第3章「初めての彼女の一日」

 土曜日の午後、川村家のキッチンでは異様な光景が繰り広げられていた。


 達也(in 彩花の身体)がエプロンを着けて、まな板の前に立っている。彼の——いや、彼女の?——前には、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎが並んでいた。


「まず……カレーを作れるようになろう」


 彩花(in 達也の身体)が横から指導している。


「包丁の持ち方は……そう。でも、もっと手首を使って。あ、あぶない! ちゃんとと手は猫の手にして」


「手首を使うって……こうか? 猫の手って……なに?」


 達也はぎこちなくニンジンを切り始めた。しかし、厚さがバラバラだ。


「もっと均等に。火の通りが変わっちゃうから」


「難しい……」


 達也は額に汗を浮かべた。こんな単純そうに見えた作業が、こんなに難しいとは思わなかった。


 彩花は達也の不器用な手つきを見ながら、複雑な気持ちになった。自分は毎日、これを当たり前のようにやっている。しかし達也にとっては、初めての試練なのだ。


「玉ねぎは……目に沁みるな……」


 達也は涙を流しながら、玉ねぎを切った。


「水にさらしておくといいよ」


 彩花のアドバイスに、達也は頷いた。


 一時間後、なんとかカレーの材料を切り終えた。しかし、それは始まりに過ぎなかった。


「次は炒めて……」


 彩花の指示に従い、達也は材料をフライパンに入れた。しかし、火加減がわからない。


「強火? 中火?」


「中火でいいよ。焦がさないように、時々混ぜて」


 達也は必死にフライパンを揺すった。しかし、慣れない動作で、材料が飛び散った。


「あっ……!」


「大丈夫、大丈夫。拾えば。3秒ルール、3秒ルール」


「いや、これ3秒で拾うの無理だろ」


 達也の嘆息に、彩花は苦笑いした。


 結局、カレーが完成したのは三時間後だった。通常の彩花なら30~40分で作れる。


 二人はダイニングテーブルでカレーを食べた。味は……悪くはなかったが、ルーが焦げているところがあった。


「まあ……初めてだから」


 彩花がフォローした。


「難しいな……料理って」


 達也は心から思った。


「これ、毎日やってるんだな……」


「うん。毎日」


 彩花の答えに、達也は改めて気づいた。

 自分がどれだけ妻に依存していたか。

 自分がどれだけこうした大変なことを


 午後、二人は場所を変えた。達也の書斎に移動し、彩花に仕事の内容を教える番だった。


 達也はパソコンを立ち上げ、プロジェクト管理ツールを開いた。


「これが今進行中のプロジェクト一覧。それぞれに担当者とスケジュールがある」


 画面には複雑なガントチャートが表示されている。

 彩花は圧倒された。


「こんなにたくさんあるの……?」


「三つ同時に動いてるからな。それぞれクライアントが違うから、要求も違う」


 達也は一つずつ説明した。

 プロジェクトA——金融システムのUI改修。

 プロジェクトB——ECサイトの新規構築。

 プロジェクトC——社内システムの刷新。


「どれも締め切りが近いから、毎日が綱渡りだ」


「これを……一人で?」


「チームはいる。でも、その責任は俺にある」


 達也は資料を開いた。


「月曜はプロジェクトAのクライアントミーティング。火曜はBの進捗確認。水曜は……」


 スケジュールは分刻みだった。

 彩花は頭がクラクラした。


「ちょっと待って、こんなの全部覚えらんない……」


「大丈夫。カレンダーに全部入ってるから。通知が来る」


 しかし、彩花の不安は消えなかった。

 自分にこんな複雑な仕事ができるだろうか。


「それと……」


 達也は別のファイルを開いた。


「これがチームメンバーのリスト。それぞれの特性と、今抱えてるタスクがある」


 十人以上の名前と顔写真が並んでいた。


「この人は優秀だけど、褒めないとやる気を失う。この人は逆に、厳しく指導した方が伸びる。この人は家庭の事情があって、残業できない……」


 達也の説明は続いた。彩花は一人一人の情報を記憶しようとしたが、頭がついていかなかった。体は達也でも脳みそは彩花なのだ。


「人間関係も……管理しないといけないの?」


「そうだ。実はそれが一番難しい」


 達也は疲れたような笑みを浮かべた。


「技術的な問題より、人の問題の方が厄介なんだ」


 彩花は初めて、夫の仕事の重さを実感した。毎日深夜まで働いているのは、怠けているからではない。これだけの責任を背負っているからなのだ。


「ごめん……あたし達也のこんな苦労、知らなかった」


 彩花の言葉に、達也は首を横に振った。


「いや……俺も、お前の苦労を知らなかった」


 二人は少しだけ、互いへの理解が深まった気がした。


 夕方、達也は洗濯物を畳む練習をしていた。彩花が横で指導している。


「シャツはこうやって……袖を内側に折って、半分に……」


「こう?」


「そう。でも、もっとシワを伸ばして」


 達也は不器用に洗濯物を畳んだ。時間がかかる。彩花なら十分で終わる作業に、三十分以上かかった。


「洗濯物って……こんなに量があるのか……」


「毎日出るから。タオル、シャツ、下着、靴下……全部畳んで、それぞれの場所にしまう」


 彩花の説明を聞いて、達也は気づいた。自分は洗濯物がいつも整理されていることを当然だと思っていた。しかし、それは彩花の労働の結果だったのだ。ここにもが潜んでいた。


「他にも……掃除機は週に三回かける。トイレ掃除は週に二回。お風呂掃除は毎日。床の雑巾がけは……」


 彩花のリストは続いた。達也は驚愕した。


「そんなに……やってたのか……」


「だって、やらないと、家が回らないから」


 彩花の言葉は淡々としていたが、その裏には妻としての矜持が隠れていた。


 夜、二人は夕食を食べながら、今日一日を振り返った。


「正直……不安しかない」


 彩花が言った。


「私、本当にあなたの仕事ができるのかな……」


「俺も……家のことができるかどうか……」


 達也も同じ不安を抱えていた。


 しかし、もう選択肢はない。

 黙っていても月曜日はやって来る。

 二人は互いの人生を生きなければならない。


「とりあえず……やってみるしかない」


 達也が言った。


「困ったら、連絡し合おう。スマホで」


「うん……」


 彩花は不安そうに頷いた。


 その夜、二人は同じ寝室で眠った。しかし、入れ替わった身体は妙な感覚だった。


 達也は女性の身体の柔らかさに戸惑い、彩花は男性の身体の重さに違和感を覚えた。


 眠りに落ちる前、達也は思った。

 七日間。

 この奇妙な入れ替わりは七日間続くらしい。

 

 ……その後、元に戻れるのだろうか。

 そして……元に戻ったとき、二人の関係はどうなっているのだろうか。


 日曜日も、二人は互いの生活を学ぶことに費やした。


 午前中、彩花は達也の身体でジムに行った。達也は週に一度、日曜の朝にジムで運動する習慣があった。


 しかし、彩花にとっては初めてのウェイトトレーニングだった。重いダンベルを持ち上げようとしたが、腕が震えた。


「重い……!」


 周りの男性たちは平然と重いウェイトを扱っている。しかし彩花は達也の身体が思ったより筋力があることに驚いた。


 トレーナーが声をかけてきた。


「川村さん、今日は調子が悪そうですね」


「あ……はい、少し……」


 彩花は達也の口調を真似て答えた。


 トレーニングを終えて帰宅すると、達也が掃除機をかけていた。しかし、動きがぎこちない。


「掃除機って……案外コードが邪魔だな……」


「慣れれば大丈夫だよ」


 彩花は苦笑いした。


 午後、二人はスーパーへ買い物に行った。達也(in 彩花の身体)が買い物カートを押し、彩花(in 達也の身体)が横を歩く。


 奇妙な光景だった。

 しかし、周囲の人々は何も気づいていない。

 当然だ。

 外見は普通の夫婦にしか見えていないのだから。


「買い物リストは?」


 達也が聞いた。


「スマホのメモに入ってる」


 彩花は達也のスマホを見せた。


 リストには、細かく食材が書かれていた。

 ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、牛肉、豚肉、牛乳、卵、パン、豆腐、納豆、アサイー、冷凍食品各種……。


「こんなに買うのか……」


「一週間分だから」


 達也は野菜売り場で立ち止まった。


「ニンジン……どれを選べばいいんだ?」


「新鮮なのを選ぶの。色が鮮やかで、ハリがあるもの」


 彩花が教えた。


 達也はニンジンを手に取り、観察した。こんな細かいことまで考えて買い物していたのか。


「肉は……」


「安売りのを狙う。でも、あまり古くないもの。消費期限をちゃんと確認して」


 彩花の指示は続いた。


 買い物が終わり、レジに並ぶ。達也は重い買い物袋を持って、車まで運んだ。


 帰宅後、達也は食材を冷蔵庫にしまった。

 しかし、どこに何を入れるべきかわからない。


「野菜は野菜室。肉は肉類専用のスペース。牛乳は……」


 彩花が一つ一つ教えた。


 夕方、達也は夕食の準備を始めた。今日は煮物に挑戦することにした。


 しかし、煮物は想像以上に難しかった。出汁の取り方、調味料の配分、火加減の調整……。


「砂糖を先に入れて、その後に醤油……」


「そう、調味料はさしすせそ、よ」


 達也は彩花の指示通りに作業したが、煮崩れしてしまった。


「火が強すぎたかな……」


「大丈夫。味は悪くないよ」


 彩花がフォローした。


 夕食後、二人はリビングでテレビを見ながら、明日への準備を確認した。


「明日から……本番だな」


 達也が言った。


「うん……」


 彩花の声には緊張が滲んでいた。


「大丈夫。何かあったら、すぐ連絡して」


「わかった……」


 二人は互いを見つめた。入れ替わった身体越しでも、互いの不安は伝わった。


「頑張ろう」


 達也が言った。


「うん……頑張ろう」


 彩花も頷いた。


 そして、運命の月曜日がやって来た。

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