第6話 灰色の影

 六月の濡れた風は、どこか腐った臭いがした。

 神崎湊は、朝の通学路を歩きながら、無意識に自分の影を見つめていた。

 アスファルトに落ちたそれは、ひどく淡い。輪郭が曖昧で、まるで誰か別の人間の影のようだった。


 学校の昇降口をくぐると、ざわめきが湧き上がった。

「おはよう、湊」と声をかけてくる友人たちの顔が、どこか遠くにあるように感じられる。

 言葉を返そうと口を開くが、出てくる声が少し低い。

 ——黎の声だ。

 湊は息を詰めた。だが誰も気づかない。誰も異変を感じていない。


 クラスの隅にある、黎のいなくなった机。

 その上に、いつの間にか教科書が一冊置かれていた。

 名前の欄には、確かにこう書かれている。


 【篠原 黎】


「……誰が置いたんだ?」

 呟いた声が教室に吸い込まれる。

 誰も答えない。ただ、窓際の風がカーテンを膨らませて通り抜けていく。

 湊はそっと教科書を開いた。

 中のページの一つに、鉛筆で小さな文字が書き込まれていた。


「君の中の僕は、まだ眠っていない。」





 夜。

 湊は夢を見た。

 暗い廊下を歩いていると、鏡がいくつも並んでいる。

 鏡の中の自分が、少しずつ“別の表情”を浮かべていく。

 怒り。悲しみ。微笑。

 そのどれもが、黎の顔だった。


「湊」

 背後から声がした。

 振り返ると、黎が立っていた。

 白い光の中に浮かぶその姿は、あの日と同じ制服のまま。

 だが目だけが違う。深く、底なしの黒。


「もう、僕はいないはずだろ」

「いない? 本当に?」

 黎はゆっくりと近づき、指先で湊の胸をなぞった。

「ここにいる。ずっと。君が僕を望んだから」

「望んでなんか——」

「違う。君は僕を救おうとした。それはつまり、“僕を抱えた”ってことなんだ」


 黎の手が湊の肩を掴んだ瞬間、世界が反転した。

 次の瞬間、鏡の中の黎が湊を見つめ、口を動かす。


「今度は、僕の番だよ。」




 翌朝。

 湊は目を覚ました。だが、部屋の空気が違っていた。

 見慣れた机の上に、見知らぬメモが置かれている。

「図書室の奥。午後四時。——黎」


 それが夢の続きなのか、現実なのか、もう判別がつかない。

 けれど湊の足は、午後になると自然と図書室へ向かっていた。


 図書室の奥、カーテンで仕切られた小さな閲覧スペース。

 そこに“彼”はいた。

 黎——いや、“黎の影”だった。


 薄い灰色の光に包まれ、彼は静かに椅子に座っていた。

 その存在は実体があるようで、しかし光を透かして揺れている。

「どうして、まだここに……」

 湊の声が震える。

 黎は微笑んだ。

 「ここにいたいんじゃない。君が僕を“ここに留めてる”んだ」

「……僕が?」

「君は罪を拒まなかった。だから僕は形を持ったまま、君の影になった」


 湊は拳を握った。

「なら、どうすればいい? どうすれば、君を——」

 「消せるか?」

 黎の目が穏やかに細まる。

「消さなくていい。僕は君だ。君が僕を消すことは、自分を壊すことになる」

「それでも……僕は生きたい。君の中じゃなく、僕自身として」

「なら、僕を認めて。影としてじゃなく、“もう一人の君”として」


 黎が立ち上がる。

 その姿は湊に重なり、境界が溶けていく。

 灰色の光が二人を包み、息が混じり合った。

 そして黎の声が、湊の耳の奥で囁いた。


「これで、完全に一つになれる。」




 放課後。

 湊は屋上に立っていた。

 夕陽が沈みかけ、街全体が灰色の薄膜に覆われている。

 手すりに触れた指先が、微かに震える。

 彼の頭の中には、黎の声が静かに響いていた。


「これが、僕たちの世界の色だよ。白でも黒でもない。ただの灰色」

「でも……綺麗だ」

「そう。誰も見ないだけで、本当は美しいんだよ」


 湊は空を見上げた。

 その瞳の奥には、黎の色が宿っていた。

 風が吹く。カーテンのように灰の粒子が舞い、世界がぼやけていく。

 湊はその中で、確かに誰かの手を感じた。

 ——黎の手。

 その手が、彼を静かに導いていく。

 屋上の縁、曖昧な空と地の狭間へ。


「黎、僕は——」

「言わなくていい。もう分かってる。僕たちは同じ影だ」


 その瞬間、湊の身体がふっと軽くなった。

 彼の意識は空へ溶け、音も色もない世界へ沈んでいく。

 ただ一つ、最後に残った言葉。


「これが、僕たちの“始まり”だよ、湊。」




 翌朝、クラスの窓際の席に湊がいた。

 誰も彼の異変に気づかない。

 彼は以前と同じように笑い、授業を受け、友人と会話をした。


 だが、その瞳の色が、わずかに“灰色”を帯びていることに、誰も気づかなかった。


 窓の外、校庭の片隅。

 逆光の中に、もう一つの影が見えた。

 それは湊の影と重なり、ゆっくりと揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る