第7話 消えた日記
窓の外の空は、曖昧模糊な色をしていた。
曇っているとも、晴れているとも言えない。
その灰色は何が正しく何が間違っているかをはっきりさせない。まるで白でもなく黒でもない――白と黒を計りに乗せ均衡を保つ為の天秤のようでもある。そんなことを考えながら、神崎湊は机の引き出しを一段ずつ開けていった。
——そこに、あるはずのものがない。
焦りの色が顔に滲む。机の引き出しに入れておいた黎の書いた日記――彼が最後に残した、あの薄いキャンパスノートがどこにもないのである。
たしかに、昨日まではここにあったのだ。
部屋を出る前、確かに手で触れた――あの指先の感触がまだ皮膚の奥に残っている。
なのに、今はどこにもない。
静けさの中で、湊は息をするのも忘れるほど放心状態に陥った。
時計の針が動く音が、やけに遠くで鳴っている。
その小さな音が、ひとつひとつが心臓に鋭く突き刺さってくるようだった。
「……黎」
呼んだ声は、静寂に満ちた部屋の中で壁に吸い込まれて消えた。
それはまるで彼の名がこの世界にいままで存在しなかったかのように。
湊は、自分の頬を撫でた。
冷たい。
けれど、その冷たさの奥になにか——曖昧模糊ではあるが確信が持てる「確かさ」があるようにも思えた。
それは黎がこの部屋にいたという、かすかな痕跡。
息のような温もり。
笑い声の残響。
ふたりで過ごした午後の光。
——しかし、それらの記憶もまた、キャンパスノートに書かれた文字のように消されていくのかもしれない。
湊は椅子に腰を下ろし、両手を額に当てた。
静かに記憶の奥へ潜る。
あの日、黎はなにを言っていた?
“——もし僕がいなくなっても、湊は僕の言葉を信じてくれる?”
そのとき、彼は笑っていた。
だが、あの笑顔の裏にあるものを、湊は読み取れなかった。
いや、読もうとしなかったのかもしれない。
机の上には、黎の使っていたペンだけが残っている。
インクはまだ乾ききっていない。
まるで、誰かがついさっきまでここにいたかのように。
湊はそのペンを握りしめた。
微かなインクの匂いが鼻を刺す。
それはどこか懐かしく、どこか不吉でもあった。
思い出はいつも、甘く、そして――痛い。
その瞬間、スマホが震えた。
画面には、見慣れない番号。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「……神崎湊さんですか」
低い声の男である。
「篠原黎くんの件で、お話がありまして」
胸が鷲掴みされたように息が止まった。
その声の主は、黎が転校先で通っていた高校の職員だと名乗った。
彼の部屋が一週間前に片づけられ、荷物の一部が処分されたという。
そして——
「残っていた日記帳は、すでにご家族が引き取られたそうです」
耳の奥で何かがプッツリと何が切れる音がした。
意識の中に映像と感情が流れ込んでくる。スマホの向こう側の状況――。
黎の母親。
あの冷たい目。
「もうあの子のことは終わったのよ」と言った唇のかたち。
湊は、受話器を持ったまま、言葉を失った。
終わった?
何が、終わったというのだ。
湊の手からスマホが滑り落ちて、重々しい音を立てながら床の上に着床した。
「もしもし? もしもし?」
スマホの向こう側の男性の声が聞こえるが、それは遥か遠くで聞こえているようで湊には届かなかった。
黎は、あの日、なにかを伝えようとしていたはずだ。
彼の言葉の続きを——この世界のどこかに置いていったはずだ。
湊は立ち上がり、部屋の中をさっと見渡した。
静寂が妙に重い。
机、ベッド、棚。どれも昨日と同じ場所にある。
だが、どこかが違う。
空気の密度がひどく濃い。
——まるで、黎の「影」がまだここにいるように。
湊は、気配を感じ窓の方へ視線を向けた。
薄く曇ったガラスに、二つの影が映っていた。
ひとつは自分。
もうひとつは、背後に立つ——誰かの輪郭。
振り返るがそこには、誰もいない。
心臓の鼓動が、音を立てて揺れた。
彼は、震える手で再びペンを握り、鞄から取り出した自分のキャンパスノートを開いた。
そして、黎の文字を思い出すように、ゆっくりと書き始めた。
「君の声を、まだ探している」
その一行が、紙の上で滲んだ。
インクが涙と混ざる。
湊は筆を止めず、さらに書き続けた。
「君は消えてなんかいない。僕の中で今も呼吸をしている」
——その文字の奥から、黎の笑い声がかすかに聞こえたような気がした。
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