先輩彼女の恋愛契約は今日も重い〜元カノギャルの視線もなぜか重い〜

龍流

契約恋愛は少し重い

第1話「プロローグ・契約初日」

 カルピスのジンジャーエール割りを飲むのは、はじめての経験だった。

 パーカーの袖に隠れた指先が、テーブルの上に置いたコップを控えめに押す。


「はい。どーぞ。わたしのおすすめ」

「いただきます」


 放課後に、彼女とファミレスに入ってドリンクバーでだらだらと勉強する。

 それはきっと、多くの男子高校生が一生のうちに一度は達成しておきたい夢だ。甲子園の優勝は青春を練習に捧げる野球部にしか目指す権利がないけれど、彼女とファミレスに入ってドリンクバーで勉強することを夢見る権利は、この世すべての男子高校生に平等に存在する。

 そういう意味では、夢にまで見た体験の味わいは、どうにもつかみどころがなく、シュワシュワしていて、すぐに消えてしまいそうで。


「どう?」


 そして、やはり甘かった。


「普通においしい……です」

「そう。普通においしいんだよ。大事だよね。普通に外さない味って」


 お手製ドリンクに対するおれの感想をわざわざひろってから、先輩は対面に座った。


「さて、じゃあ本題に入ろっか」


 ここで取り出すのがペンケースと教科書とノートだったら、そのまま普通の勉強会がはじまっていただろうに。

 しかし、先輩が楽しそうに取り出したのは使い古したクリアファイルだった。

 取り出された一枚の紙を、受け取る。


「じゃあ、これが契約書ね」


 前文

 北上光晴(以下「甲」という)と砺波湖雪(以下「乙」という)は、甲が乙に対して青少年の健全な範囲に則った時間を共有、提供し、もって甲の男女関係における価値観の改革と促進を図ることを目的として、書面に記載の日付を以て、以下のとおり交際契約(以下「本契約」という)を締結する。


 付き合う。

 これ以上なくシンプルな言葉を、これ以上なくややこしくしている一文を見て、ため息が出た。


「ちなみにこれって法的拘束力あるんですか?」

「あるわけないでしょ」


 おれの懸念は、良い意味でばっさりと切り捨てられた。


「こんなもん、紙っぺら一枚だし。わたしもこれ作るの一時間くらいしか掛けてないし」

「はあ」

「でもやっぱり、こういうのは書面にするのが大事だと思うんだよね。口約束にするよりも、紙にするのが大事っていうか」

「言われた通り、ハンコは持ってきましたけど」

「ちゃんとシャチハタじゃないやつにした?」

「朱肉いるヤツにしましたよ」

「あ、ヤバ。わたし、朱肉忘れた。かして」

「そりゃいいですけど。これどこに押せばいいんです?」

「先に名前かなー。うん。ここに名前書いてよ。ほら、わたしの分ときみの分、ちゃんと二枚刷ってきたから」


 とんとんとん、と。シャーペンの先が、リズミカルに紙面を叩く。


「これっておれが甲で先輩が乙でいいんですか?」

「そだよー」

「でも先輩が乙の方でいいんですか? たしかこういう契約書って、乙の方が立場下になっちゃうんですよね?」


 純粋な疑問を投げてみると、先輩は感心したように頷いた。


「お、よく知ってるねぇ。そりゃまあ、形式上はたしかにそうなるけどね。この契約はわたしから提案したことだし、わたしが下手に出て差し上げますよ」

「年上なのに?」

「年上だからこそってヤツだね」


 そういうことなら、ここは年上の威厳というものに甘えておこう。

 なんだか詐欺にあっているような気もするが、ここまで来たらもう後に退くことはできない。潔くペンを取って文字を走らせる。

 北上光晴きたがみこうせい

 こんなふざけた文面の契約書でも、自分の名前とハンコを押すと、途端にそれっぽく見えるのだから、不思議だった。


「こうして見ると、後輩ってかっこいい名前してるよね」

「どうも。先輩もかわいい名前だと思いますよ」

「そ? ありがと」


 砺波湖雪となみこゆき

 イメージよりもかわいらしい丸っこい字で書かれたきれいな名前が、黒線の上にちょこんと載っていた。


「じゃあ、初日をはじめようか」

「えー」

「えー、じゃなくて。ちゃんとしてよ」

「はいはい」

「なんか男の子って「はいはい」って言いたがるよね? なに? 何事もめんどくさがるオレかっこいいーみたいな気持ちがやっぱあるの? 悪いけど「はいはい」って「はい」よりもひとつぶん「はい」が多いわけだから、そのぶん余計な労力割いてると思うよ。省エネ男子気取るならもうちょっとちゃんとやりな」

「後半あんまり聞いてなかったんでアレなんですけど、今この瞬間は先輩の方が絶対めんどくさいと思いますよ」

「はいはい」


 そのまま返された。

 なるほど。たしかにこれは腹がたつ。


「では、どうぞ。先輩。好きにしてください」


 テーブルの上に、手を差し出す。

 きょとん、と。しばらくかたまった先輩は、わざわざ腕を組んでから天井を見上げて「ふーっ」と息を吐き出した。

 やれやれなんもわかってねぇなコイツ、と。

 小さくふんぞり返る先輩は、あきれの感情を隠そうともせずに冷めた目でこちらを見る。


「あのさぁ、後輩」

「なんですか。先輩」

「そこはやっぱり、わたしが先に手を差し出して「好きに触っていいよ」みたいな感じに言ってさ。後輩がいい感じにドギマギして、甘酸っぱくなるのがラブコメの定番っていうか、筋ってもんじゃない?」

「なるほど。たしかにそっちの方がエロいですね」

「でしょ? へーい、やりなおーし」

「リテイクはめんどいんで、このままお願いします」

「えー。こういうの、はじめが肝心なのになー」


 あらためて、書き込んだ契約書を見る。そこには、おれと先輩が最初に取り決めた約束があった。


 第二条 甲と乙の身体的接触は、手指のみに限定する。


「まあいいや。じゃあ、好きに触るね」


 割り切ったように呟きながら、先輩はスマートフォンを取り出して、六十秒のタイマーをスタートさせた。危ない。あまりにも動作が滑らかだったので、そのまま見逃しそうだった。きっと、あらかじめセットしておいたのだろう。契約書もそうだけど、この人はいちいち用意が細かい。


 第三条 手指の接触は一日につき一分間とする。


「はい。一分スタート。これでわたしは、きみの手のひらを好き勝手にする権利を得たぞ、っと」

「おれも好き勝手にする権利を得てますけどね」

「そのわりには無抵抗じゃん。おらおら」


 指先だけでオラつけるとは、ある意味貴重な才能だ。しかしかわいくオラついてるわりには、先輩の触り方は意外と遠慮がちというか、控えめだった。

 人差し指と親指で、中指をつままれる。ぐりぐりと、右に左に弄ばれる。

 白いなぁ、と思った。白くて細い。ちゃんとした女子の手だ。

 指先一本分なのに。いや、指先一本分だからこそ、その体温が感じ取れて、なんだか気恥ずかしくなる。

 正直、指先でよかったと思った。普通に手を握られていたら、冷静でクールな後輩というおれのかっこいいイメージが、早くも崩れ去ってしまっていただろう。

 べつにそこまでめずらしいものでもないだろうに、先輩はおれの顔には見向きもせず、まじまじと手のひらを見詰めてイジり続ける。


「そんなに楽しいですか?」

「楽しいっていうか。興味深い? おとこの子の手だなぁって思ってさ」


 奇しくも同じような感想を抱いていたのは、喜んでいいのか悲しんでいいのか。

 契約書に書かれた三つ目の条項を、おれはぼんやりと眺めた。


 第四条 身体的な接触を保っている間、甲と乙は互いの質問に対して、嘘偽りなく回答しなければならない。


「いいんですか? おれの指いじってるだけで、一分終わりますよ」


 くすり、と。上目遣いにおれを見る視線が、前髪の中に見え隠れする。


「じゃあ、最初の質問だ」

「なんでもどうぞ」

「高校生活一ヶ月目で、ができた気分はどうですか? 北上光晴くん。めちゃくちゃモテるオレってばサイコー、みたいな感じ? それともやっぱり、まだ恋愛に対しては不安がある?」

「喋りすぎ。一言っていう約束ですよね?」

「べつに喋っちゃだめとは契約書に書いてないからね」


 馬鹿げた契約書を律儀に作成した張本人にそう言われてしまっては、おれも反論するのが難しい。

 やかましく動いていた指先が、急にしおらしくなる。人差し指で手のひらをなぞるようにぐるぐると回られるのが、少しくすぐったい。

 やはりおれからは視線を外したまま、先輩はおれたちの契約における、記念すべき最初の一言を紡いだ。


「わたしのこと、好き?」

「好きになれるように、これから努力していきます」


 そこを譲ってしまったら、終わりだ。

 だからここだけは、きちんと答えておく。

 最後に、最も大切な最初の取り決めに、目が引き戻された。


 第一条 人間として、互いを尊重した交際関係を維持することを目的とする。


「……良い返事だぁ」


 どこか間延びした称賛は、おれにとっても心地よい響きだった。

 美人なのに、少し緩んだ感じの。擬音で例えるなら「にへらぁ」といった感じの笑みを漏らして、


「よろしくね。光晴くん」

「こちらこそ。よろしくお願いします。湖雪さん」


 一日、一分、一問、一答のみ。

 指を絡めている間だけ、おれたちは恋人になる。

 そういう契約を、おれは先輩である彼女と結んだ。

 記念日を忘れないタイプのマメな男になるために。今日という日を記録するなら、五月五日。

 大人っぽく契約書を交わしているはずなのに字面としてはどうにも締まらない、子どもの日がおれと先輩の契約開始日だった。

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