第4章「妻という名の、透明な労働者」

 月曜日、午前六時。目覚まし時計が鳴った。


 達也(in 彩花の身体)は重い瞼を開けた。今日からいよいよ、彼は妻の生活を本格的に送らなければならない。


 隣を見ると、彩花(in 達也の身体)がすでに起きていた。彼女は鏡の前でネクタイを締めようと格闘している。


「えぇと……どうやるんだっけ……」


「貸して。俺がやるから」


 達也は起き上がり、彩花の前に立った。そして、彼女の——いや、自分の——首にネクタイを結んだ。奇妙な光景だ。自分の身体に自分でネクタイを締めている。いったいどういう状況だこれは。


「ありがとう……」


 彩花は複雑な表情を浮かべた。


「お前も……今日は頑張んきゃいけないしな……」


「うん……達也も、ね」


 二人はお互いに励まし合った。


 彩花は午前七時に家を出た。達也の身体でスーツを着て、満員電車に乗る。これも初めての経験だった。デザイナー時代はリモートが多かったし、そもそもコアタイムに出勤すればよかったのでこんな満員電車に乗ることもなかった。


 達也は一人、家に残された。

 彼の——いや、彩花の——一日が始まる。


 まず、朝食の片付けだ。食器を洗い、拭いて、食器棚にしまう。簡単な作業のはずだが、どこに何をしまうべきかまったくわからなかった。


「ええと……この皿は……」


 十分ほどかかって、なんとか片付けを終えた。


 次は洗濯だ。洗濯機に洗濯物を入れ、洗剤を入れ、スイッチを押す。それ自体は簡単だ。しかし、彩花が言っていた「色物と白物は分ける」というルールを思い出した。


 達也は洗濯カゴをひっくり返し、洗濯物を色別に分け始めた。しかし、これは白なのか、色物なのか? グレーのシャツは? 薄いピンクのタオルは? 判定が微妙なものが多すぎる……!


 結局、完璧に分けることは諦め、なんとなくで分類した。


 洗濯機を回している間、掃除機をかける。リビング、寝室、廊下。掃除機のコードが家具に引っかかり、イライラした。


「なんだよ、この邪魔なコード……!」


 あと家具の隙間など、掃除しづらい部分があるのにも閉口した。

 掃除機をかけ終わる頃には、すでに午前十時を過ぎていた。


 達也は疲れてソファに座り込んだ。まだ午前中なのに、もうクタクタだ。


「彩花……毎日こんなことやってたのか……」


 彼は初めて、家事の大変さを実感した。


 午前十一時、達也は買い物に出かけた。今日はパートがない日なので、彼女のスケジュールでは買い物の時間だ。


 スーパーに着くと、達也は買い物リストを確認した。彩花がスマホに残してくれたリストだ。


 しかし、問題が発生した。


「ニンニクって……どこだ?」


 達也はスーパーの中で迷った。

 地元で一番大きなスーパーだ。

 当然野菜売り場も広く、どこに何があるのかわからない。


 ようやくニンニクを見つけたが、次は別の問題が発生した。


「国産と中国産……どっちを買えばいいんだ?」


 価格は中国産の方が安い。しかし、彩花はいつもどちらを買っているのだろう。


 達也は悩んだ末、国産を選んだ。


 買い物を終えて帰宅したのは正午過ぎ。

 重い買い物袋を持って歩いたので、すでに腰と腕が痛い。


 家に着くと、洗濯機が終わっていた。達也は洗濯物を取り出し、ベランダに干し始めた。


 しかし、これも簡単ではなかった。


「シャツは……肩の部分をハンガーに……」


 彩花の指示を思い出しながら、一枚一枚干していく。しかし、途中で洗濯物が風で飛ばされそうになり、慌てて押さえた。


「くそっ……!」


 洗濯物を全部干し終えたとき、達也は汗だくで疲労困憊になっていた。


 午後一時。昼食の時間だ。


 達也は冷蔵庫を開けた。昨日の残りのカレーがある。それを温めて食べることにした。


 一人で食べる昼食は、妙に寂しかった。

 彩花はいつもこんな想いをしていたのか……。


 午後、達也は床の雑巾がけをした。彩花のスケジュールには「月曜:床掃除」と書かれていたからだ。


 雑巾を絞り、膝をついて床を拭く。リビング、廊下、寝室。家は思ったより広く、拭き終わるのに一時間以上かかった。


 腰が痛い。膝も痛い。おまけにこの姿勢だと、ダイレクトに胸の重みと揺れを感じてかなり大変だ……。


「こんなこと……毎週やってるのか……」


 達也は彩花の体力と根気に驚いた。


 午後三時、ようやく一息つけた。

 達也はソファに座り、スマートフォンを手に取った。


 彩花からメッセージが来ていた。


「大丈夫? 仕事、難しいけどなんとかこなしてる……でも大変」


 達也は返信した。


「こっちも大変だ。家事って、想像以上にキツいんだな」


 しばらくして返信が来た。


「ごめんね……いつもありがとう」


 その言葉に、達也は胸が詰まった。いや、謝るのは自分の方だ。


「こっちこそ。彩花の苦労、全然わかってなかった」


 二人は短いメッセージを交わし合った。


 午後四時、達也は夕食の準備を始めた。今日のメニューは生姜焼き。彩花が書いたレシピを見ながら作業する。


 豚肉を切り、生姜をすりおろし、タレを作る。フライパンで肉を焼く。


 しかし、火加減が難しい。肉が一部焦げてしまった。


「あれっ、なんで……」


 それでも、なんとか形になった。サラダも作り、味噌汁も作った。


 午後六時、彩花が帰宅した。


「ただいま……」


 疲れ切った様子の彩花を見て、達也は立ち上がった。


「おかえり。夕食、できてるよ」


「ありがとう……」


 彩花はダイニングテーブルに座った。達也が用意した夕食を見て、目を潤ませた。


「これ……達也が作ったの?」


「ああ。まあ、下手だけど……」


「ううん……嬉しい」


 彩花は箸を取り、生姜焼きを口に運んだ。味は……完璧ではないが、悪くない。


「美味しい」


「本当か?」


「うん。本当」


 二人はきちんと向かい合って食事をした。


 食事の後、彩花は今日一日の出来事を話した。


「会議が……すごく大変だった。クライアントからの要求が無茶で……」


「ああ、あの人たちはいつもそうだ。でも、ちゃんと理論的に説明すれば、理解してくれる」


 達也はアドバイスした。


「でも……私、うまく説明できなくて……」


 彩花は落ち込んでいた。


「大丈夫。初日だし。明日はもっとうまくいくよ。今日一日乗り切れただけでも立派なもんさ」


 達也の励ましに、彩花は少し笑顔を見せた。


「達也は……家のこと、大丈夫だった?」


「正直……舐めてた……。こんなに大変だとは思わなかった……」


 達也は率直に答えた。


「洗濯物干すだけで汗だくになったし、掃除機かけたら腕が痛いし、床の雑巾がけで腰をやられそうになった」


 彩花は笑った。


「そうでしょ? 毎日やってると、身体が慣れるんだけど」


「お前……すごいよ。こんなこと毎日やってるなんて」


 達也の言葉に、彩花は驚いた。

 達也がこんな風に自分を褒めてくれたのは、いつ以来だろう。


「ありがとう……」


 彩花の目に涙が浮かんだ。


 その夜、二人は一緒にテレビを見た。以前はそれぞれ別のことをしていたが、今は自然と同じソファに座っていた。


「明日も……頑張ろうね」


 彩花が言った。


「ああ。お互いに」


 達也は頷いた。


 そして二人は、少しだけ心の距離が縮まったことを感じていた。



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