一章 魔法使いの弟子編
第1話 魔法使いの弟子 前編
このドアを開けたら、暖かく迎えてくれるだろうか。それとも、拒絶されるだろうか。
祈るような気持ちでドアの前に立つ少女は、立ち尽くしたまま、ここまでの道のりを思い返していた。
二日前――。
雨上がりの土の匂いがする、午前7時。孤児院に魔法使いが訪ねてきた。夜空のようなローブを羽織り、顔はよく見えなかったが、不思議と恐れは抱かなかった。
魔法使いの男は手紙を一通差し出して少女――アテラス――に問いかける。
『魔法使いの君は、十歳になれば孤児院を出ることができる。だが望めば今すぐ魔法使いへ弟子入りすることもできる。君の人生だ、君が選ぶんだ』
アテラスは戸惑ったが、やがて彼が持つ手紙を受け取り、その日のうちに孤児院を出ることに決めた。なけなしの荷物をトランクに詰め込み、魔法使いの男が用意した馬車に乗り込む。馬車の窓越しにその男が何かを言いかけていたように感じたが、振り返った瞬間もう姿は見えなくなっていた。車窓に写る赤毛の少女は、疲れ切った顔をしていた。
(……ずっと独りぼっちだった。わたしが魔法使いだから、他の人と違うから。惨めで辛くて、それでもいい子でいようと頑張ったけど、やっぱり誰も優しくはしてくれなかった……わたしの居場所は、どこにあるのかな)
降り注ぐ雨はドアの前に佇む少女の体を伝い、指先を冷やしていく。どうか、この扉の中の人が優しい人でありますように。震える指を握りしめ、少女は覚悟を決めた。
♢♢♢
――雨の夜は嫌いだ。忘れていたいことを思い出すから。
何時までたっても止む気配のない雨音は、軽快なリズムを立てて緑色の屋根の上を走り回る。町はずれにある、古くて小さな家。部屋には乱雑に本が積み重ねられ、酒瓶がいたるところに転がっている。
――水をたっぷり含んだ足音。魔物の咆哮に、耳をつんざくような悲鳴。穏やかで平和だった一つの村が、たった一夜にして滅びる。残ったのは、泣き叫んでいる自分だけ。
嫌な記憶ほど色褪せず、何十年と経った今でも鮮明に再生することができる。月光を集めて織られた絹糸のような長い銀髪を揺らめかせ、エレクトラは不快感を琥珀色の酒で流し込んだ。溶けた氷を虚な眼で見つめていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえる。
「はーい……」
面倒くさそうにドアを開けると、視界には誰もいない。目線を下げると、赤毛のもっさりとした子供が一人佇んでいる。
「お嬢ちゃん、悪いけど今日は帰んな。依頼なら役所を通しておくれ」
そう言ってまたドアを閉める。赤毛の少女は一言も発さず、ドアが閉まる瞬間までこちらをじっと見ていた。
飲み直そうと酒瓶を手に取ると、ドアの郵便受けから白い手紙が滑り込んでエレクトラの手元に収まる。
青い封蝋を見て一目で差出人が分かり、露骨に眉根をゆがめた。人差し指で空を切ると、手紙は自分から中身を差し出してくれる。手紙を一瞥したエレクトラは眉を顰めて吐き捨てるように言った。
「あの爺さん、ついに耄碌したのか?」
苦々しい顔で読み上げた手紙に書かれていたのは、たったの三行。
【弟子をやろう 赤毛の魔法使い 今晩そちらに行く】
手紙の後ろには姿絵付きの報告書が一枚。
踵を返し、つかつかと足音を響かせて、再び玄関のドアを勢いよく開けた。
「お前か……」
そこには赤毛の少女が先ほどと同じ格好で立ち尽くしていた。茶色のワンピースに生成りのエプロンをつけている。孤児院の子供がよく着ている服装だ。トランクを小さな両手でしっかり握りしめていた。
「はぁ……」
思わず大きなため息をつくと、びくっと少女の肩が震えた。
「お前、名は?」
「あ、あ、アテラスです……」
重たい前髪に隠れているせいでどんな表情をしているのかが分からない。
(おどおどして野暮ったい子だな……)
フンと一息鳴らし、少しだけ腰を屈めて目線を合わせてやる。
「アテラスとやら、誰に何を言われたかは知らないが、あたしは弟子をとる気なんかないんだ。孤児院にお帰り」
精一杯優しい口調で言ったつもりだが、少女はエレクトラの言葉を受け取ると古びた茶色いトランクを地面に落とし、さめざめと泣き始めた。
だから子供は嫌なんだ……と口には出さない代わりに頭を抱える。
「こ、孤児院には帰さないでくださいっお願いします、なんでもします……」
ほろ酔い気分はすっかり覚めた。目の前で泣いているこの人参娘をどうしたものかと腕組みをして考えていると、傘をさしてこちらを走ってくる少年が一人。便利屋のルネだ。
「ちわっす、頼まれてたもの持ってきました……ってどうしたんすか」
怪訝な顔をした彼は、お得意様の魔法使いと泣き止まない少女を交互に見やる。エレクトラはパンやら葡萄酒やらが詰め込まれた篭を受け取り、代金を支払った。
「どうもこうもないよ、爺さんが急に寄越してきやがったんだ。このあたしに弟子を育てろだと。人にものを教えられる器じゃないよ、不適合者だって分かってるだろうに」
代金を受け取ったルネは少女を横目で見た。興味が湧いたのか、顔を覗き込むようにして問いかける。
「お前、どこから来たんだ?」
「……フォーサイス」
少女は泣きながら言葉少なに答えた。
「フォーサイスってどこすか」
「エイヴェリー領だな。王都にほど近い場所だ」
いまいちピンとこなかった少年の好奇心は薄れたようで、ただ一言『ふーん』と漏らすだけだった。
「またのご利用お待ちしています!」
帽子を脱いでお辞儀をし、また雨の中を足早に走り去っていった。
この町からエイヴェリー領までは馬車で二日ほどかかる。雨の中、今すぐこの少女を元いた場所へ帰すのは現実的ではないだろう。
「……明日魔法宮廷に上がった時お前の処遇を決めよう。お入り」
エレクトラが玄関のドアを開けると、オレンジ色の優しい光が少女を照らした。アテラスは頬を伝う涙を手で無理やり拭い、恐る恐る魔法使いの家へと足を踏み入れた。
ぱちぱちと暖炉の爆ぜる音。その前にある木製のゆり椅子。青や緑色の小瓶が並ぶ飾り棚。どれもこれもアテラスの目には新鮮なもので、口を開けてキョロキョロ室内を見渡している。中でも天井まで届く大きな本棚は圧巻で、無意識に引き寄せられ本の背表紙の装飾を目で追っていた。
「……何も触るなよ」
エレクトラが釘を刺すと、アテラスは慌てて三回頭を縦に振った。
(さて、この家には子供が喜ぶものはないが……風呂か飯、どっちだ?)
少女を上から下まで観察する。薄汚れた服にゴワゴワの髪、服はところどころ雨に濡れてシミになっていた。
「まずは風呂だな」
エレクトラは長い髪を後ろで一つに束ねた。バスタブに湯をはり、シトラスの香りがする香油を数滴滴らす。頭に桶で湯をざぶんとかけ、髪をブラシでとかそうとするが、癖っ毛な上に手入れがされていない赤毛は頑固でくしを通そうとしない。
「なんて厄介な髪の毛なんだ……」
顔を引き攣らせながらブラシで赤毛をとかしていく。そこに泡をたっぷりのせて、ゴシゴシと丁寧に洗っていった。泡をまた湯で流すと、濡れた綺麗な赤毛が現れる。
「これでいいか。体は自分で洗えるね?ゆっくり浸かりな」
風呂場の戸を閉めると、心に沸いた感情を振り払うように前髪を掻き上げる。服を脱がせた時に見えた、痩せ細った体。膝の裏の傷は、折檻されたような跡だった。
「同情するなよ、責任なんて持てやしないんだから……」
そう自分に言い聞かせながら指をくるりと回すと、食器棚から白いマグカップが飛んできてミルクが注がれる。指先に小さな魔法陣を浮かべてミルクを温めると、戸棚にある大きな瓶を取り出し、木のスプーンでとろりとした蜂蜜をすくう。カップにスプーンを突っ込み、くるくるとよく混ぜた。
「あの……」
振り返ると、寝巻きのワンピースに着替えたアテラスが頭を下げて立っていた。
「お風呂、ありがとうございました」
小さいのに礼儀正しいものだ、と感心したエレクトラは濡れた髪の毛を魔法で乾かしてやった。
「さあ、お次は飯だ。」
ハムとチーズを挟んだサンドイッチとはちみつ入りのミルクを机に並べ、椅子へ座るように目で促す。アテラスは少し戸惑い、遠慮がちに椅子に座った。
「食べな」
皿を目の前に寄せてやると、自分はグラスにまた酒を注いだ。アテラスは小さな声で手を合わせた。
「いただきます」
口いっぱいにサンドイッチを頬張る姿が森のリスを思い起こさせる。夢中で食べているところを見ると、余程腹が減っていたのだろうと思ったが、半分ほどで突然食べるのをやめてしまった。
「どうした?腹が膨れたか?」
「いえ……あの……残りは明日の分に取っておいてもいいですか」
その途端ぐぎゅるるる、と大きな音が鳴った。少女はぐっとお腹に手を当て、腹の虫をなだめるようにさする。
「……腹が減っているなら全部食べなさい。明日の飯はまた明日作ってやるから」
呆れたようなエレクトラの声に一瞬顔を強張らせたが、おずおずとサンドイッチに手を伸ばし、また黙々と食べ進めた。最後にミルクを飲み干して一息つくと、瞼が急に重くなったようで目を擦る。
「さぁもう寝るぞ」
階段を上がった先には二部屋あり、一室がエレクトラの寝室だった。窓の横にベッドが、側には花の形をしたランタンがある。壁際には小さな緑色の机があった。天井からはたくさんのドライフラワーがつるされていて、部屋の中は花の香りで満たされている。
「そのベッド使っていいから」
アテラスがベッドに入ったことを確認すると、指をパチンと鳴らしてランタンの明かりを消した。階段を下りて一階に戻り、暖炉の前のゆり椅子に腰かける。
(してやれるだけのことはしてやった。明日のことは明日の自分に任せよう)
暖炉の温かさがエレクトラを微睡みの中に連れていく。頬杖をつき、窓を叩く雨音を子守歌にしてそっと目を閉じた。
翌朝、雨はすっかり止んで、窓から明るい光が差し込む。ゆり椅子で眠ったので体が凝り固まり、肩をほぐすように大きく伸びをした。
エレクトラは階段を上がり、寝室へと向かった。扉を開けると、規則正しい寝息が聞こえる。ベッドには赤毛の少女が布団にくるまり、体を丸めて眠っていた。ベッドに腰掛け、肩を何度か揺り動かし起こそうとする。
すると昨夜は重たい前髪で隠されていた目元が、露わになっていた。陽の光に透けたまつ毛の先がふるっと揺れる。まだあどけない寝顔には疲れの色が滲んでいた。
「起きろ、朝だぞ」
アテラスが瞼をゆっくり開けた。その瞳の色を見た瞬間、エレクトラは息をのんだ。少女の瞳は宇宙を閉じ込めたように絢爛と瞬き、黒い虹彩の中に遊色を浮かべている。それは遠い昔に読んだ魔導書の一節を記憶から呼び起こすほど、美しい色をしていた。
(魔法使いの瞳はオプタルミオスと称され、宝石のように美しく煌めいている。それはまるで小さな宇宙を閉じ込めた万華鏡だ。幾千もの星の光を宿した神秘なのだ、だったな。黒曜石のような黒の光彩の中に……遊色の数が多い。赤、橙、黄、緑、青、紫、金の七色か)
「特級のオプタルミオスか……なるほど、爺さんがあたしに寄こすわけだ」
視界に前髪がないことに気が付いたアテラスは真っ青になり、慌てて両手で目を隠して体を縮こめた。
「なぜ隠すんだ?」
怪訝な表情を浮かべて問いかけると、少女は震える声でぽつりと溢した。
「お、怒られる、から。化け物って言われて、ぶたれる」
心臓がぎゅっとつままれる気分だった。孤児院で相当肩身の狭い思いをして生きてきたのだろう。魔力制御が可能になれば普段は魔法で隠すことができるが、変化したばかりの幼い子供なら常時人とは違う特徴をさらす羽目になる。それは閉鎖的な孤児院では格好の餌食だろう。人は自分たちとは違うものに対して敏感だ。幼い子どもは特に、はみ出し者を嫌う。
「ここにはそんなこと言うやつはいない。綺麗なオプタルミオスだ。隠すだなんて勿体ない」
そっとアテラスの頭に手を添えると、手の隙間から除く小宇宙と目線がかちりと合う。
「この世界には魔法が存在するが、生まれながらの魔法使いはいない。魔力は後天的に発現するものだ。魔法使いはある日突然、オプタルミオスという宝石のような輝きの光彩に変化するんだ。ただの人間と魔法使いを見分けることのできる唯一の身体的特徴がこの瞳なのさ。それ以外は普通の人と変わらない。魔法使いだって感情もあって血が通う人間だ」
「知らなかった……ずっと気味が悪いって、普通じゃないって言われてたから……」
呆けたような表情で手をゆっくりおろすと、朝日に照らされた瞳は落ち着きを取り戻したようだった。
「知らないことはこれから知っていけばいいんだ。おいで、朝飯にしよう」
二人は寝室から1階に降り、朝食をとった。
♢♢♢
朝食を食べ終えた二人は、庭先に出た。エレクトラは昨夜と同じ、白いシャツに黒いズボンというシンプルな装いの上から、夜空のような紺碧のローブを羽織っていた。胸元には太陽の形をしたブローチを付けている。
彼女が手をかざすと、箒が瞬きするほどの速さで現れ、腰の位置より少し下に浮遊していた。
「箒に乗ったことは?」
ふるふると首を左右に振り戸惑っていると、脇の下に手を入れられ、エレクトラの前に座らされた。細くて固い柄なのに、なぜか柔らかいクッションの上のような座り心地だった。
不思議に思っていると、左手で箒の柄を持ち、右手でアテラスの体を支えたエレクトラはにやりと笑った。
「口は閉じてろよ。舌を噛むからな」
と言うが早いか、二人がまたがった箒は地上からロケットのごとく、勢いよく蒼穹に飛び立った。あまりの速さと感じる重力に息をすることも忘れ、身を固くして歯を食いしばる。
すると唐突に周囲が静まり返り、全身で感じていた疾走感が緩やかなものに変わった。
ふと、頭の上から気持ちの良い笑い声が聞こえてくる。恐る恐る目を開けて見上げると、エレクトラは肩を揺らし、大口を開けて笑っていた。
「悪いね、飛び立ちは昔から苦手なんだ」
エレクトラの爽快な笑い声は、孤児院でいつも聞いていた、自分を嘲笑う下卑た声とは違う。
突き抜けるような青い空を背負い、銀糸の髪をなびかせる魔法使いは、この大空を自由に羽ばたく鳥のようだと密かに思った。
「下を見てごらん」
眼下を見下ろすと、そこには陽光を浴びてきらきらと煌めくコバルトブルーの海が広がっている。アテラスは海を見たのは初めてだった。
(空も海も、青い……ちかちかする)
瞳いっぱいに映し出された雄大な空と海の青、赤毛を撫で上げる潮風、そのどれもがアテラスの小さな心をとらえて離さない。か細く感嘆の声を漏らすことしかできなかったが、その瞳の輝きを見れば、言葉で言い表せない程の感動を胸に抱いているのは明らかだった。
エレクトラの住むセイレムという名の町は既におもちゃのように小さくなり、山の上でオレンジ色の屋根がひと際目立って見える。
「このまましばらく海沿いを飛ぶ。魔法宮廷はこの国最北の地だ」
この国、レクトノガード王国は島国だ。四方は海に囲まれており、近隣に他国はない。島の形は竜のような形をしている。その昔、初代の王が島を支配していた邪悪な竜を退治してこの国を建国したとされている。この国の人間なら誰でも知っているおとぎ話だ。
この先に自分を待ち受けているものがどんなものなのか、幼い少女には分からない。願うことはひとつ。自分が存在しても許される居場所が欲しい――ただそれだけであった。
そのささやかな願いは、いずれこの国を救う奇跡に繋がることを、今は誰も知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます