテーブルの上にトランプを並べるように片手で広げて、こう言ったのである。
「どこのものとは申せませんが、国宝に指定されている
それは美術館のパンフレットなどに美しくプリントされた襖絵などとは異なって、どこかの倉庫のような所で素人が携帯カメラで素早く撮ったことをうかがわせる、いかにも
「これはD寺の、J院のものですかな。確か28点が国宝やと記憶しておりますが」
相手が
それは京都屈指の
「恐れ入ります。全38面の襖の、正確には
「それがどないしましたのや?」
「実はJ院に現存するものが贋作だとわかったのです」
「なんですと?」
京都屈指の名刹D寺のホームページでも、またその英語版でも国宝として世界に謳ってきた塔頭の襖絵が贋作となれば、日本そのものの信用と、権威が問われかねない。
ことに新聞社や通信社の、中国に餌付けされて命令されるままに記事の捏造もしてしまう恥知らずな記者の耳に入れば、これだから日本の言うことは全て嘘なのだ、と言わんばかりに貶めてくるのは必至である。
「なんでまた、そのようなことに?」
「実は戦時中のことに話は遡るのです」
男は淡々と語り始めた。
〈敗戦の色が濃厚になり、戦渦に巻き込まれることを恐れて長野県に疎開させていた38面の襖絵の贋作を、旧文部省の社会教育局文化財保存課に勤めるある職員が、日本画家に描かせた〉
〈あくまでもその時は米軍による接収への予防措置だったと、私は信じている。しかし戦後、密かに本物が米国へ持ち出され、贋作がJ院へ戻され、現在に至ったようだ〉
男が続けた。
「で、本物は米国のボーズウィック美術館の所蔵品として、倉庫に眠っておるのです」
ふむ。
聞いた瞬間、この話は難しいと江藤は思った。
ボーズウィック美術館といえば、そんじょそこらの石油成金あたりが税金対策で設立した美術館とは異なり、米国建国当時から指導的役割を果たしてきたボーズウィック家が総力を挙げて、世界中から美術品を買い集めて立ち上げた、超名門美術館である。
聞かなくてもわかるが、そのボーズウィック美術館から24面の襖絵を取り戻す算段をしてほしいというのがこの男の依頼なのだろうが、そんなことは民間の1個人の手に負える話ではない。
国と国とが正面からぶつかって交渉する以外に手はないのだが、それこそは自身の得点を上げるためには日本を切り売りすることも厭わないこの手の男たちの好む戦場だろうに、なぜそれを避けて、自分の所に話を持ってきたのか、その理由を江藤は知りたかった。
「それを取り戻せ、と言わはるのでしょうが、そんな大それたことをなぜ私の者のようなところに?」
江藤は率直にたずねた。
「単なる金での交渉から話の風向きが変わって、政治が絡んできたのです」
男はお偉方がよくやるように、江藤の率直な質問に対して、遠回しに続けた。
〈戦後の旧華族はその9割近い相続税率に悲鳴を上げて、仕方なく貴重な芸術品を二束三文で手放した。
本来なら日本国が買い取るべきだが、GHQ、連合国総司令部の規制がかかって、その大部分が米国へ流出した。
旧ソ連邦はドイツが武力で欧州各国から略奪した美術品を横奪して、今も世界中から非難を浴びているが、米国は奴らが決めた法律で日本の美術品を略奪して、のうのうとしておるのだ〉
〈言うなれば米国の策略だ。今回の件はおそらくそれに乗じた我が国の職員が私利私欲に走ったものと思われるが、それにしても敗戦国だったとは言え、日本を舐めきったやり方に今更ながら義憤に駆られておる。しかし、そうは言っても国宝だ〉
「――何とか取り戻して、本来あるべき所へ納めたいのです」
「なぜ今回、D寺にあるものが贋作やとわかったのですか?」
「文科省からボーズウィック美術館に出向している職員がたまたま見つけて、報告をくれたのです。この写真はその時のものです。折からボーズウィックでは日本の美術展を計画していて、この襖絵のことを調査し始めたようです。先方でも日本の美術品のどんなものがどれほどどういう経緯で倉庫に眠っているのか、未だにはっきりと把握出来ていないようなのです」
「戦後80年も時が経とうとしているのに、ですか」
「それだけ数が多いのでしょうな。それに欧米人の大部分は油彩画の方に魅力を感じていて、日本画を下に見る傾向が強い。だから放っているのでしょうし、だからこそ今がこの襖絵を取り戻す最後のチャンスになるかもしれないのです」
ふむ。男の言うことはわかる。
欧米諸国でも浮世絵の人気は低くはないが、それは創作の
「ちょっとお待ちを」
江藤は相手に断って、携帯のスピーカー機能を使った。
男の話を聞きながら、もしかしたら3カ所くらいから攻めれば何とかなるかもしれない、と思い始めていた。
ボーズウィック美術館と言えば、民主党上院議員コック院内総務が子孫の代表格なのだが、そのボーズウィック美術館は印象派の巨匠、ボルベールの作品を集めていると聞いていた。その政界と美術関係者あたりを絡めることによって、攻略の糸口が見つかるかもしれない。
〈カール・ピーターソンの事務所です〉
秘書嬢の吹き込んだ留守番電話のメッセージが流れたと思ったら、受話器を取り上げる音がして、懐かしい声が聞こえてきた。
〈やあ、嘉治郎かい。3年振りの電話がどうしてこんなに早い時間なんだね?〉
〈ウィーンは今そんな時間なのか?〉
江藤がフランス語で返す。
たとえ目の前の男がフランス語を解していようがいまいが、問題ではない。というより、どれだけの人間が今からこの話に関わるのか、むしろ聞かせた方がよい。
〈ああ。まだ朝の7時前だよ〉
〈そうか。ちょっと聞くけれど、君の国がいま1番欲しがっている
いきなりだな。カールがちょっと電話の向こうで笑って、
〈モーナスの『天地創造』だろうな〉
〈オーストリアが生んだ天才モーナスか。どこにあるんだね?〉
〈米国の近未来美術館の所蔵品になっているよ〉
〈よし。取り戻してやる〉
〈さぞ高くつくんだろうな〉
〈なあに、以前君に借りがあっただろ、その借りを返すだけさ〉
〈そんなに高い貸しだったかな?〉
〈頼みも1つある。それでチャラだ〉
〈そうらきた。何をすればいい?〉
〈いい贋作が欲しい〉
〈どんなやつだね?〉
〈ボルベールあたりがいいかな〉
〈印象派の巨匠か。でもボルベールも我がオーストリアの至宝と言われているんだぜ〉
〈ああ。米国のボーズウィック美術館がボルベールの作品を集めていると聞いているから、1つプレゼントしてやろうと思ってね〉
〈贋作をプレゼントするのかい?〉
〈だからいい贋作が欲しい〉
〈分かった。嘉次郎らしいな。ならばちょっと貸しへの利子をつけるが、いいかい?〉
〈何だい?〉
〈手土産は飛び切りの酒ワインを頼む〉
〈それこそ君らしいな。それじゃ後日〉
江藤も笑って電話を切った。
カール・ピーターソンの名前を知る人は殆どいないが、絵画のアンダーグランドの世界では畏敬の念を以てその名は轟いていた。
ゴッホのひまわり好きは知れ渡っていて、実際に彼自身も何点もひまわりを描いているが、もうこれ以上ゴッホのひまわりは発見されないだろうという予想を覆したのが、20年前の出来事だった。
フランス南西部の片田舎の農家の古い納屋の屋根裏から、埃にまみれた『ひまわり』の画が出てきたのだ。
もちろん贋作だが、絵具のスペクトル分析をしても、またカンバスの縦糸と横糸の折り目数検査をしても、さらに年代測定をしても赤外線による透視検査をしても、贋作だという証拠は示されず、真作の1点に加わった。
それがカールの仕事だということは知る人ぞ知る事実だが、その『ひまわり』の画はオークションで悪名高い機関投資家に、80億の値で落札された。
「何とかやってみますが――」
と、江藤は電話を切って、この男がどこまで本気なのか?相手の真意を探るように、
「――準備に日にちが
「どれほどの準備期間と、いかほどの金が?」
「準備は1年ですな。それよりも金はどれほど出まっしゃろな?」
「200億でも300億でも」
話を請けてもらえそうだとの好感触を得て男は、ややふんぞり返って笑った。国庫金は自分たちの手にあると言わんばかりの、傲慢な笑みだった。
「ほう。50億、60億の話をしとるのやと、思うとりましたが」
江藤は何百億も用意するという相手の言葉に、逆に驚いていた。
「まさか。そんなもので済むとは思ってはおりませんよ」
「しかしそれほどの金を出すのなら、ボーズウィックも黙って譲ってくれるでしょうに」
「そのつもりで交渉していたのですが、政治が絡んで風向きが変わったのです」
「と、言いますと?」
「沖縄を含めたアジアにおける米軍再編成の負担金という問題です。これは200億300億では済まない、何千億から兆円単位の金になりますからね。金の話はまあいいが、奴らの好きにはさせたくないというのが本音ですな。可能ならば日本が旗を振ったと気づかせないやり方で、米国に煮え湯の1杯も飲ませることが出来れば溜飲も下がろうというものです。それで江藤さんにお願いに上がったのです」
男の憤りに江藤は、何だかんだと国のカネで甘い汁を吸いながらも、最後には日本に忠誠を誓っている1人の官僚の気概を見たような気がした。
「わかりました。が、最終的にはアンタはんらも無関係では終わりまへんで。一肌脱いで貰わないけまへんが、その覚悟はおありでっしゃろな」
これは保険みたいなものだった。
官僚も政治家もジャーナリズムも巻き込んでおかなければ、何もかもやったあとに問題が表面化した時、腹黒い政治家と官僚が悪事だけをこちらに押しつけてくるのは目に見えている。
「承知しております」
男が腹を括ったように頷いた。
「ほなら、お引き受けしました」
米国ボーズウィック美術館の地下収蔵庫に眠る国宝の襖絵24点の奪還。それが江藤が仕掛けた『まがい屋ファイル』№7だった。
第2話へ続く。
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