中編①
早朝である。
太陽は地平線から僅かに顔を覗かせている程度であり、建物の密集している城下町には充分に日光が取り込まれていなかった。
特に路地裏には薄暗い感じが残っており、人や物の輪郭がおぼろげに把握できる程度である。
そのような場所の一角にて、一人の少年が素振りを行っていた。
10代前半に見える少年である。
少年が素振りに使っているのは、こん棒のような形をした訓練具だ。全長は五〇センチ前後、握り手から棒の先端に向かうにつれて徐々に太くなっていく造形をしており、先端部分は直径二〇センチに及ぶ太さである。加えて、先端の太い部分には金属の重りが埋め込まれており、見た目以上の重量と先端によった重心によって、その取り回しをより困難にしているという代物だった。
少年は、訓練具を上段に構えて真っ直ぐ振り下ろす。勢いよく振り下ろす動作を繰り返していたかと思えば、逆に数秒間かけてゆっくりと振り下ろすこともあった。構えを下段に変えて斜めに斬り上げる動きを繰り返したりもした。また、訓練具を両手で握るのではなく片手で握った状態にして、同じような素振りの動作を行うこともあった。
構え、動作の速度、道具の握り方、前後への移動……そういった条件を組み合わせて様々な動作を練り上げていく。
一つ一つの動作は十回程度の繰り返しであっても、その総量・総時間はかなりのものになる。
実際、少年の額や腕といった肌が露出している部分からは汗が玉となって滲んでいた。
しかし、それらに一切気を留めることなく自らの動作のみに意識を集中させている少年……そんな彼の様子は、若者特有のひたむきさと言うより、道を極めた達人が醸し出すような類いの雰囲気を纏っているのに近しかった。
「——ディノン」
そんな彼に話しかける者が現れた。
それは女性の声だった。穏やかでゆっくりとした話し方をしていた。
少年は直ぐに声の方へ振り返る。
家の裏手のドアを半開きにし、そこから身を乗り出した女性の姿が少年の視界に収まった。
二〇歳の一歩手前といった感じの見た目であり、少女というには少し大人びた印象だ。彼女は、金髪の長い髪を後ろで留めていた。
彼女の名はネーヴァ。ディノンと呼ばれた少年の姉に当たる人物であった。
どうやら、彼女の顔が良く見えるくらいに日は上がっていたようだ。
「姉上、おはようございます」
嬉しそうな声で、ディノンが応える。
「そろそろ朝ごはんだから、鍛錬もほどほどにして戻って来てね」
「分かりました。汗拭いてから戻りますので、少し遅くなりますが」
いつも通りのやり取りが行われる。
彼女は、一通りのルーティーンが出来て満足したのか、「それじゃあね」と微笑みながら中に戻っていった。
ディノンもその後に続く。事前に用意していた複数枚の手拭いを使い、屋内で汗を散らさないよう念入りに体を拭き取る。そうしてようやく、扉の奥へと足を踏み入れた。
「姉上、何か手伝えることはありますか?」
リビングに来て開口一番、ディノンはそう尋ねる。
キッチンには、皿へ盛り付けを行っている姉の姿があった。
「ん~。……大丈夫かしら、後は私がやっておくからディノンは席に——」
彼女がそう言い終わる前に、ディノンは隣にまでやってきて、既に盛り付けの終わった皿を手に取る。
「運ばせて頂きますね」
「ふふっ……ありがとう」
元々優し気であった彼女の瞳が、何かを慈しむ様により温かみを増した。
その視線を受けたディノンは居心地が悪そうに視線を逸らす。
「姉上……もう子供じゃないんですから」
「え? 今の私、そんなに子供っぽかったかしら?」
「あ、いえ、そういう意味ではなく……。私が、もう子供ではない、という意味です」
「……そうかしら? ディノン、まだまだ可愛い盛りだと思うんだけどなぁ」
「可愛くないですよ……勘弁してください」
そんな風に和気あいあいと会話を交しながら、二人は食卓への配膳を終えた。
「——おはよう、二人とも」
そこで、男用の寝室から一人の男性が現れる。黒目黒髪・痩躯の男で、年齢は30代後半辺りといった所だ。
オルド=ステバンス、彼はディノンとネーヴァの父親にある人物であった。
彼の装いは、仕事行きの畏まったものである。しかし、それとは裏腹に、疲れが溜まっているのかやや猫背気味の姿勢になっていた。
彼は、息を付きながら食卓の席に着く。
三人そろっての朝食が始まった。
「お父さん、疲れていますね?」ネーヴァが尋ねた。
「ネーヴァ……いや気にしなくていい、そこまで大した問題じゃないからね」
「大した問題じゃないってことは、問題自体は起きてるのか……」と、ディノンは突っ込む。
「本当に気にしなくていい。肉体的な疲労ではないんだ。少し悩んでいることがあるだけで」
オルドは、背筋をまっすぐに伸ばして姿勢を正した。
「……そう。なら、何も聞かないよ」
ディノンはあっさりと引き下がった。
一方で、ネーヴァはそうもいかないようである。
「お父さん……私は心配です。よければその悩み事について聞かせてもらえませんか?」
「そうだね……それは、まあ、近いうちに話そうか。
それはそれとして……ディノン、このところ毎日働いているだろう。過剰すぎるんじゃないか。少なくとも、その歳でやる労働量じゃない」
「大丈夫、大丈夫。体壊さない程度にやってる」
「何か欲しいものがあるなら素直に言いなさい。少なくとも、三人養ってお釣りが来るくらいの稼ぎはあるつもりだ」
「それは……確かに剣とか欲しいけどさ……」
「お前、まさかまた——」
オルドの眉が寄せられる。
「いやいや、もう帝国兵の連中とは揉め事は起こさないよ。その辺りは反省してる。変に騒ぎ起こして姉上に目つけられるのも嫌だしね」
「お父さん、その辺りは本当だと思うわ。ディノン、ちょっと強情なところはあるけど基本的には素直なんだから」
「……分かってる。ちょっと確認しておきたかっただけだ」
オルドは、フゥと息を吐いて背もたれに体をあずけた。
「でも、私もディノンにはもう少し家にいて欲しいかな」ネーヴァが言った。
「分かりました。週二で働くぐらいがいいですかね」
「お前なぁ……しかし、剣が欲しいとはね」
「駄目か、父さん」
「いや、お前なりに考えがあるんだろう。ただの子供の興味で欲しがっている訳じゃないのも分かってる、鍛錬にも精を出しているようだしな。私から何か言う事はないよ」
「ならよかった……。ところで姉上、今日の予定は?」
「今日は1日中家で縫い物するつもりだけど?」
「確か次のバザールは……」
「次の日曜日ね」
「その時は私もついていくので、一人で行かないでくださいね」
「ディノンは心配性ね……でも、分かったわ。よろしくね」
「ええ」
ディノンは空になった自分の食器を手に席を立つ。
「それじゃあ、俺はもう行くから」
台所にある流しに向かい、律儀に食器を洗い流してから彼は家を出ていった。
* * *
「——なあなあディノン。お前の姉さんのことで話があるんだけど、ちょっといいか?」
その日の仕事先であったレストランにて、今まさに彼の隣で食器を洗っている年上の同僚からディノンは声をかけられた。
「聞くくらいなら問題ないけど……なんだ?」
ディノンの声には明らかに不機嫌な色が混じっていた。
「ああ、いやさ、最近、変な噂を耳にすることがあってさ……。お前、消えた王女の噂って知らね?」
「……その話は初耳だが、大体の推測はつく。表向きは全員死んだことになっているサントラルクの王家だが、実は王女はどこかで生きながらえているとか……そんな話だろ」
「まあ、その通りだな。帝国がこの国を支配した時、王と王妃の首は晒された。でも王女はそうではなかった。サントラルク人の抵抗心を挫くためにも王族全員の死体を晒した方がいい筈のなのに帝国はそうしなかった……そこに希望が生まれているわけだな」
「なんでそうなる……仮に王女が生きていたとして、帝国に太刀打ちできるわけがないだろ。人数が増える訳でもないのに」
「まあな。てか、ただの法螺話だろ。そんなにカッカすんなよ」
「……」
「というか、話はまで終わってなくてな。というのも、お前んとこの姉ちゃんがその“消えた王女”なんじゃないかっっていうのが噂の全貌なわけ」
ディノンの食器を洗う手が止まった。
「………………は? どうしてそうなる」
「いや、知らねぇけど……。俺にこの話した奴はステバンス家がどうのこうのとか……お前の家って昔は貴族だったんだろ? しかも、大臣とか出してた名門」
「……さあ、その手の話は父からは聞かないからな。邪推されても困る。
それよりも、お前にその話した奴ってのは誰だ?」
「客だよ、客。表の方で注文取ってる時にちょっとな…………いや、そこまでしか知らねぇよ?」
「そうか……」
* * *
結局、ディノンは、彼が申告していた夕暮れ時よりかなり早く家に帰って来た。
店長に早退したい旨を伝えた結果である。
「あ、ディノン。おかえり」
ネーヴァが明るい声で出迎えてくる。
ディノンはそれに応えようとして……声が出なかった。
「あ……?」
いつものように笑顔を浮かべる事も出来ない。口の端が上がらない。苦笑いにすらならない。
「ディノン?」
「すみません。少し疲れてるみたいです」
そう言ってディノンはリビングへと進んだ。
(父さんは……帰って来てないか。そりゃそうだよな)
何のために早く帰って来たんだかと、心の中に思い浮かべながら彼はソファに体をあずけた。
最初は、背中を後ろに預ける様に深く座っていたのだが、それも十秒ほど。すぐに体を起こしてしまう。
そのまま、肘を乗せるような形で膝に体重を預け、両手を組んだ状態で目を瞑って思案に入り込む。
(どうしてだ……どこでバレた? いや、バレたというより偶然か?)
彼は知っている。自身が姉と呼んでいる少女ネーヴァが本当の家族ではないことを……彼女が本当にサントラルクの王女だったことを。
(いや、それよりも、問題なのは……)
嫌な可能性が次々と脳裏に浮かぶ。それらについて考えるたびに、彼の心の焦燥は酷くなっていく。体の感覚はもう定かではなかった。でも、何となく震えていることは分かった。
意識が、自我の内側へと落下していく————。
「———! ——ノン! ディノン‼」
「っ⁉」
自身の名を呼びかけてくる声がディノンの意識を現実へと引き戻した。彼がハッと顔を上げると、こちらの肩を掴んで見つめてくるネーヴァの顔があった。
「姉上……」
ディノンは声色すら取り繕えなかった。自分で聞いてて、憔悴した声だなという感想を抱く。
「汗、酷い……。ちょっと待ってて」
駆け足で離れていくネーヴァ。
その背中にディノンは手を伸ばしてしまう。しかし、ソファから立ち上がるほどの精神的な力は無かった。
ネーヴァの足音は直ぐに戻って来た。見れば、彼女の手の平には複数枚の手拭いが積まれている。
その内の一枚を片手に取って、彼女は、ディノンの額から汗を拭こうとする。
ディノンはその手を、自分の両手で包むように握った。
「えっ、ディノン……っ⁉」
「護ります。貴女のことは、俺が絶対に守りますから……」
握った手に額を近づけ、コツンと当てる。まるで祈りをささげる様に彼は目を瞑った。
ともすれば、懇願しているようにすら見えるディノンの様子に、ネーヴァは空いている方の手をウロウロとさせていたが……やがて、その手をディノンの頭を撫で始めた。
「少し疲れているのね。横になった方がいいわ」
「は、い……」
ネーヴァの誘導に逆らうことなく、ソファの上に彼は体を横たえる。十秒も経たないうちに呼吸は規則的なリズムを刻み始め、彼が眠りについたことを示していた。
* * *
——そして夜、玄関のドアが開く音が鳴った。
「ただいま」
そう言って入って来たのは父オルドである。
彼は、居間の風景を視界全体に収める。キッチンではネーヴァが夕食の支度を行っており、リビングのソファにはディノンの体がぐったりと預けられていた。
「寝てるのか? 珍しいな」
「多分、ちょっと嫌な事があったのかも。精神的に参っているみたいだったから」
「それは……ますますらしくないな」
オルドは、脱いだコートをポールハンガーへ掛けると、食卓の方の椅子へと腰を下ろした。
「ネーヴァ、恐らくではあるが……ここにはもう居られなくなるかもしれない」
ネーヴァがオルドの方へと振り返った。
「それは、つまり、帝国による王族捜索が再開された……のですか?」
「いや、帝国側には既に、いなくなった王女を探すつもりはない筈だ。何処にいるかもわからない王女を探す手間と、それによって得られる帝国への従属が釣り合っていない」
「それじゃあなんで……」
「これは王宮の方で聞いた話ではあるが……どうにも、サントラルクの民の間で、帝国に対する反乱運動が強まっているらしい」
「それは、私が言うのもどうかとは思いますが、とても無理な話では」
「ああ、帝国の軍事力はとても強大だから。どうあがいても無理な話だよ。反乱が起きてから後追いで鎮圧しても、あちらとしては特に問題がないくらいだろうね。
だが、それに巻き込まれては、我々としてはたまったものではない」
「それじゃあ、亡命するのでしょうか?」
「それは……まだ、決めかねている。帝国は領地からの移動を禁じている。失敗したときのリスクが高い。しばらくの間は情勢を見計らって——」
「——いや、亡命した方がいいと思う」
オルドの発言を遮り声を上げた者がいた。ディノンである。
「お前、起きてたのか……⁉」
オルドは、椅子から立ち上がってディノンの方へと振り返る。その際、体が食卓に当たってガタリと音を鳴らした。
「ついさっき起きたばかりだよ。ここが危ないから逃げようか、って所までは聞いた」
ディノンのその言葉を聞いて、オルドは椅子へと座り直した。
「今日、働き先で聞いてきた。ネーヴァ姉上がサントラルクの王女なんじゃないかって噂を」
「なっ⁉」
再び、しかし今度は椅子を倒しながらオルドは立ち上がった。
ネーヴァも、両の手を胸の前でギュッと握りしめディノンを見ていた。
「まあ、法螺話みたいな風に話していたし、俺としても事の真偽はどうでもいい。問題は、それを聞いた帝国がどう動くのかって話だよ」
「そういうことかっ!」オルドが言った。「帝国に対する反乱因子が存在するとして、彼らが旗印として掲げるのに最も都合がいいのは王族の血を引いている人間……。いや、必ずしもそうである必要はない、周囲にそう思わせられれば誰でも問題ないのか」
年齢・性別・髪の色……それら全てが、いなくなったとされる王女とネーヴァは一致している。ネーヴァは、サントラルクの王女が戸籍を偽造した姿なので当たり前と言えばそうなのだが、それを知らない誰かが偶然、体のいい御輿としてネーヴァの名をあげた可能性があり得るのである。
帝国としては、反乱分子のトップが分かっていれば、それを抑えてしまえばいい。そのトップが本当に王女かどうか疑わしくとも、あるいは本人に反乱分子を率いる気が無かったとしても、反乱を事前に鎮圧できる喧伝材料として捕らえるだろう。その先は悲惨だ。良くて監禁、普通に考えて処刑である。
「もしかしたら、姉上の噂の件と、父さんが言ってた反乱分子の件、それぞれ全く関係のない所で起こった事かもしれないけど、仮に裏で繋がりがあったとしたら……かなりヤバいよ。いや、なくてもヤバいけど」
「不本意でも巻き込まれる可能性が高い……か」
「というか確実に巻き込まれる。亡命失敗のリスクとかは比にならない。なら、さっさとこの国を出る準備をした方がいい」
「……」
オルドは俯きがちとなり、強く目を閉じた。目の両端から広がるように皺が出来る。
十秒、二十秒と沈黙が流れていく。
そしてオルドは、一度深く息を吐いてから顔を正面へと上げた。
「ディノンの言う通り、だな……。ああ、その通りだ。」
「決まりだな」ディノンが言う。「なら、早速亡命の準備しないと——」
「いや、その必要はない」
ディノンの言葉にオルドが被せて言った。
「実は、亡命の準備自体は既に済ませているんだ」
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