第4話 二人で食卓を

 次の日森へ行くと、早速ルアンは食事を持ってきてくれていた。

 大きめのバスケットには何が入っているのだろうと、ファルーはワクワクした目で見つめていた。

 それに気付いたルアンは苦笑いした。

 「ごめんね、厨房からこっそり取ってくることしか出来なくて⋯そんな大したものじゃないんだけど」

 「そんな⋯!どんなものでも大丈夫ですっ」

 「でも味は保証するよ」

 

 いつもの木に並んで座って覗き込むと、ルアンはそっと蓋を開けた。

 「わあ⋯!」

 中身はパンやチーズやハム、ウインナーまで沢山入っていた。

 豪華なご馳走にファルーの胸は高まった。

 「苦手な物はない?」

 「きっと大丈夫です!」

 お皿も持ってきてくれていたようで、ファルーの膝の上に置かれる。

 ルアンがその上にフォークで乗せてくれるのを一つ一つ目で追いながら、もう見てるだけで満足してしまいそうだと唾を飲み込んだ。

 二人分を分け終わり、いよいよ食べられる時がやってきた。

 「いただきますっ⋯!」

 「うん、どうぞ」

 ファルーは両手を合わせながら、ルアンの顔を見て大きく声を出した。

 つい興奮が滲み出てしまっていたのか、ふっと笑われてしまったのが恥ずかしい。

 少しだけ縮こまりながら、どれから食べようかと迷ったあと、――茶色く少しツヤのあるパンを手に取った。

 指に触れた瞬間サクッと音がして、それだけでファルーの心は感動で満たされる。

 家でもパンは出ていたが、こんな凝ったものではなく、どこか湿っぽくて固いものしかなかった。

 小さく口を開いて、一口噛む。

 その瞬間ぶわりと柔らかな甘みが広がり、ファルーは目を見開いた。

 「⋯!」

 サクサクと音がするそれは食感も心地よく、噛む度に口の中に幸せが広がるようだった。

 こんな美味しいパンは今まで食べたことがなかった。

 「美味しい?」

 そう尋ねられると、ファルーは首が取れてしまいそうなほど全力で頷く。

 「本当に美味しいです⋯!こんな美味しいの初めてですっ」

 「ほんと?それは良かった」

 「このパンは、なんていうパンですか?」

 「これは、クロワッサン」

 「クロワッサン⋯」

 初めて聞く名だ。

 というかパンはパンとしか知らなかったから、また一つ知識が増えた。

 「おいしい⋯」

 あまりの感動に思わず声に出てしまう。

 こんな美味しい食べ物があるとは⋯と幸せを噛み締めた。

 勿体なくてちびちび食べていると、なんだか嬉しそうなルアンは身を乗り出してきた。

 「ファルー、他のも食べてみて」

 「他の⋯でも、もうこのクロワッサンだけで僕は満足ですよ?」

 真面目にそう言うと、ルアンはまた笑った。

 「そんな事言わないで食べてみてよ。きっと美味しいから。ほら、バタートースト」

 クロワッサンの下に入っていたトーストをルアンは渡してくれた。

 これもまた信じられない美味しさで、ファルーは目を閉じて味わった。

 「ほんっとうに美味しい⋯⋯こんな美味しい食パン食べたことないです、全然違う」

 「ほんと?良かった」

 ルアンもトーストをかじりながら嬉しそうに笑った。

 (⋯⋯ん?) 

 ファルーは思わず食べていた手を止めて見つめてしまう。

 なぜなら、ルアンが変わった食べ方をしていたからだ。

 「ルアンさん⋯⋯食パンの食べ方、面白いですね⋯」

 ルアンはトーストのパンの部分だけを先に食べて、耳は最後に一気に食べるという食べ方をしていた。

 「⋯ああそうだ、これやめろって言われてたんだった⋯」

 ルアンは少し恥ずかしそうにしながら残りの耳をパクッと食べてしまった。

 「実は昔からの癖で⋯パンの耳が好きなんだ」

 「耳が⋯そうなんですね、嫌がる人が多いのに」

 「うん。あの硬さが好きでさ、だから最後に残しておきたいって思うんだ」

 そんな風に思う人もいるのだと、ファルーは瞬きを繰り返した。

 「なんか⋯いいですね、そういうの」

 「ええ、そうかな?」

 「はい。通みたいだし⋯僕も真似しようかな」

 そう言うと、ルアンはやめた方がいいよと言いながら笑った。

 大抵の人が避けたがるものの価値を分かって、それを大事に最後まで取っておこうとするなんて――純粋に、素敵だなと思った。

 また一つ彼の魅力を知ったように思えて、嬉しかった。


 ルアンは皿の上にあったファルーのフォークを手に取り、四角いチーズを刺した。

 「ほら、口を開けて」

 「え、」

 口の近くに持ってこられると、ファルーは戸惑いながらルアンとチーズを交互に見た。

 もしかしなくても、食べさせようとしてくれている⋯?

 「いやっ、あの、自分で食べられますっ⋯!」

 「いいからいいから、」

 どんどん近付いてくるにつれて、ファルーの心臓も早くなる。

 ぎこちなく口を開くと、それは香りと共に口内へと入ってきた。

 そのまま一口かじると、ねっとりとした舌触りが広がる。

 なんだか重いようなコクと深みのある塩気が独特だが、クセになってしまいそうな美味さがあった。

 「⋯お、美味しい⋯」

 「ふふ。カマンベールチーズだよ」

 「カマンベール⋯⋯チーズ自体初めて食べました」

 「そっか。ちょっとクセがあるけど美味しいよね。他にも色々な種類があるからまた持ってくるよ」

 「そんな⋯大丈夫ですよ⋯?」

 「俺が食べさせてあげたいんだよ」

 そう言ってとびきり優しく微笑まれると、ファルーは何も言えなくなってしまった。

 それからもせっせと口に運ばれるので、自分で食べられるのにと思いながらも、口を開いては食べさせてもらっていた。

 まるで餌付けされている雛のようだ。

 そうしてファルーの分が減ってくると、なんと自分の皿から渡そうとしてきた。

 「ルアンさん⋯!それはダメですっ」

 「どうして?もっと食べていいんだよ」

 「ルアンさんの分が減っちゃう⋯」

 「俺は元々そんなに食べないから、腹が減ってないんだ。だから気にしないで」

 「もう⋯」

 本当かどうか分からないが、あまり強く言い返すのもなと思って、ありがたく受け入れる。

 するとルアンは満足気に頷いた。

 ルアンが持ってきてくれた食べ物はどれも最高に美味しくて、食べる度に目が輝いている事が自分でも分かる。

 だって本当に美味しいのだ。

 これまであまり食にこだわりは無かったというか、まあこだわれるような環境でも無かったのだが、もしかしたら自分は食べる事が好きなのかもしれないと思うくらい夢中になった。

 そんなファルーを、ルアンは飽きることなく見つめ、楽しそうに微笑んでいる。

 何でそんなに楽しそうなのだろうか。

 

 「⋯⋯見すぎです」


 穴が空きそうなほど見つめられ、流石に恥ずかしさが限界に到達した。

 「ごめん、つい」

 全然悪そうに思ってなさそうな顔をしながらそう言うルアンに、ファルーは少しだけむっとしながら視線を逸らした。なんだか頬が熱い。

 

 「⋯あ、ファルー」

 

 名前を呼ばれたと思ったら顔の前に腕が伸びてくる。なんだか分からず彼の方を向くと、だんだん顔が近付いてくる。

 (⋯!?)

 一体何が起こってるんだ。状況が理解出来なくて固まる。

 ドッドッドッと心臓がうるさく鳴り響いているのを感じていた。

 ここまでルアンの顔を近くで見るのは初めてだった。

 凛々しい顔つきは、まるで神様が一つ一つ丁寧に作ったかのように整っていて、綺麗で思わず見惚れしまう美しさだった。

 思わず息を飲むと、ふんわりと石鹸の香りと共にどこか温もりを感じさせる、少し甘くて優しい香りが鼻を擽った。けれど、たしかに彼が男であることを意識させる、芯のある香りも感じる。

 どこか懐かしくて、安心する匂いだった。

 ⋯なのに、心臓が妙にうるさいのは、どうしてなんだろう。

 そんな事をぼーっと考えていると、口元に指が触れた。

 

「付いてたよ」

 

 「⋯!」

 茶色いそれはおそらくクロワッサンの一部だろう。

 ぼんやりとしていた意識がハッと戻る。

 「あっ、す、すみません⋯!」

 「ふふ」

 いつから付いていたのだろう、恥ずかしい。

 言ってくれたら自分で取るのに⋯と思いながらも、どこか嫌ではない自分がいた。

 嫌どころかむしろ――。

 

 (⋯でもなんでこんなに気にかけてくれるんだろう)

 勉強を見たりしてくれてるくらいだし、元々面倒見が良いタイプなのだろうとは思っていたが、想像以上だった。

 それにしても良すぎる気もするが⋯王族というのはこれが当たり前の事なのだろうか。

 

 「ごちそうさまでした⋯!」

 色々ぐるぐると考えているうちに、持ってきてくれた分が無くなってしまった。

 ルアンがどんどん口に入れてくるせいもあって、ほとんどをファルーが食べてしまった。

 「僕ばかり食べてすみません⋯」

 「何言ってるの。俺が食べさせたんだから。むしろいっぱい食べてくれてありがとう」

 ルアンはいつも優しい顔をしているが、今日は特段柔らかい表情をしていた。

 まるでとろけてしまいそうなそれに、今日だけで何度キュンとしてしまっただろう。

 

 (⋯そもそも、なんで僕はこんなドキドキしてるの?)

 

 今日は新しく知ったことも多いけど、よく分からないことも多い日だ。

 「でも本当に全部美味しかったです」

 「それは良かった」

 「どれも食べるのは初めてだったので⋯とっても幸せでした。こんなにお腹いっぱいになるまで食べられたのも初めてです」

 感動と感謝を伝えたくて、思いつく限りの言葉を伝えながら笑顔を向ける。

 それを見たルアンは嬉しそうだったけど、どこか切なげに微笑んだ。



 それからも毎日欠かさず、ルアンはファルーに食事を持ってきてくれていた。

 贅沢な事に、それは当たり前になりつつある。

 初めは戸惑っていたし申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、今でもそれは変わらないとはいえ、気づけばそれを待っている自分がいた。

 ルアンの持ってきてくれるご飯は本当に美味しいし、意外と食べるファルーのために量もたっぷり持ってきてくれる。

 そんなにいっぱい持ってきてもらわなくても大丈夫だと何度も言ったが、悲しそうな顔をして「俺の楽しみを奪わないでくれ」だなんて言われてしまった。

 妙なことに、彼はファルーに食べ物を食べさせるのが好きらしい――。

 反発してまでやめてほしいわけではなかったので、ありがたく沢山食べさせてもらうことにした。

 そのおかげで痩せ細った身体には程よく肉が付き、カサカサしていた肌にはツヤが出てきた。

 ファルーの身体は健康そのものになり、食べ物の偉大さを身を持って実感した。



 膝の上に皿を置いてルアンが料理を乗せてくれるのを待つのが恒例になっていたが、今日はその皿が出てこない。

 「?」

 「今日は俺の夜用の食事を部屋に運んでもらったやつを持ってきたから、いつもより豪華だよ」

 ルアンの顔を見ると、彼はニヤリと笑いながらそう告げた。

 「えっ⋯」

 いつものでもじゅうぶん豪華なのに、それ以上だなんて想像も付かない。

 でもきっと凄いのだろう。

 ファルーは期待を胸に瞬きを繰り返した。

 「⋯えっ⋯!?」

 いつものバスケットから皿ごと何かが出てくる。

 そこにはなんと、少し厚みのある肉が乗っていた。

 「お肉⋯!」

 「そう!ステーキだよ」

 「ステーキ⋯!」

 もちろんファルーは食べたことなんて無かったが、家族が夕食で食べているのを見た記憶はあった。

 皿に盛られたステーキは、外はカリッと香ばしく焼かれ、中にはジューシーな旨みを秘めている。

 食べなくても美味しそうなのが分かるそれに、無意識にごくりと喉を鳴らした。

 「ほ、本当に食べていいんですか⋯?」

 「もちろん。君のために持ってきたんだから」

 食べてみたかったけど、そんなの願ったって無駄だからそう思わないようにしていた。

 それが今目の前にあるなんて夢みたいだ。

 興奮でもはや手が震える。

 食欲をそそられる香りに、もうかぶりついてしまいたくなった。

 

 「切って差し上げても?」

 ナイフとフォークを持ったルアンがニコリと口角を上げながら尋ねてくる。

 「えっ、あっ、そんな⋯っ!」

 ファルーが止めるまでもなく、ルアンはステーキにナイフを入れていた。

 柔らかな肉が抵抗なく切れ、切り口から肉汁がとろりと溢れた。そこから覗いたほんのりピンク色の断面は、最高の焼き加減を物語っている。

 ルアンの手つきは無駄がなく洗練されていた。

 正直、ナイフとフォークの使い方に自信が無かったから助かった。

 (⋯あ、)

 思わず見とれていると、ルアンの腕まくりをしたシャツがだんだん下がってきている事に気が付いた。

 このままだとステーキのソースが袖に付いてしまいそうだ。

 迷ってから、ファルーはそっとルアンの腕に手を伸ばした。

 少しドキドキしながら、ファルーよりも太く筋張った腕にくるくると巻き直す。

 ルアンはいつもファルーの世話を焼いてくれるので、自分もしてあげたいと思っていた。

 怒られないかな⋯と思いながら彼の顔を見ると、少しだけきょとんとしつつも嬉しそうに笑っていた。

 「⋯ありがとう。助かったよ」

 「⋯ふふ」

 照れているのかちょっとだけ恥ずかしそうなルアンが、なんだか可愛らしかった。

 でも、役に立てて良かった。


「さあ、召し上がれ」


 食べやすいように切り終わったルアンに、ナイフとフォークを渡される。

 それをしっかりと受け取って握った。

 「いただきますっ⋯!」

 肉を突き刺すと、断面から滲む肉汁の輝きに、ファルーの興奮は最高潮に高まった。

 その勢いのままひと口頬張れば、じゅわっと広がる濃厚な旨み。

 肉の甘みと、焼き付けられた香ばしさが絡み合い、舌の上でとろけるようだ。

 「⋯んん〜っ⋯!!」

 信じられないほどの柔らかさと濃厚な味わいに、思わず目を閉じた。

 一口一口大切に噛み締め、最大限味わい尽くす。

 惜しみながらもごくん、と飲み込むと、目を輝かせながらルアンを見た。

 「も、もうほんとに⋯っ!」

 この感動と味を表現出来る言葉が見つからない。

 あまりの美味しさに涙が出そうになった。

 「はは、君はいつも本当に美味しそうに食べるね」

 「だって本当に美味しくて⋯!」

 「嬉しいよ。持ってきた甲斐があった」

 甘くとろけるようなルアンの顔に、ファルーの心臓は大きく鳴り響いた。

 最近、彼と一緒にいるとこうなる事が多かった。

 (なんでだろう⋯)

 あのエメラルドの瞳で見つめられると恥ずかしくて目を逸らしたくなるのに、それ以上に惹き付けられてじっと見つめてしまう。

 無意識に彼の動作一つ一つを目で追っては、胸が締め付けられるような甘さが広がる。

 「まだあるよ。サラダに、今日はスープも持ってきた。一応耐熱のボトルに入れてきたけど、流石に冷えてるな⋯ごめんね」

 「そんなっ!とんでもないです!」

 「このスープもお気に入りなんだ。ぜひ君にも食べてほしくて」

 ルアンが好きな物を教えてもらえるのが、それをファルーと共有したいと思ってくれるのが嬉しかった。

 ルアンはボトルを傾けて、二つの縁の深い丸みのある皿にスープを入れた。

 こうして料理を取り分ける時、さりげなくいつもファルーの方が多い事に気付いてしまった。するともう、何とも言えない甘酸っぱい気持ちになった。

 スープの入った皿が膝の上に置かれると、そこから温かい熱が伝わる。

 ほのかなぬくもりが心地よく、心まであたたまるようだった。

 「⋯うん。やっぱりぬるいけど、美味い」

 ルアンはもう飲み始めていたようで、うんうんと頷きながら味わっていた。

 赤いから、トマトのスープだろうか。

 玉ねぎも入っていそうなそれは、食欲をそそられる香りがしていた。

 「いただきます」

 スプーンでそっと掬うと、こぼさないようにゆっくりと口を近付ける。

 

 「――! 熱っ⋯!」

 

 スプーンの淵に唇を付けた途端、あまりの熱さに咄嗟にスプーンを落としてしまった。

 

 ――その勢いでスープの入っていた皿は膝から落ち、地面に叩きつけられた。

 

 丁度運が悪く、皿が下にあった石にぶつかって割れた。

 パリーン!とつんざくような音が耳に響く。

 

 ――その瞬間、頭の奥にこびりついた記憶が呼び起こされた。


 ――『お前のような出来損ないに食事などいらないだろう!』

 ――『また失敗したな。罰だ』

 飛んでくる皿。砕ける音。

 ガラスの割れる音は、ファルーにとっては慣れたくもなかった、聞き慣れたものだった。

 割れた破片が刺さるように、内蔵が痛く締めつけられる。

 

 「……やだ、やだ、違う⋯!」

 

 ふるえる指先。

 パニックのまま、手を伸ばす。

 お皿を割ってしまったこともだが、スープも無駄にしてしまった。

 せっかくルアンがファルーに食べてもらいたいと言って持ってきてくれたものなのに。

 どうしよう。どうしよう。

 「っあ⋯ご、ごめ、なさ⋯っ!」

 拾わなきゃ。片付けなきゃ。怒られる、殴られる――!

 

 「っぅ!」

 

 ガラスの破片で指を切ってしまい、熱のような痛みが走る。

 血が垂れてきて、その濃い赤色に思わず寒気がした。

 ――しかし、構わず拾うのを続ける。

 「ファルーッ⋯!」

 ルアンに手首を掴まれ、ガラスから距離が離される。

 それと同時に、もう片方の腕が伸びてきているのが見え、咄嗟に目をつぶった。

 (殴られるっ⋯!)

 ――ぎゅっとつぶって衝撃に耐えたが、いつまで経ってもそれはやって来なかった。

 その代わり、指先に熱く柔らかい感触が訪れる。

 未知の感触に目を見開くと、


 ――なんと、ルアンがファルーの指先をくわえていた。

 

 「っ⋯⋯!?」

 あまりの光景に飛びのきそうになる。 

 「⋯っ⋯!」

 思い切り腕を引っ込めると、ルアンは泣きそうに顔を歪めていた。

 「な、何してるんですかっ⋯!?」

 「何してるんだはこっちのセリフだ⋯!!」

 大きな声でそう叫ばれるが、不思議と怖くなかった。

 それは彼があまりにも泣きそうな顔をしていたからかもしれない。

 「こんなにも血だらけにして⋯っ」

 「だ、だからといって舐めるだなんてっ⋯!」

 ルアンがそんな事をしただなんて、いまだに信じられない。

 なのに彼はそんな事は当然だというように全く気にせず、それどころかファルーの心配ばかりしていて、本当に意味が分からなかった。

 パニックになりながらも、床を見下ろすと、皿を割ってスープを無駄にしてしまった事を思い出した。

 「あのっ、ごめ、ごめんなさっ⋯お皿も、スープも、⋯っは、っ」

 訳が分からなくて混乱しているのと、申し訳なさと、怒られたくないという気持ちがごちゃごちゃになって、ファルーの呼吸はだんだん乱れていく。

 

 (嫌われたくない、失望されたくない、彼を失いたくない、一人にしないで、――おねがいっ⋯!)

 

 涙と共に様々な感情が溢れ出る。

 手は震え、胸は締め付けられるように苦しい。

 吸っても吸っても酸素が足りない気がして、さらに息を吸い込んだ。

 「ひゅ⋯っ、ぅ、⋯っはぁ⋯!」

 うまく呼吸が出来なくなったファルーに、ルアンはそっと寄り添った。

 「ファルー、落ち着いて、大丈夫だよ」

 大きな手のひらが、ゆっくりと震える背中に触れる。

 もう片方の手はファルーの固く握られた手を優しく解き、ぎゅっと握られる。

 「ゆっくりでいいから、息を吐いて。俺に合わせてみて」

 「っ⋯」

 ルアンの体温とあたたかい声が、ファルーの身体のこわばりを和らげていく。

 彼の言う通りに息を吐いたり吸ったりしていると、呼吸の乱れは元通りに戻った。

 「落ち着いた?」

 「はい⋯、すみません⋯」

 「いいんだよ。いきなり舐めたりなんかして、驚かせてしまったよね。ごめんね」

 そう言いながら頭を撫でられ、ファルーはふるふると首を振った。

 ――彼は本当に優しすぎて、こちらが申し訳なくなってしまう。

 「⋯あの、本当にごめんなさい。お皿もスープも」

 「そんなのどうだっていい。君の方が大事だ」

 「で、でも⋯」

 きっと高価なお皿に違いない。

 ファルーに弁償出来るだろうか。スープはもうどうしようもないけど、なんとかしてトマトや玉ねぎを渡したら許してもらえるだろうか。

 ――それを伝えると、ルアンははぁ、と大きく息を吐いた。

 「⋯勘弁してくれ。そんなのどうでもいい。

 ――本当に、君の方が大事なんだよ」

 するとルアンは正面から、ファルーの肩に軽くもたれ掛かるように身体を預けてきた。

 「!?」

 (ち、近い⋯!何!?!)

 ファルーの身体はガチガチに固まる。

 近いし、すぐそこに彼の頭があるし、とても良い匂いがする。

 心臓は今にも飛び出そうなほどバクバクしていた。

 「⋯君はもっと自分を大事にしてほしい」

 そのままの姿勢で話し出すルアンに、落ち着かないながらもきちんと耳を傾ける。

 自分を‪大事にしたいだなんて、そんなこと考えたことすらなかった。

 「僕はそんな⋯大事にされるような人じゃないですよ⋯」

 実際にそうだから、当主たちもファルーを大事にしないのだ。

 そうしてもらえる価値がない、欠落品。

 そんな自分を、どうやったら大事に出来るというのだろう。

 するとルアンは身体を起こして、ファルーをじっと見た。

 その表情に思わず息を飲む。

 「――卑下しないで」

 怒っているような、悲しいような、複雑に顔を歪めるルアンに、ファルーの胸がきゅっと締め付けられる。

 「俺の大切な人がそんな風に言われるのは、たとえ君自身であっても許さない」

 ファルーを見つめるグリーンの瞳が揺れている。その眼差しはとても強くて、目が離せなかった。

 「君は素敵な人だよ。こんな人に出逢ったことがない」

 「⋯⋯」

 彼はなぜこんなにもファルーの事を褒めたり、良く言ってくれるのだろう。

 こんな事をしてくれるのは彼だけだ。

 普段家族から受けている扱いとは正反対すぎて、その温度差について行けない。

 それなら、こうとしか理解出来なかった。

 

 「⋯ルアンさんは好みが変わってるんですね」

  

 「⋯え?」

 「僕のことをそんな風に言ってくれるのはあなただけですよ。嬉しいけど⋯変だなぁって」

 そう言うと、彼はむすっと不機嫌そうな顔をする。

 「変なんかじゃない」

 「⋯ふふっ」

 子どもみたいに拗ねる彼の顔が面白くて、ファルーは思わず笑ってしまう。

 「笑い事じゃない⋯!」

 普段大人っぽくてクールな彼の新しい一面に、ファルーの心に甘いものが広かった。

 「ふふっ⋯」

 まだ知らなかった彼を見ることが出来て嬉しい。かわいい。

 クスクスと笑っていると、気づけばルアンがすぐ目の前にいた。

 彼の手がそっとファルーの顎をすくい上げる。

 「っ⋯!?」

 驚いて息を呑む。彼の指先が触れた場所がじんわり熱を帯びていく。

 「俺は真剣だよ」

 低く囁く声が耳元をかすめ、心臓が跳ねた。

 ファルーは思わず目を逸らそうとするが、顎を支えられているせいで動けない。

 「君がどう思おうと、俺は本気でそう思ってる」

 距離はそのまま、彼は真っ直ぐにファルーを見つめる。

 彼の声と心臓の音以外、何も聞こえなくなってしまったようだった。

 「君が自分のことをそんな風にしか思えないのは、ずっとそう言われてきたからだろう?それは分かってる。けど俺はそれがどうしても許せない。君はそんなんじゃないのに、君みたいな素敵な人はこの世を探したって他にいないのに、それが正しく評価されないどころか、不当な扱いを受けているのが悔しい」

 眉をひそめる彼は今にも泣きそうで、胸がきゅぅと苦しくなる。

 「でも、周りが理解出来ないとしても、君自身でさえも自分のことを素敵だと思えなくても、それでもいい。俺だけが分かっていればいい。俺だけが君の良いところをたくさん知っている。君が自分を大事に出来なくても、その分俺が大事にすればいい」

 「⋯⋯⋯」

 「⋯だから、理解できなくてもいいから、俺が君を大事に思っていることだけは信じてほしい。俺の事を大事に思ってくれているなら、その俺が大事にしている君の事を、もうこれ以上傷付けないでくれ」

 そのまま、ぎゅう、と力強い腕に包まれる。

 涙まじりの優しく深い声が、ファルーの身体に染み込むようだった。

 奥底から何かが込み上げる感覚に、熱く息を吐き出す。

 おそるおそる背中に腕を回すと、さらに強く抱き締めてくれた。

 「⋯っ⋯」

 ――ルアンは本当に自分のことを大切に思ってくれているんだ。

 そう信じてしまうほど、彼のこの腕の中は心地良かった。

 ――彼にこうしてもらうために、今日まで頑張って生きてきた気がする。

 そんな事を思ってしまうくらい、胸がいっぱいになった。

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