第20話 堕ちるという選択

 真っ白な光に包まれて、気が付けばまたあの場所にいた。

 

 今までは帰ってくると、どこかしらほっと身体が解けるような感覚があった。

 しかし、今回は何も感じられなかった。ぬくもりも、心地良さも、安心感も、なにも。

 シラネルはぼーっと突っ立って、ただ前を見ていた。

 雲がふわふわと浮いている、何もない空間だ。

 このとてつもない開放感が天界の好きなところだったが、今はまるでシラネルの心の中を表しているように感じた。

 もう何も考えられない。空っぽだ。なにもない。頑張っても頑張っても、目の前から消えていってしまう。

 

 小さく風が吹いて、シャラと音が鳴る。そこで存在を思い出して、虚ろな目で握っていたネックレスを見た。

 ネックレスの液体はほぼ満タンだった。

 少しずつ溜まっていって、前回の転生で彼と過ごしているにつれ物凄いスピードで増えてゆき、この調子だと還れると思っていた。

 ――それなのに、なぜ彼は死んでしまったのだろう。

 彼の魂の気配がないから、まだこの天界に還ってこれていない。

 きっと今もまた、人間の転生の輪に入っているのだろう。シラネルが入れない、その輪に。

 

 「⋯⋯⋯⋯」

 そう思った時、――自分も天使をやめる、という選択肢があることに気付いてしまった。 

 自分が天界に相応しくない存在となれば、自動的に今の彼と、同じになれる。

 

 (⋯でも)

 そうしたら、以前のように天界でふたりで暮らすことは、今度こそまた夢の夢になるだろう。

 それなら、お互いまた修行して、天使になって、番になればいい。

 

 ――でも、何千年かかると思っている?その間にどちらかが諦めてしまったら?記憶を無くして闇へ引き摺りこまれてしまったら?

 

 それでも彼となら再び番になって戻ってこれるとは、流石に言えなかった。

 天使をやめたら、人間の間だけは共に過ごすことが出来るかもしれない。

 しかし、人間の人生なんて天から見たら一瞬だ。

 その一瞬のために、この永遠のような時間を手放すのは、どうなのだろうか。たとえほんの瞬きの間のようでも、それでも、彼と共に過ごせるならいいのだろうか?

 答えの出ないまま、じっとネックレスを見つめ続けていた。


 

 「⋯シラネル!!」

 すると背後から声が聞こえてきた。また彼が来てくれたのだろう。

 「⋯⋯ティオ⋯」

 「まずは、おかえりっ⋯」

 ぎゅっと、強く抱きしめられる。シラネルはされるがまま、立ち尽くしていた。

 「⋯⋯ねえ、ティオ」

 「ん?」

 

 「⋯僕たちは、一緒にいてはいけなかったのかな」


 シラネルの感情のない声が、だんだんと震えていく。

 「⋯僕はなんでこんなにも、頑張ってるんだろ。なんかもう分かんなくなってきちゃった。なんでラヴィレンと一緒にいたいんだっけ。一緒にいてどうなるんだろ、なんでぼくは、」

 「っ⋯」

 「もう疲れたよ。もうやだ。くるしいよ、つらい。ただそばにいてほしいだけなのに。なんで許してくれないの?誰のせいなの?僕がだめなの?僕の頑張りが足りない?ねえ、助けてよ、お願いっ⋯」

 ぼろぼろと叫ぶように、でも静かに涙が溢れていく。


 「シラネルっ⋯!」

 

 ティオは思わず声を荒げ、肩を強く掴んだ。その手の力に、シラネルは驚いて目を見開く。


 「⋯⋯よく聞いて。まず今回、ネックレスの液体が溜まってきていたのに、彼が死んでしまったのは――”階層”が原因だと分かった」

 

 「⋯⋯⋯階層?」

 かすれた声で問い返す。

 ティオは深く頷き、少し言葉を選ぶように続けた。

 「そう⋯天界や地獄界もだけど、人間界にも、目に見えない階層が分かれていることは知ってるよね?」

 「うん⋯」

 「この階層はピラミッドのようになってるんだ。君は天使だから、当然、頂点に近い場所にいる。でも彼は元天使とはいえ、今は人間。しかも一度地獄界に深くまで落ちてしまったから、魂の位置はピラミッドの底にいた」

 その言葉に、シラネルの胸が強く締め付けられる。ラヴィレンの苦しむ姿が頭に浮かび、奥歯を噛みしめた。

 「それを君が人間として転生し、人助けをしたり徳を積んで愛を集めることで、番であるラヴィレン自身に触れられなくても、魂に影響が届く。それが可視化されたのがあのネックレスの液体」

 「⋯⋯」

 シラネルはネックレスに視線を落とした。揺れる液体が、これまでの自分の努力の証であることを思い出す。


 「最初の頃は、会うことすら出来なかったでしょ?あれは君とラヴィレンのいる階層が、あまりにも違いすぎたからなんだ。差の激しい存在は、共存出来ない。遭遇すらできない。そういう仕組みなんだって」


 「……」

 シラネルは、遠い昔の孤独を思い返して小さく息を呑む。

 ティオは静かに続ける。

 「君は少しずつ愛を集め、液体を満たしていった。そのたびにラヴィレンの魂は上の階層へと引き上げられた。だから直近の転生では、今までとは比べ物にならないほど近くにいられたんだ」


 「⋯⋯でも彼は死んでしまったよ」

 絞り出すような声で呟く。


 ティオは目を伏せ、言葉を選んだ。

 「⋯残酷だけど、まだ足りなかったんだ。階層の違う者同士が一緒にいるには、下の者が頑張るしかないんだ。ラヴィレンは無意識に無理をして合わせていた。だから、ああして体調を崩したんだ」


 まるで自分が負担をかけていたように思えて、苦しくなった。

 

 「⋯⋯そういえば、8割を越えた辺りから液体の増えるスピードが落ちてるんだ。これって⋯」

 「⋯そう、そうなんだよね」

 ティオは眉をひそめる。

 「一定に増え続けると思っていたけど、違うらしい。悪いけど、僕達にも分からない。これまでのように転生を繰り返していけば、いずれは満たせるかもしれない⋯けど、」

 ――シラネルには、認めたくはないが⋯気になっていたことがあった。

 「⋯⋯でも、彼の魂は、」

 それが伝わったティオは、沈痛な表情で頷いた。

 

 「そう。その通りだ。今回君を置いていってしまったことで、彼の魂にはまた深い傷が刻まれた。ここまで脆くなると――」

 言葉が途切れる。重い沈黙ののち、ティオは絞り出すように告げた。

 

 「……いつ完全に消滅しても、おかしくない」


 

 シラネル自身も、ラヴィレンと過ごす中でずっと感じていた。

 彼の魂の輝きが、少しずつだが、明らかに弱まっていっていることを。まるで風前の灯火のように、小さく揺れて、今にも消えてしまいそうで。


 彼のためにも、今すぐ行くのがいいに決まってる。頭ではそう理解していた。

 それなのに、なぜだろう――心のどこかが、行くことを拒んでいた。

 傷付くのが怖い。失うのが怖い。もう、これ以上は耐えられない。


 

 「⋯ティオ」

 シラネルは唇を噛み締めて、視線を落とした。


 「行った方がいいって分かってるのに、もう行きたくないって思ってる自分もいる。こんなのだめなのに⋯⋯こんな自分が恥ずかしい」


 心の奥をさらけ出すように絞り出すと、ティオは即座に、強い声で言った。


 「恥ずかしくなんかないよっ!」

 いつになく力強い声だった。


 「君はそれほど傷付いてきたんだ。それだけのことをしてきた。なぜ、堕ちた者を誰も救いに行かないと思う?――誰もできないからだよ。誰も、そんなに苦しいことをやり抜けないんだ」


 ティオの声が震える。


 「君はやってきた。痛みに向き合って、それでも諦めなかった。だから僕は知ってる。君の覚悟は本物だ。君の愛は、誰よりも大きい。それを、君自身が否定しないで」


 シラネルは何も言えず、ただ俯いたまま拳を握りしめていた。



 

 ――その時、静かに空間が変わる気配がした。


 「⋯⋯シラネル」

 その声に、シラネルは息を呑む。


 「っ!大天使様⋯⋯⋯」


 どこからともなく現れた白銀の衣をまとった大天使は、いつもより少し優しい瞳でシラネルを見下ろしていた。


 「迷っておるのか?」


 短く、しかし深い問いかけに、シラネルは目を逸らしたまま頷くこともできなかった。

 「⋯まあ、そりゃそうだ。こんなこと、平気でできる方がおかしい」

 その声に、少しだけ救われた気がした。


 「⋯階層の件についてだが、一つだけ方法を見つけた」


 シラネルがはっと顔を上げると、次の瞬間、衝撃の言葉が投げかけられた。

 

 「――天使のまま降りることだ」


 「大天使様ッ⋯!」

 側近たちの悲鳴のような声が響く。だが、大天使は微動だにせず言葉を続けた。


 「天使のまま降りれば、階層を自由に行き来できる。

つまり、お前がラヴィレンの階層に合わせていれば、あのようにラヴィレンが命を落とすことは、なくなる」


 静寂の中に、はっきりと大天使の声が響いた。

 シラネルは、その意味を心の中でゆっくりと反芻する。

 (――天使のまま、降りる。魂が剥き出しのまま、あの世界へ)


 「⋯⋯何度も言っている通り、液体の仕組みについては、我々にもよく分かっていない。

 だから、たとえお前が天使として降りたとしても、液体が満タンにできるという保証はどこにもない」


 淡々とした言葉に、誰もが息を呑む。


 「それでも、行くというのなら――私は許可しよう」


 その瞬間、すかさず側近が声を上げた。


 「い、いくらなんでも危険ではっ⋯!」

 「もちろんそれは分かっておる」

 大天使は冷静だった。


 「魂が剥き出しというのは、すなわち存在そのものがむき出しということ。

 闇の者たちにとっては、最高の餌だ。襲われればひとたまりもない。

 それでも行きたいと言うなら、許可しようというだけで――推奨しているわけではない」


 シラネルの胸の奥に、じわじわと重いものが落ちてくる。

 それでも、それ以上に突き動かされる何かがある。彼のために。自分自身のために。


 「⋯シラネル」


――大天使は一歩前に出て、その瞳をまっすぐに向けてきた。


 「お前は、彼を想ってここまで来た。確かに、それは事実だ。

 けれどな――お前自身が、それを“やりたい”と願ったはずだ」


 「この愛を貫きたくて、今ここにいるんだろう?」


 ぐらりと視界が揺れる気がした。ずっと心の奥に秘めていた思いを、見透かされたようだった。


 大天使は少しだけ間を置いて、静かに続ける。


 「⋯⋯ある奴が言っていた」


 「――この先、何百年、何千年と時が流れ、振り返った時に、

 “その選択をした自分を、誇れるかどうか”が、人生における答えなんじゃないか、と」


 その言葉は、優しくも鋭く、胸の一番深いところを刺した。


 「お前の選ぶべき道は、お前自身の魂が知っておる。

他人の言葉ではなく、未来の自分に、胸を張れるかどうか――それだけだ」


 シラネルは自分の胸に手を置き、心に尋ねる。

 これはラヴィレンのためじゃなくて、自分の為なのだ。

自分がラヴィレンと共にいたいから。彼にそばにいてほしい⋯⋯でもなにより。

 (彼には、幸せに笑っていてほしい)

 そのために出来ることがまだあるのに、まだ間に合うかもしれないのに。今やめるなんてーーそんなの嫌だ。


 「⋯⋯やりますっ⋯!」

 シラネルは顔を上げ、力強く大天使を見た。

 今までにない覇気に周りが圧倒されていることを、シラネルは気付かない。


 「そうだ。やれるならやってみればいい。お前はまだ、この手で未来を変えられる場所にいる」

 「はい⋯!」


 どこまでも応援してくれる大天使には、感謝してもし切れない。

 ⋯それは大天使だけでなく、彼も。

 「⋯ティオ。本当にありがとう。どうやってお礼をすれば⋯」

 「ふふ。お礼はラヴィレンに貰うから、気にしないで」

 本当に、彼がいてくれるから、シラネルはここまで頑張れた。

 自分はなんて幸せ者なのだろう。


 

 「行ってきます!!」


 びゅん!と跳ねるように、人間界へのドアを跨ぐ。

 

 ――いつものように手続きをせず、そのままの姿で、シラネルはラヴィレンの元へ向かっていった。

 

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