008 逃走劇と新たな遭遇
「ば、化け物ぉ!」
「ま、待ってくれ!」
すると僕と目が合った瞬間、中年男性が背を向けて走り出す。明らかに僕に恐怖して、逃げ出した感じである。
僕はとっさにそう声を上げると、気がついたら中年男性を追いかけていた。
自分でも、何故追いかけたのかは分からない。だけど本能的に体は動いていたのである。
そのことに今は意識が向かず、とにかく誤解を解きたかった。
中年男性は小太りであるからか、足はそこまで速くはない。だが命の危機を感じているからか、予想以上に長く走り続ける。
以前の僕なら既に追いつけていたけど、今は右腕が化け物ということと、体に虫のクリーチャーを纏わせていたので上手く走れない。
なので仕方なく虫のクリーチャーたちを外していき、走りを安定させる。
そうして加速すると、中年男性はチラリとこちらを見て
だけど最後は結果として、中年男性が十字路で何かに
「ひぃ、ふぃ、ゲホッゴホッ、ひぃい! こ、殺さないでくれぇ!」
中年男性は僕のことを完全にクリーチャー側だと思っているのか、そう言って命乞いをしてきた。
だからまずはその誤解を解くために、僕は説得を試みる。
「大丈夫。殺さない。殺さないよ。僕の右腕はヤバいことになっているけど、これでも普通の人間だったんだ。こうなったのは、異能のせいなんだよ。し、信じてくれ!」
僕はそう言って、自分がクリーチャーではないことをアピールした。
「く、来るなぁ! この化け物がぁ!」
「いや、だから化け物じゃないって、言葉通じるでしょ?」
だけど中年男性は
「私を帰してくれ! 妻と子供がいるんだ! 再就職して、家のローンも返済しないといけない! 今は公園通勤の上に子供からは嫌われているが、きっとまた尊敬してもらえるはずなんだ! だからこれは、夢だ。悪夢なんだぁ!」
「お、おい! 落ち着け!」
すると中年男性は状態が悪化したのか、そんな現実逃避をし始める。
僕はその姿を見て、思わず近づいてしまった。だけどそれが、ある悲劇を生む。
「カハッ!?」
「え?」
気がつけば僕の右腕が勝手に動き、中年男性の首に噛みついていた。そして瞬く間に、血を吸い始める。
手の平の中央にある口が、その舌を
「――!!」
「なっ!? ま、待ってくれ! 僕じゃない。僕の意思じゃないんだ!」
僕はそう弁明をするけど、右腕は少しも言うことを聞く感じがしない。全く制御が効かなかった。
嘘だろ!? こんな事になるなんて……。
そうしている間にも、中年男性の顔はどんどん青くなっていく。またそれに付随して、右腕が吸った血で
まずいっ。このままだと、この人を殺してしまう! どうすれば、どうすればいい?
僕は左腕で右腕を外そうとするが、力の差が歴然であり、びくともしない。また殴ってみても、意味はなかった。
だから僕は、
これは、もう無理だ。
目の前の中年男性を吸い殺してしまうのは、もう避けられそうにはない。けど、そんな諦めの感情が生まれた直後だった。
「その人を放しなさい!」
「!?」
そんな少女の声が聞こえるのと同時に、右腕に光の矢のようなものが一本突き刺さる。
痛みこそあまり感じないものの、皮膚が弾けて吸った血が、辺り一面に散らばった。加えてその影響があったからなのか、右腕が中年男性を解放したのである。
「あ、あんた! 変な虫の化け物の仲間でしょ! ここがどこか教えなさい! そして私を解放して! でないと、次は脳天を射貫くわよ!」
その声に視線を向けると、そこには十代半ばくらいの少女がいた。黒髪ロングで、瞳は少し気の強そうな印象を受ける。
こちらを指さしながら、それなりのサイズをした胸を張って上半身を少し反っていた。一見高圧的な態度だけど、その整った顔からはどこか怯えが垣間見える。
また学生なのか、長袖のワイシャツと胸元には青いリボン、それと青と白のチェックのスカート。そして白い靴下と茶色のローファーを履いていた。
「ま、待ってくれ。僕は化け物の仲間じゃない。こんな右腕だけど、信じてくれ。この人を襲ったのも、僕の意思じゃない!」
「見え透いた嘘をつかないで! それにあなたのような糸目の狐顔は、この状況では怪しさしかないわ!」
「いや、糸目で狐顔だけど、関西弁じゃないから怪しくないって!」
「逆にそれが余計に怪しいわよ!」
「ぐっ」
だめだ。信じてもらえそうにない。そもそもこの中年男性を僕の意思ではないとはいえ、襲ってしまったことは事実だ。
糸目で狐顔が怪しいのは単なる言いがかりだけど、この右腕は誰が見ても怪しさしかない。僕が逆の立場でも、信じることはないだろう。
「それよりも、早く本当のことを話しなさいよ! そしてこのおかしな場所から、私を解放しなさい! でなければ次は、ほ、本当に殺すわよ!」
そう言って少女の背後に、先ほど放たれた光の矢が一本現れる。ちなみに僕の腕に刺さっていた光の矢は、既に消えていた。
これは非常に不味い。話すも何も、逆に僕が知りたいくらいだ。でも何か言わないと、本当に殺されるかもしれない。
幸い少女は人を殺すことには抵抗があるらしく、僕のような右腕がクリーチャーの存在でも、まだ殺すのを
でもこのまま何も言わないと、足や腕などすぐには死なない
これは何か話さないと、本当に不味いな。でも実際、あまり話せることはない。僕の異能を教えて、化け物じゃないことを言うべきだろうか? いや、それを仮に信じてくれたとしても、次は中年男性を襲った危険人物だと思われるだけだ。
流石に右腕が勝手に動いて、中男性を襲ったということまでは、信じてはもらえないだろう。単なる言い訳に思われる気がする。
なのでどの道この少女とは、このまま敵対することになりそうだった。
だとしたら僕の選択は、正直限られている。戦うか逃げるかの、どちらかだ。とりあえずは先に、考える時間を稼いでおこう。
「なら、知っていることをまずは話す。左腕につけているスマートウォッチは、自分だけの物でなく、他人の物も操作できる」
「……続けて」
よし、有用そうな情報なら、攻撃せずに聞いてくれるみたいだ。この少女は感情的に見えて、意外と冷静なのかもしれない。
それともやはり、他人を殺すことへの
僕はそう思いつつも、次の言葉を口にする。けどこの状況に僕も
「また他人のスマートウォッチを操作して、自身のスマートウォッチにエンを移動させることも可能だ。加えて死亡した者のスマートウォッチは、何故か簡単に外すことができる」
「――ッ、それを知っているということは、あなた、既に人を殺したのね!」
「ち、違う! 既に死んでいた人から、取り外したんだ!」
まずい。発する内容をミスった。
この状況で助かる方法と台詞を同時に考えるのは、とても難易度が高かった。
またそれに加えて殺されるかもしれない状況と、中年男性を害してしまった動揺も加わり、それは僕の処理できる内容を、完全に超えていたのである。
故に普段ならしないミスも、こうして出てしまった。しかも最悪なことに状況からして、それは致命的な内容である。
「嘘を言わないで! その右腕で、そこの男性のように襲ったのでしょ! あなたは危険な存在だわ! それに見た目通りの嘘つきね! たとえ化け物の仲間じゃなかったとしても、到底信じられないわ!」
その結果として、女性の説得は当然のように失敗に終わってしまう。けど代わりに、時間稼ぎはもう十分だった。
「ぼ、僕を射貫くなら、この人を殺すぞ!」
見た目以上に怪力な右腕で、中年男性を持ち上げた。クワガタのような部分で太ももを挟み、逆さ吊りの状態でだ。
これは中年男性が、小太りだったのが原因である。流石に胴体を挟むのは、太さ的に無理だった。
また先ほどは言うことを聞かなかったけど、今は問題なく右腕が動く。加えてなぜか調子が良かった。それは多少なりとも、血を吸ったからかもしれない。
光の矢で腕を射貫かれた際に皮膚が弾けて血が溢れたけど、それは吸った血の一部だったことも、影響しているのだろう。
腕に移動した血は、いくつかの部屋のような
なのでたとえ一か所が破れても、他の保管されている箇所には影響がないみたいだった。
見れば射貫かれた部分は、既に傷口が塞がっている。自分のことながら、それは恐ろしい回復力だった。
「人質なんて
思った通り少女は、僕にそんな言葉を浴びせてくる。
まあ誰がどう見ても、今の僕は悪役だった。しかしこれはもう、仕方がない。ここまでやったからには、このまま悪役で行くしかなかった。
「他人のことを気にしてていいのか? 後ろを見てみろよ。そのままだと、殺されるぞ?」
「そんな手に引っ掛かるわけ……ひぃ!?」
すると少女の背後から、あの虫のクリーチャーが飛びついたのである。
辺りに散らばった血の臭いに誘われたのか、女性の背後にある通路から現れたのだ。
またここは十字路だったので、僕のいる方向以外から来ることに賭けたのである。その中で少女のいる方向の通路から現れたのは、最良の結果だった。
少女は腰に張り付いた虫のクリーチャーに対して、即座に光の矢を放って始末する。ピンク色の肉と体液が弾け、少女の制服を汚した。少女はそれにより、涙目になっている。
「敵は一匹だけじゃないぞ。後ろをよく見てみろ」
「!? 嘘でしょ!」
すると今度は僕の言葉を信じて、背後を確認した。そこには虫のクリーチャーたちが、三匹ほど新たに通路の奥からやってきている。
うん? 光の矢を出さないのか?
けど不思議なことに、少女は中々光の矢を生み出さない。
もしかして、光の矢を出すための再使用まで待つ時間、いわゆるリキャストタイムがあるのだろうか?
僕に対して放った後に出せたことを考えると、一発目は生み出してからしばらく発射せずに、そのまま維持できるのかもしれない。
それによって、一度だけ連射が可能だったのだろう。
この状況で光の矢を新たに生み出さないのは、そうとしか考えられなかった。
「今なら僕は何もしない。ここから早く立ち去ってくれ」
「ぐ、ぐぬぬッ……お、覚えておきなさいよ!」
僕がそう言うと、少女は悔しそうな表情をしてこちらを
そして負け台詞のようなことを言いつつも、僕から見て十字路の右方向へと少女は駆けていった。
僕はそれに対して何もせずに、逃げていく少女を見送るだけに留める。
ふぅ。なんとか助かったな。
少女を逃がしてしまったけど、あの目は何か奥の手がありそうな予感がした。実際負け台詞を吐くほどには、余裕があったように思える。
それに少女が僕を殺すのを
けれども第一目標は、あの状況を乗り切ること。なので逃げることも候補にあったので、逆に相手が逃げるのもまた問題はない。
そしてデスゲームに酷似した状況だけど、漫画のようにすぐ人を殺せるようになる精神性には、まだまだ遠かった。
しかし同時に、僕はあることを思ってしまう。
はぁ……いや、これは言い訳だな。やっぱり客観的に考えると、物騒だけど殺すのが最善だったのかもしれない。
少女を逃がしてしまったことに対して、そのように僕はつい考えてしまった。
どう考えても、後々面倒なことになる予感がする。なら少女とは再会することなく、どこかで息絶えていることに賭けるしかない。
けど直感的に、少女とはまたどこかで出会う気がした。
まあ、もうなってしまったことは、どうしようもない。とりあえず生き残ったことを喜ぼう。
僕はそんなことを思いながら、少女が完全にいなくなった通路を、ただ静かに見つめるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます