第1話 『今日だけって言ったのに。』

4月1日。


春の朝。空は、やけに澄んでいた。




少女の美しく透明な爪が、朝日にきらりと光を返す。


新人類の証。健康の証。


この世界ではそれが、“普通”になっている。




いや、“普通”というものが、何度も塗り直されたこの時代では——


そう信じるしか、ないのかもしれない。




 




風張かざはりいのり、十六歳。高校二年生(新学期から)。


今日が誕生日。




でも、本当なら今日、私は


妹とゲームでもして、のんびり過ごすはずだった。




 




それなのに——。




 




「お願い、いのり!今日だけでいいから行ってきて!」




 




朝ごはんをかきこむ私に、母の声が飛んできた。


母・きよのは、物流現場で働いている。


24時間体制の職場で、今日は急な欠員が出たらしい。




「え? なに!? どこに行けって??」




「団地の定例会!朝10時から。行かないとヤバいやつ!


なんで平日の朝っぱらからやるのよ……ほんと毎日日曜日の人たちは気楽でいいわよね」




 




物流の制服に着替えながら、母が怒りよりも困り果てている。


たしかに、平日の朝って普通ならみんな仕事か学校だよね。


今の時期は春休みシーズンだとしても、社会人がみんな暇ってことはない。


 




「とはいえ平日だって、高齢者も病院行ったり買い物したりと忙しいんじゃなかったっけ?」




「日曜は病院やってないからって、団地の高齢者がまとめて駅ビルに出てきて、コヌトコも図書館もファミレスも満席よ。


ほんと、“日曜難民”の高齢者ってどうにかならないのかな……。」




いのりときよのの少し幸せ?な朝の団欒風景である。 




この団地に引っ越してきて、ちょうど一年が経つ。


去年の春。転校と引っ越しと段ボールにまみれた日々。


私たちはもう、“新入り”一家じゃない。




 




「今日だけって言うけどさ、それ、本当に“今日だけ”?」




「……うん、多分……たぶん?」




母は目をそらした。




父・よしつぐは、朝早くに家を出ていた。


給食センターで設備管理の仕事をしている。


春休みの今は、調理場の清掃・設備の点検・改修など、長期休み中にしかできない業務が集中する時期。




つまり、家には私しか残っていない。




 




「じゃあ、ともりは?」




「けいじを学童に送ってった。今日が初日で心配だからお願いして連れて行ってもらった。」




妹のともりは、弟のけいじを学童に連れて行ったらしい。




「たぶんもうすぐ帰ってくると思うよ。そのまま家でゲームでもするんじゃない?」






ともりは、今年中学に上がったばかり。


ちょっと生意気で、よくしゃべる。


でも本当は優しい妹。今日はふたりで一緒に過ごす予定だった。




弟・けいじは、小学校に上がる前の春休み。


今日は初めての学童。朝から緊張していた。


ともりは昨日まで学童に行っていた。


形式的に中学生になる4月1日。


学童もひとまず昨日で卒業したわけだ。


どこか寂しい気持ちもあるから、けいじを保護者代わりに連れて行って、学童に顔を出したいのだろう。


 




私はスマホを見る。


届いていたのは一通のSMS。




元自治会長:大矢さんからだ。


「お母様の代理で定例会にご出席いただけますか?


出席票と委任状は私のほうで処理済みです。


会議冒頭で“後任”の話も出るかと思います。


副会長の指示に従ってもらえれば大丈夫です」




 




……“後任”?


“指示に従って”?


え、なにこれ……もう決まってる流れじゃん。




「なんかさ、“話が早すぎる”っていうか、もう終わってる感じなんだけど」




母はお弁当袋を持ったまま、脱兎のように玄関から出ていった。




 







 




九潮団地の集会所は、117号棟の脇にある。


薄暗い階段を降りて、重たい鉄の扉を開けると——


そこだけ、時間が止まっていた。




畳敷きの部屋に、ちゃぶ台とお茶菓子。


団地新聞と、湯飲み茶碗。


そして、並んだ高齢者たちの視線が、一斉に私に向いた。




「おや?」


「高校生?」


「若い子が来るなんて珍しいね」


「でも風張さんとこの娘さんなら、文句ないわね」


「ほら、爪が透明で綺麗。やっぱり今どきの子は違うわねぇ……新人類ってやつかしら〜」




……なにその例え。




 




部屋の奥、上座にどっしりと腰かけていた老人が、ゆっくり立ち上がった。


口調は尊大、声はやたら大きい。




「ワシは大矢。知っとると思うが、この団地の相談役をしている。」




相談役って何をしている人なのか、よくわからないけど黙って聞く。




「長いこと会長をやっとった。もう任期は終わったが、ここではまだまだ現役じゃ」




会場の空気が“うんうん”と同意する。


誰も逆らわない。




 




「で、今日は君にやってもらいたいんじゃ」




「えっ……なにを?」




「会長だよ。団地の。若いほうがええじゃろう」




「いやいや…。私、まだ高校生だし…。ベテランのほうがいいですよ?」




「問題なし!スマホも使えるし、発信力もある。なにより、若い!」




「……いや、あの、学校で禁止されてるからSNSも使ってないですけど……」




 




一瞬、空気が止まった。




次の瞬間、みんな拍手。




みんなの中で何かが決まったらしい。




いのりも逃げられないと察する。




「次の会長は、風張さんとこの娘さん…、いのりちゃんじゃ!」




「よかったよかった!」




「大丈夫!あなたならしっかりしてるわ!」




「あの…。みなさんホントにそれでいいんですか?」




もういのりに逃げ場はなかった。




「LiNE(※)グループっていうの? あたしね、あれ勝手に入れられてたのよ。意味わかんなくて、もう怖くなっちゃってねぇ」




※LiNE《ライネ》→この時代の標準メッセージアプリ。


でも高齢者には「通知がうるさい」「勝手に誰かに入れられる」と不評で、そもそもアプリの名前すら正しく覚えられていない。




「通知が鳴るのよ、夜中でも! 誰が送ってるのかもわかんないのよ!」




「それでリーネ? ラネ? リネー?あれ名前がもう…読めないじゃない。わたし“リレレ”って呼んでるわ」




……それはもう別モノだよ。






ってか、話がいろんな方向へ飛んでしまって、嚙み合ってない人もいる…。


これも高齢者の集まりだから?




「でも、私、ただの高校生で……」




「それがいいのよ」




「団地を明るくしてくれる若い子が必要なの!」




もはや、何を言っても誰も止まらない。


話は、まるで最初から決まっていたかのように進んでいく。




 




そして、会長席の名札が、私の前に置かれた。




 




——こうして私は、


十六歳の誕生日に、


「女子高生自治会長」になった。




 




自宅への帰り道、団地の階段をのぼりながら、ふと思う。




けいじ、学童初日どうだったかな。


ともり、帰ってるかな……先にゲームやってないといいけど。




 




「お母さん……今日だけって言ったのに」




春の風が、団地の隙間をすり抜けていった。


“今日だけ”のはずだったこの一日が、


私にとっての、新しい毎日のはじまりだった。

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