第6話: 努力って、誰が決めるの?
夜中にスマホの画面を見つめながら感じた違和感が、この物語の出発点です。
教室で紡がれる問いは、単なる学習内容ではなく、日常の見え方を変えるきっかけになります。
努力の「評価」が誰に向けられ、何を見落としているのかを、登場人物たちと一緒に問い直していきます。
短い読後でも、日常の誰かをもう一度見直したくなる――そんな一篇を目指しました。
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## プロローグ:検索する夜
深夜二時。スマホの青い光だけが、葵の顔を照らしている。
指が震えながら、検索窓に言葉を打ち込む。
「努力 報われない なぜ」
画面に並ぶのは、どれも似たような答えだ。努力の方向性が間違っている。スキルが足りない。時間の使い方が悪い。もっと頑張れ。
でも。
葵の母は、毎日夜遅くまで介護施設で働いている。腰が痛いと言いながらも、笑顔で「利用者さんに必要とされてるから」と言う。父は休日もパートに出る。
それなのに、生活は楽にならない。
今日、街で見たポスターの言葉が、頭から離れなかった。
「頑張った人が報われる社会へ」
あの言葉は、希望のように聞こえた。
でも同時に、何かが引っかかった。胸の奥で、小さな棘のように。
頑張ってる人は、もう十分報われてるんじゃないのか。
それとも、母さんや父さんの頑張りは「頑張り」じゃないのか。
葵はスマホを握りしめた。コーヒーの香りのするカフェで調べ物をしていた時とは違う。ベッドの中で、涙でぼやける画面を見つめながら、葵は思った。
この違和感の正体を、知りたい。
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## 第1話:努力って、誰が決めるの?
翌朝の公民の授業。
窓から差し込む春の光が、教室を柔らかく照らしている。でも葵の心は、昨夜の重さをまだ引きずっていた。
天野悠先生が教壇に立った。
「今日は、ちょっと変わった授業をしようと思う」
先生は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、黒板に大きく書いた。
「頑張った人が報われる社会」
教室がざわついた。隣の席の星野怜が小声でつぶやく。
「あ、駅のポスターで見た。いい言葉だよね」
でも葵の胸は、また締め付けられた。
天野先生が問いかける。
「君たちは、この言葉をどう思う?」
数秒の沈黙。そして、前の席から佐々木遥が手を挙げた。
「素敵な言葉だと思います。努力した人が報われるのは当然ですよね」
クラスのあちこちで頷く声。葵も、頭ではそう思う。でも心が、何かを拒んでいた。
「藤井さんは?」
天野先生の視線が葵に向けられた。葵は深呼吸をして、口を開いた。
「先生…この『頑張った人』って、誰のことですか?」
教室が静まり返った。
天野先生の目が、明るく輝いた。
「いい質問だね、藤井さん」
先生は、生徒たち一人ひとりの顔を見渡してから続けた。
「じゃあ、みんなで考えてみよう。『頑張った人』とは、どういう人のことだろう?」
クラスのあちこちから声が上がる。
「勉強を頑張った人!」
「部活を頑張った人!」
「仕事で成果を出した人!」
天野先生は、それらを丁寧に板書していく。そして、ペンを置いて振り返った。
「素晴らしい。みんな、自分なりの『頑張った人』のイメージを持ってる。でも…」
先生は、少し表情を引き締めた。
「この言葉を使う政治家や企業のトップは、もっと具体的な定義を持っているんだ」
黒板に、五つの項目が書かれていく。
一、数値で測定できる成果を出した人
二、市場でお金に変換できる価値を生み出した人
三、他の人にはできない、特別なことができる人
四、短い期間で結果を確認できる人
五、その成果が、個人の力だけで成し遂げられたと言える人
葵は息を呑んだ。
先生は続ける。
「例えば。IT企業で新しいアプリを作って、一年で売上十億円を達成した人。金融市場で巧みな取引をして、会社に大きな利益をもたらした人。こういう人たちが『頑張った人』として評価される」
後ろの席から、田中隼人が声を上げた。
「でも、それって普通じゃないですか? 成果を出した人が評価されるのは当たり前では?」
天野先生は優しく頷いた。
「そうだね、隼人くん。それ自体は悪いことじゃない。でも、ここで考えてほしいんだ」
先生の声が、少し静かになった。
「この定義に当てはまらない『頑張り』は、どうなるんだろう?」
葵の胸が、ドクンと跳ねた。
「例えば…」先生は黒板に新しい言葉を書いた。
「市場価値」と「社会価値」
「毎日、認知症のお年寄りの介護をしている人がいる。その人は、利用者さんの表情が穏やかになることを喜びとして働いている。でも、その『成果』は数値で測定できるだろうか? 市場で高く評価されるだろうか?」
教室の空気が変わった。
葵の頭に、母の疲れた顔が浮かんだ。でも同時に、夕飯を作りながら「今日ね、Aさんが笑ってくれたの」と嬉しそうに話す母の声も。
「保育士さんは?」先生は続けた。「子どもの成長を支える仕事だけど、その価値は短期間で確認できるものじゃない。家で家族の介護をする人は? 地域のボランティア活動をする人は?」
遥が、小さく手を挙げた。
「あの…うちのおばあちゃんの介護を、母が家でしてるんです。毎日、休みなく。朝から晩まで。でも、それはお金にならないから、『頑張った』ことにはならないってことですか?」
遥の声が震えていた。
天野先生は、深く頷いた。
「遥さんのお母さんは、間違いなく頑張ってる。誰よりも。でも、さっきの五つの定義には当てはまらない。つまり…」
先生は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「この『頑張った人が報われる社会』という言葉が指す『頑張った人』には、含まれない可能性が高いんだ」
葵の心に、昨夜の違和感が形を持ち始めた。
大西健太が立ち上がった。正義感の強い彼は、顔を真っ赤にしていた。
「それって、おかしくないですか! 本当に社会を支えてる人たちが、『頑張った人』として認められないなんて!」
「そう思うよね」先生は優しく微笑んだ。「君の感覚は正しいよ、大西くん。でも、これが今の社会が定義する『努力』の姿なんだ」
教室が、重い沈黙に包まれた。
葵は、ふと気づいた。いつも静かな佐倉トオルが、拳を握りしめていることに。
天野先生は、最後の問いを投げかけた。
「では、こう考えてみよう。もし全員が『頑張った人』になったら、どうなるだろう?」
誰も答えられなかった。
「次の授業で、一緒に考えてみよう」
チャイムが鳴った。でも、誰もすぐには席を立たなかった。
葵は窓の外を見た。いつもと同じ校庭。でも、もう昨日までの世界とは違って見えた。
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この作品はフィクションでありながら、現実の問題を反映しています。
物語の目的は、正解を示すことではなく、読者が自分の身の回りにある「見えにくい努力」に気づく助けになることです。
読んでくださったあなたが、帰り道や家族との会話で小さな問いを持ち帰ってくれたら、それが何よりの報いです。
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【作者より】
この物語はフィクションです。
現実の政治状況を題材にしていますが、登場人物や教室での対話は創作です。
社会問題を考える「きっかけ」として読んでいただければ幸いです。
特定の立場を支持するものではありません。
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