第1話 『今日だけって言ったのに。』
4月1日。
春の朝。空は、やけに澄んでいた。
少女の美しく透明な爪が、朝日にきらりと光を返す。
新人類の証。健康の証。
この世界ではそれが、“普通”になっている。
いや、“普通”というものが、何度も塗り直されたこの時代では——
そう信じるしか、ないのかもしれない。
今日が誕生日。
でも、本当なら今日、私は
妹とゲームでもして、のんびり過ごすはずだった。
それなのに——。
「お願い、いのり!今日だけでいいから行ってきて!」
朝ごはんをかきこむ私に、母の声が飛んできた。
母・きよのは、物流現場で働いている。
24時間体制の職場で、今日は急な欠員が出たらしい。
「え? なに!? どこに行けって??」
「団地の定例会!朝10時から。行かないとヤバいやつ!
なんで平日の朝っぱらからやるのよ……ほんと毎日日曜日の人たちは気楽でいいわよね」
物流の制服に着替えながら、母が怒りよりも困り果てている。
たしかに、平日の朝って普通ならみんな仕事か学校だよね。
今の時期は春休みシーズンだとしても、社会人がみんな暇ってことはない。
「とはいえ平日だって、高齢者も病院行ったり買い物したりと忙しいんじゃなかったっけ?」
「日曜は病院やってないからって、団地の高齢者がまとめて駅ビルに出てきて、コヌトコも図書館もファミレスも満席よ。
ほんと、“日曜難民”の高齢者ってどうにかならないのかな……。」
いのりときよのの少し幸せ?な朝の団欒風景である。
この団地に引っ越してきて、ちょうど一年が経つ。
去年の春。転校と引っ越しと段ボールにまみれた日々。
私たちはもう、“新入り”一家じゃない。
「今日だけって言うけどさ、それ、本当に“今日だけ”?」
「……うん、多分……たぶん?」
母は目をそらした。
父・よしつぐは、朝早くに家を出ていた。
給食センターで設備管理の仕事をしている。
春休みの今は、調理場の清掃・設備の点検・改修など、長期休み中にしかできない業務が集中する時期。
つまり、家には私しか残っていない。
「じゃあ、ともりは?」
「けいじを学童に送ってった。今日が初日で心配だからお願いして連れて行ってもらった。」
妹のともりは、弟のけいじを学童に連れて行ったらしい。
「たぶんもうすぐ帰ってくると思うよ。そのまま家でゲームでもするんじゃない?」
ともりは、今年中学に上がったばかり。
ちょっと生意気で、よくしゃべる。
でも本当は優しい妹。今日はふたりで一緒に過ごす予定だった。
弟・けいじは、小学校に上がる前の春休み。
今日は初めての学童。朝から緊張していた。
ともりは昨日まで学童に行っていた。
形式的に中学生になる4月1日。
学童もひとまず昨日で卒業したわけだ。
どこか寂しい気持ちもあるから、けいじを保護者代わりに連れて行って、学童に顔を出したいのだろう。
私はスマホを見る。
届いていたのは一通のSMS。
元自治会長:大矢さんからだ。
「お母様の代理で定例会にご出席いただけますか?
出席票と委任状は私のほうで処理済みです。
会議冒頭で“後任”の話も出るかと思います。
副会長の指示に従ってもらえれば大丈夫です」
……“後任”?
“指示に従って”?
え、なにこれ……もう決まってる流れじゃん。
「なんかさ、“話が早すぎる”っていうか、もう終わってる感じなんだけど」
母はお弁当袋を持ったまま、脱兎のように玄関から出ていった。
*
九潮団地の集会所は、117号棟の脇にある。
薄暗い階段を降りて、重たい鉄の扉を開けると——
そこだけ、時間が止まっていた。
畳敷きの部屋に、ちゃぶ台とお茶菓子。
団地新聞と、湯飲み茶碗。
そして、並んだ高齢者たちの視線が、一斉に私に向いた。
「おや?」
「高校生?」
「若い子が来るなんて珍しいね」
「でも風張さんとこの娘さんなら、文句ないわね」
「ほら、爪が透明で綺麗。やっぱり今どきの子は違うわねぇ……新人類ってやつかしら〜」
……なにその例え。
部屋の奥、上座にどっしりと腰かけていた老人が、ゆっくり立ち上がった。
口調は尊大、声はやたら大きい。
「ワシは大矢。知っとると思うが、この団地の相談役をしている。」
相談役って何をしている人なのか、よくわからないけど黙って聞く。
「長いこと会長をやっとった。もう任期は終わったが、ここではまだまだ現役じゃ」
会場の空気が“うんうん”と同意する。
誰も逆らわない。
「で、今日は君にやってもらいたいんじゃ」
「えっ……なにを?」
「会長だよ。団地の。若いほうがええじゃろう」
「いやいや…。私、まだ高校生だし…。ベテランのほうがいいですよ?」
「問題なし!スマホも使えるし、発信力もある。なにより、若い!」
「……いや、あの、学校で禁止されてるからSNSも使ってないですけど……」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、みんな拍手。
みんなの中で何かが決まったらしい。
いのりも逃げられないと察する。
「次の会長は、風張さんとこの娘さん…、いのりちゃんじゃ!」
「よかったよかった!」
「大丈夫!あなたならしっかりしてるわ!」
「あの…。みなさんホントにそれでいいんですか?」
もういのりに逃げ場はなかった。
「LiNE(※)グループっていうの? あたしね、あれ勝手に入れられてたのよ。意味わかんなくて、もう怖くなっちゃってねぇ」
※LiNE《ライネ》→この時代の標準メッセージアプリ。
でも高齢者には「通知がうるさい」「勝手に誰かに入れられる」と不評で、そもそもアプリの名前すら正しく覚えられていない。
「通知が鳴るのよ、夜中でも! 誰が送ってるのかもわかんないのよ!」
「それでリーネ? ラネ? リネー?あれ名前がもう…読めないじゃない。わたし“リレレ”って呼んでるわ」
……それはもう別モノだよ。
ってか、話がいろんな方向へ飛んでしまって、嚙み合ってない人もいる…。
これも高齢者の集まりだから?
「でも、私、ただの高校生で……」
「それがいいのよ」
「団地を明るくしてくれる若い子が必要なの!」
もはや、何を言っても誰も止まらない。
話は、まるで最初から決まっていたかのように進んでいく。
そして、会長席の名札が、私の前に置かれた。
——こうして私は、
十六歳の誕生日に、
「女子高生自治会長」になった。
自宅への帰り道、団地の階段をのぼりながら、ふと思う。
けいじ、学童初日どうだったかな。
ともり、帰ってるかな……先にゲームやってないといいけど。
「お母さん……今日だけって言ったのに」
春の風が、団地の隙間をすり抜けていった。
“今日だけ”のはずだったこの一日が、
私にとっての、新しい毎日のはじまりだった。
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