第15話
ネオンと喧騒に彩られた表通りを、俺はいつもよりペースを落として歩く。うっかり普段の歩き方に戻ってしまった時は、一旦足を止め、彼女が追いつくのを待ち、歩幅を狭くして、またゆっくり歩き始める。
横を歩いているのは、セリーンだ。足の長い彼女も歩幅は大きめだろうが、俺の方が背の高い分、歩幅が伸びてしまう。だから俺が彼女に合わせなくてはならない。
俺たちはしばらく、互いに口を利かなかった。セリーンは、俺のジャケットを、身体に巻きつけるようにして羽織ったまま、時折俺をちらりと見上げた。俺もまた、時々彼女を見下ろし、様子を伺った。たまたま目が合うと反射的に逸らしてしまうのは、どうにかならないものかと、我ながらに思う。
女性に不慣れな男子学生でもあるまいに……。
何か話そうとは思うのだが、言葉がうまく出てこない。喉の真ん中で、押しとどめられているような感覚だ。
そもそも、俺は彼女に質問していい立場にあるだろうか。彼女の前から去ったのは俺だと言うのに。
元気だったか。まだあの会社に勤めているのか。今は何をしている。恋人はいるのか。結婚は。
そんな、プライバシーに触れる内容の質問をする権利は、今の俺にはないのだ。
むしろ、セリーンの方こそ、訊きたいことが山とあるに違いない。
まず、昔の俺とは雰囲気が違って見えるはずだ。痩せぎすだった俺は、〈セミナーハウス〉でのハードな訓練によって筋肉が付き、体型が以前の倍以上に膨れた。それから、本土に戻って〈
俺は自分の容姿には頓着しないのだが、昔の俺を知るセリーンには、困惑の種にしかならないだろう。
何より問題なのは、約九年間のブランクだ。退職の理由も、どこへ行くのかも告げずに、俺は
そんな男が、まったく違う風貌で目の前に現れたら、誰だって戸惑う。
一方でセリーンは。
ショートだった亜麻色の髪は、背中にまで届く長さになり、歩くたびに夜風に揺れる。Tシャツとジーンズとスニーカーが定番だった服装は、カジュアルながらも大人びたデザインのものに変わり、低めのヒールのパンプスを履いている。
溌剌とした美少女は、九年の歳月を経て、匂い立つような美しさを育んだ大人の女性に成長していた。
少女だったセリーンが、今や二十代の女性として、俺の隣にいる。彼女への想いなど、とっくに捨てているというのに、何故か胸がざわついた。
セリーンは、物言いたげな目で俺を見上げる。質問したい気持ちでいっぱいなのではないだろうか。
俺が訊くべきは、何故あの連中に襲われたのか、ということだ。
道を歩いている時に目をつけられ、強引に連れて行かれたのだと考えられる。あの四人は何者だろう。目つきや身のこなし、細かな所作から判断するに、まず堅気ではない。しかしながら、
暴漢の四人は、あの場に放置してきた。奴らをどうにかするよりも、セリーンの安全を確保する方が先決だったからだ。あんな状態では、しばらく悪事は働けないだろうし、放っておいても情報屋に訊けば、素姓や居所などすぐに割り出せる。アトランヴィルの情報屋は優秀だ。
警察に届け出ることをセリーンに進めてもみた。未遂とはいえ、婦女暴行の被害者なのだ。このような事案で被害届を出すということが、女性にとってどれほどの苦痛とストレスになるのか、男の俺でも想像できる。辛いかもしれないが、一応そういう手段をとることも出来ると、控えめに彼女に話してみたのだ。
セリーンは、被害届は出さない、と答えた。二度と関わらなければ、このままなかったことにする、と。
それが彼女の意思なら、俺の口出しは無用だ。
だが、もし奴らがまたセリーンに手を出したら、その時は容赦しない。
汚い手でセリーンに触れ、犯そうとした連中を、許すことは出来ない。
また胸が、ざわり、となった。
無言のまま歩き続け、やがてマンション街へとたどり着いた。
「ここまででいいです」
くすんだオレンジ色の、煉瓦調外壁の建物の前で、セリーンは足を止めた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
見上げる彼女の目を正面から受け止められず、俺はよそを向いて、
「いや、礼はいらない」
もごもごと不明瞭な声で答えた。
「あ、あの、今更なんですけど。お久しぶりです」
「ああ……、久しぶり」
「まさかこんな形でまた会うことになるなんて、考えてもみなかった」
「そうだな」
味気のない簡素なやりとり。
もっと他に言うべきことがあるだろう、と俺は自分自身を叱責した。だが、言葉はうまく喉を通らず、唾と一緒に飲み下される。セリーンもまた、何を言えばいいのか迷っているようで、目が泳いでいた。
俺たちは口を閉ざし、沈黙の中、ただ向かい合った。視線を交わらせることなく。
「じゃあ、行くよ」
しばらくして、俺は一歩後退する。セリーンを送り届けるという務めは果たした。
セリーンの、今夜の嫌な出来事は、時間はかかるかもしれないが、いつか癒えるだろう。俺のことも、また忘れていくはずだ。彼女は日常に帰っていくのだ。
俺は裏の社会に戻る。それで終わりだ。何もかも、これまで通りになる。
何も問題はないはずなのに、俺の足運びは緩慢だった。この場を去り難い思いを拭いきれないせいだ。
ここで別れたら、セリーンとは二度と会わないだろう。
それを俺は、惜しい、と感じている。
――未練か。
――九年も経っていながら。あんなことがありながら。
――それでもまだ。
「待って!」
背中に投げられた声に、俺は足を止めた。振り返れば、追いかけてきたセリーンが、二歩ほど離れて立っている。
「あの、連絡先、教えてください」
「え?」
「まだ、お礼をしてません」
「いや、礼は……、いいよ。さっき聞いたから」
「それじゃあ、あたしの気が済まないです。ちゃんとしたお礼、させてください。それに、話したいこともたくさんあるし」
真っ直ぐに俺を見上げる、二つのオリエンタルブルー。
かつてと同じように、俺はその
話したいこと。
そんなもの、今更あるというのか。
――あるとも。山のようにな。
*
そのドアの先に何が待っているのか。充分過ぎるほど分かっている。
この世の魔窟、あるいは深淵。
そのドアをくぐることは
俺は深呼吸してから、自動ドアの前に立った。センサーが反応し、ドアが横にスライドして開く。
途端、中に篭もっていた様々な音が、爆風のように押し寄せた。
歌、伴奏、やかましい話し声。漂う酒気。鼻をくすぐる煙の臭い。それらを抱擁する淡いピンク色の照明に染められた店内は、怪しい雰囲気満載だ。
店内には、仮装大会でも行われているのかと思いたくなるほど、奇抜なデザインのドレスを着たコンパニオンたちがいて、ふさふさのつけ睫毛を
そのうちの一人、黄緑色に染めた髪をソフトクリームのように高々と巻き上げたコンパニオンが、俺の存在に気づき、金切り声を上げた。
「きゃあああああっ! バージルさんだわ! バージルさんがお越しよおおっ!」
その一言で、他のコンパニオンたちが一斉に俺の方を向いた。そして、黄色い声を上げながら、一斉に突進してきた。
「やだーーー! いらっしゃいバージルさん!」
「久しぶりじゃなーい! もっと遊びに来てよう!」
「今日もお髭がむさ苦しくていいわあ!」
「背中ひろーーい、あったかーーい」
「いつ見ても立派な上腕二等筋だわねえ」
「やっぱり男の胸板は、このくらい厚くなくっちゃねえ」
コンパニオンの“彼女”たちは、隙間なく俺を取り囲み、好きなことを言っては、好きなように俺を触りまくった。そのうち誰かが俺のシャツをめくり上げ、みんなでぺちぺちと腹筋を叩き始めたが、俺は拒まなかった。というか、拒めなかった。勢いと熱気に押されて、拒否する隙が見出せない。
“彼女”たちにこうして触られるのは、ここの常連客である以上、避けては通れない“儀式”である。本来なら初来店時に、この“通過儀礼”をクリアすれば、二度目の来店以降は、普通に接してくれるはずなのだが。
何故か俺は、いつ来てもボディタッチの嵐に見舞われた。
悪人でもない相手を邪険に出来ない性格であることは、早い段階で見破られている。だから、俺が拒みきれないのをいいことに、好き放題触るのだ。
触られている間、俺はじっと耐える。気が済めば解放してくれるのだから、しばらく辛抱すればいいだけのことである。
まあ、美しく着飾っているとはいえ、複数の男に身体中撫で回されるというのは、気分的にはあまりよろしくはない。中には、本物の女性のような美貌を持つ者も何人かいるが、全員、正真正銘の男である。
そう。“彼女”たちは男。イーストバレーが誇る老舗のゲイバー〈プレイヤーズ・ハイ〉の蝶たちなのだ。
香水とアルコールの匂いを纏った女装たちにもみくちゃにされていると、一分一秒が果てしなく長く感じる。
タッチ大会もそろそろ終わるか、という時。誰かが俺の尻を触った。触られた、というか、掴まれた。
「お、おい。尻はやめてくれって言ってるだろ」
「えー? じゃあ前は?」
「ま、前も駄目だ」
「けちー」
青髭のコンパニオンたちは、赤やピンクの口紅で彩った唇を、アヒルのように尖らせて抗議した。
俺にだって越えさせたくない一線はある。それだけは死守しなければならない。
そんな、実りのないやりとりを続けていると、
「はいはいはいアンタたち。そろそろ離れなさい。女装した野郎の群れに囲まれるなんて、どういう地獄よ。ほーら、持ち場に戻りなさいな」
俺と同じくらいの背丈の人物が、コンパニオンたちを押しのけ現れた。
目の覚めるような鮮やかなイエローのドレスを身に纏い、筋肉質の足を、同じくイエローのハイヒールブーツで包んだ装い。豊かで豪奢なホワイトブロンドの髪を揺らして周りを見渡し、ぱんぱんと両手を打ち鳴らす。
「お触りはもうおしまい。バージルの前も後ろもアタシのものなの。分かったらさっさと散りなさい。お仕事お仕事」
コンパニオンたちは「はーい」と調子のいい返事をして、俺に手を振りつつ、店内のあちこちに移動していった。
やっと自由になった俺は、解放してくれた人物を、改めて見る。向こうも俺ににこりと笑いかけ、肩にかかるホワイトブロンドをやんわりと払った。
「久しぶりね。来てくれて嬉しいわ」
「このところ顔を出せなくて悪かった。ところで、俺の前も後ろもあんたのものになった覚えはないが」
「やあねえ。ああでも言わないと、あのコたちが離れないでしょ。でも、いつでもアタシに
「まあそういう話は置いといてだな」
最後まで言わせてはならないと、俺は彼女の言葉を慌てて遮った。
「少し訊きたいことがあって来たんだ」
ホワイトブロンドの彼女は、自信に満ちた笑みで頷いた。
「よくってよ。このママ・ストロベリーに、何でも訊いてごらんなさい」
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