第5話 灰色の夜明け
朝が、遠くで泣いているような音を立てていた。
窓の外の世界は、まるで夢の続きのように淡い。
神崎湊は机に頬をつけたまま、夜と朝の境を漂っていた。
——灰色の空。
——濡れた手。
——「僕たち、もう離れられないよね」
その声を聞くたび、胸の奥がざわつく。
篠原黎が消えて、もう三週間。
だが、湊の中ではその“灰色の子”は今も呼吸をしていた。
学校では、黎の話題を出す者はいなくなった。
彼の机はいつしか片づけられ、空席のまま、誰の記憶からも少しずつ消えていく。
教師は彼の転校を正式に告げたが、湊には信じられなかった。
あの日、黎が手を握った感触が、まだ確かにこの手の中に残っているのだから。
放課後の教室。
夕陽は淡く、机の上を灰色に染めていた。
湊はノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
窓の外では、校庭の隅に小さな人影が見えた気がした。
制服の色。
立ち姿。
そして、振り向いたその横顔——。
「……黎?」
思わず声が漏れた。
だが次の瞬間、影は消えた。
風に乗った灰が舞い上がる。
ただの錯覚だと頭では理解しても、心はそれを拒んだ。
家に帰ると、机の上に見覚えのないノートが置かれていた。
黒い表紙。濡れた跡がまだ乾いていない。
開くと、最初のページにこう書かれていた。
「湊へ。——僕の罪を、受け取ってくれてありがとう」
ペンの筆圧。文字の癖。
間違いなく黎のものだった。
湊の手が震えた。
どうして。どこから。誰が——。
ノートの次のページには、灰色の鉛筆で描かれたスケッチがあった。
校庭の水たまり、並んだ二つの足跡。
そして、その上に書かれた小さな文字。
「君が僕になってくれたら、きっと楽になる」
その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
夜。
夢の中で、黎が立っていた。
いつも通りの制服姿、だが肌は光を吸い取ったように淡く、輪郭が揺れている。
「湊」と呼ばれるたびに、声が身体の奥まで沈んでいく。
「どうして、戻ってきたの?」
「戻ってきたんじゃない。ずっとここにいたんだよ」
「……僕の中に?」
「そう。僕たちはひとつだよ。あの日、手を握ったときに——もう……」
黎は微笑んだ。
その笑顔は、あの日の雨よりも静かで、冷たかった。
「でも、僕、怖いよ。君が僕の中で喋るのが。僕までおかしくなりそうだ」
「おかしくなんてないよ。正しいことをしてるだけ。だって、僕の記憶を通して君も見たでしょう? あの女の子が死ぬのを。僕も、君も、何もできなかった」
「だから罪だって言うの?」
「違う。罪は“ふたりで生きるためのかたち”なんだ。分けたのは痛みじゃなくて、存在なんだよ」
黎の声が消えると同時に、湊は目を覚ました。
額には汗が滲み、掌は泥のように冷たかった。
次の日、湊は誰にも告げず、校舎裏の旧倉庫へ向かった。
黎が最後に立っていた場所——そう感じた。
床には、雨漏りでできた灰色のしみが広がっている。
しゃがみこみ、湊はポケットから例の灰色の石を取り出した。
その表面に、うっすらと文字が浮かんでいるのを見つけた。
「篠原黎」
その瞬間、倉庫の奥で微かな音がした。
足音。
振り向くと、黎がそこにいた。
現実のようで、夢のようでもある。
彼の瞳はかすかに光り、唇が動いた。
「湊、お願い。僕を“終わらせて”」
「……終わらせる?」
「僕がここにいる限り、君は眠れない。僕の罪は、君の中で育ってる。だから——」
黎の手が湊の頬に触れた。冷たい指が、ゆっくりと彼の肌をなぞる。
「僕と一緒に、消えてよ。もう楽になろう」
湊は首を振った。
だが、その涙はすでに灰色を帯びていた。
「嫌だ。君を消したら、僕まで空っぽになる」
「そうだね。だから、どちらかが生きるしかない」
黎の瞳が穏やかに細められる。
「選んで、湊。君が僕になるか、僕が君になるか」
朝が来た。
鳥の声が遠くで響く。
神崎湊は目を覚ました。
鏡の中に映る自分の顔を見て、息を呑む。
そこには、黎の微笑があった。
頬の筋肉の動き、瞳の奥の光、その全てが彼に似ている。
湊は鏡に触れた。
指先がガラスに触れる瞬間、黎の声が頭の奥から囁く。
「これでいいよ。僕たちは、もう“ひとつ”になったんだから」
その瞬間、鏡の中の黎が微笑み返した。
そして、ほんの一瞬だけ——鏡の中の唇が動いた。
「おはよう、湊。今日から、僕が生きる番だね。」
窓の外では、夜が終わりかけていた。
けれど、夜明けの空は灰色だった。
まるで、黎がまだこの世界にいるとでも言うように。
湊は静かに笑った。
自分の中の“灰色の子”が、確かにそこに息づいていることを感じながら。
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