第19話 レイ
「ふ、……ぅ、」
毎日欠かさず抑制剤を飲んでる。発情が起こるなんて、おかしい……あの酒に何か盛られていたのか?
「リナ……発情は、まだ起こってないんじゃなかったのか?
こんな……っ」
「ごめ、なさ
エネアにぃ、逃げて」
これから男爵になるという男に、Ωを襲わせるなんて過ちを犯させてはいけない。
身体を反転させ、ベッドに這いつくばりながらエネアと距離を取ろうともがく。
しかし、──
ドサリ、
うつ伏せになった俺の上に、重く体重が伸し掛かる。
「はぁ、はぁ、
リナ……リナのフェロモンの香り……
こんなに美味しそうな香り、初めて嗅ぐ」
「ひっ」
全体重でベッドに張り付けられたまま、うなじにエネアの呼吸を感じる。
駄目だ、エネアも
エネアの熱い手の平が、俺の身体に触れる。
嫌だ。
こんな形で、エネアとの関係が変わってしまうなんて。
「やっ、」
かじり、と首輪の上からうなじを噛まれる。
本能的な恐怖が背中を駆け巡る。
「やっ! いやだ! エネアにぃ、やめて……っ!」
「嫌……? どうして?
……お願いだ
リナ、うなじを噛ませて、私に、……っ」
「っ!!」
うなじを守るために重ねた手指ごと、エネアの歯に齧られる。
首輪をしているから、大丈夫だ。番にはならない。
でも、エネアと身体を繋げるのは──
カシャン
「え、」
うなじを守っていたはずの首輪が、ストンとシーツの上に落ちる。
熱で浮かされた頭は、幻覚でも見せているのだろうか。
「やっ、なんで、くびわ……っ」
俺が持っている鍵は、まだ髪の中に結われているはずだ。なのに、なんで……
「はぁ、はぁ、リナ、
首輪が 外れてしまったね?
嬉しい
ほら、今度こそ手をどけて
綺麗なうなじを見せて」
荒い呼吸音と、どくどくと激しく流れる血液の音が、耳の奥に響いてる。
『十分に気をつけろよ』
レイの声が蘇る。レイは、俺を心配してくれてた。
エネアにうなじを噛まれたら、
俺はもうレイと触れ合うことはできない。
レイと触れ合うなんて、
そんなことは起こり得ないとわかっていても、それでも、
「やだ……やっ
やめてっ!」
力の入らない手で、枕をエネアにぶつけ、伸し掛かっていた体重が仰け反った瞬間にベッドから転がり落ちる。
この部屋から出て、他のαに見つかる可能性がもある。でも、それでも、もしかしたら他の部屋に逃げ込めるかもしれない。
このまま諦めることなんてできない
「……っなぜだ
どうしてそこまで私を拒否する?!」
「あぅ!」
扉の手前で、背後からまとめられた髪を掴まれ、後ろへと引きずり倒される。
「っ、う、」
「絶対に逃さない
リナは俺のものだ」
床に仰向けに倒された俺の視界が、上から覆いかぶさるエネアでいっぱいになる。
──エネア兄様?
見開かれ血走った目に、ひどく歪められた眉、こんなエネアは見たことがない。
Ωは一般的に
「はぁ、はぁ、ああ……綺麗なうなじだ」
「ひっ……」
エネアの指が、うなじを撫でる。
発情で敏感になった肌は、じんじんと
「はぁ……、やっと、」
エネアがうなじに近づくのを重みで感じる。
──嫌だ。
レイ──……っ!!
バン!!
と、扉が叩き壊されるように開く。
「リナルド!」
俺を呼ぶ声とともに、背中から重みがなくなった。
「ぐあっ!!」
エネアがベッドまで吹き飛ばされ、倒れ込むのが視界に入る。だが、俺の視界の中心は別の人間が占めている。
「……レイ……でんか?」
「出るぞ」
茶色の髪に髭が生えていて、一見してレイには見えない。でも、
いち早く俺を抱きかかえ、駆け出すこの腕の中の香りは、間違いなくレイの香りだ。
「嫌だ!
リナ!! リナルド!!
うわあああーーーーー!!!」
背中にエネアの叫び声が聞こえる。
かたかたと震える俺を支える腕に、より力が込められた。
レイは相当な速さで駆けているのだろう。その叫び声はどんどん聞こえなくなっていく。
「は、はぁ
おれ、ひーと、です
かくり、してくだ、さい」
ぎゅ、とより一層俺を包み込む力が強まる。
「……α抑制剤を飲んでる
心配するな」
「っ……ごめ、なさ」
頬を熱いものが流れていく。
レイ、レイ──……
◆◆◆
「緊急抑制剤を注射して、今は静かに眠っています
手指の傷も手当てを終えました。
……さぁ、レイ様
あなたの手も、手当てしましょう」
俺の部屋へ入ってきたルディウスが、薬箱を持って隣の席へ腰掛ける。
王都にある≪陽炎隊≫の隠れ家の一つに、リナルドを連れてきた。
第六王子という立場上、Ωのフェロモンを使ったハニートラップを仕掛けられることも多く、抑制剤を毎日服用している。Ωのフェロモンに反応したことなどなかったのだ。
「……なんだあの香りは……
頭が焼き切れそうだった」
「……抑制剤を飲んでも尚、それだけ効くということは、よっぽど相性がいいのでしょうね
私はそれほど感じませんでした。」
なんとかルクセン伯爵の屋敷からリナルドを馬車へ押し込んだまでは良かったが、腕の中にいるリナルドを手離して席に横たえることもできず、剥き出しになった首筋を見つめながら、自分の腕を齧り続けていた。
だが、同じαでもルディウスには効かなかった……それを聞いて、なぜか安堵する。
噛み跡だらけ血だらけの俺の腕を、ルディウスが拭っていく。
「……ルクセン伯爵の屋敷の様子はどうだ?」
「エネアも、あのあと駆けつけた伯爵家の者に緊急抑制剤を打たれたようですね
今は伯爵家で眠っているでしょう」
「……エネア……」
ぎり、と奥歯が鳴る。
リナルドは欠かさず抑制剤を服用していた。それが突然発情するなど、あり得ない。
会場で見つけたリナルドを思い出す。
淡い水色のドレスは銀糸と宝石の刺繍で煌めき、首元には水色のトパーズが輝く首輪をつけていた。
全身を、エネアの瞳の色で固められたリナルド。
その横であの男は、リナルドをまるで装飾品のように連れ歩いていた。
あれほどリナルドに
薬を盛ったとすれば、あの男だ。
すぐにでも引き剥がしてやりたかったが、≪陽炎隊≫として、変装し、身分を隠して忍び込んでいる以上、そんなことは出来なかった。
「それで、……確証は得られたか?」
「ええ、エネアが接触したのはルクセン伯爵をはじめとして、サヴール子爵、エゾネフ子爵、ロイド男爵、ダフネ男爵です。
事前調査とも合致します」
「そうか、ご苦労」
手際の良いルディウスは、もう包帯まで巻き終えている。
包帯を巻き終えた左腕を、動かしてみる。支障はない。
「……いつ決行しますか?」
「エネアはリナルドなしに、そう保たないだろう
……リナルドの目が覚めたら、
早々に決着をつけよう」
リナルドが眠る寝室を覗く。
もう発情は治まったようだ。部屋に立ち込めていたむせ返るような香りは、もうない。
ベッドの縁に腰掛け、静かに寝息を立てるリナルドの頬を撫でる。
──なぜ、お前だけがこんな目に遭う。
はじめは、ただ欲を満たすためにΩという性を売りにしている男だと思っていた。
だが、共に過ごすうちに、リナルドはそんな男ではないことに気づいた。
ただの同僚のために己を差し出すことを躊躇わない。
己が傷付いても、他者の心配をしている。
どれほど虐げられても、恨んだり、報復を考えるような人間ではない。
初めて酒場でリナルドに言い放った自身の言葉に頭を抱える。
『昼は貞淑な使用人、夜は淫らな商売Ωか』
彼を脅すつもりで選んだ言葉だとしても。あまりにもひどい扱いをした。
そして、彼の正体。
リナルドは、前男爵グスタフ・フェデラーの次男。惨劇の中の唯一の生き残りだった。
きっかけは地下室でリナルドが大事に使っていたティーカップだ。あの地下室の中で、あのカップだけが異彩を放っていた。
母の形見だと言ったカップには銀装飾が施されており、毒が仕込まれる可能性がある状況、そして暗殺が目論まれる地位を持っていることが示される。
ただの使用人の母親がもつ代物ではない。
カップの模様や底に記されたサインから、カップを製作した工房を割り出した。
カップを注文したのはサーシャ・フェデラー、グスタフの妻だ。
フェデラー家の爵位は、前男爵家族が惨殺された7年前、グスタフからトマスへと引き継がれた。グスタフの直系であるリナルドが継がなかったのは、リナルドがまだ幼く、その上Ωだったからだろう。
取り寄せた書類には、爵位を放棄する誓約書に幼い文字でリナルドのサインが記されていた。
「お前は、何もかもを奪われたのに……
なぜ、それほど曇りなく真っ直ぐに生きられるのだ」
リナルドの滑らかな頬に手を添えながら、目元を親指で優しく撫でる。泣き腫らし、赤くなった目元が痛々しい。
『……エネア兄様は、
そんな人じゃない』
星空の下、聞いたリナルドの声が蘇る。
「……すまない。
お前をもっと泣かせることになるかもしれない」
もう一度だけリナルドの髪に触れて、部屋を後にした。
◆◆◆
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