第3話 ささやかな贈り物


 文字はたくさん書いて練習した方が早く習得出来るだろうし、今後も使えるだろうと思って、ファルーは街でノートを購入した。

 住む場所と食事をもらえてるだけで充分だろうという父の考えから給料はもらえないのだが、屋敷や畑を歩いているとたまにお金が落ちているので、見つけては拾って集めていた。

 生活に必要な物以外で、自分のためにお金を使ったのは初めてかもしれない。

 ほくほくと満たされた気持ちとノートを胸に抱えながら歩くのは、とても幸せだった。

 

 暗い小屋の中で月明かりを頼りにファルーは毎日、貰ったペンを握りしめて文字の練習をした。

 楽しくてスルスルと頭に入り、あっという間に習得してしまった。

 初めて教えてもらってから3日後には完璧に読み書きが出来るようになったファルーを見て、ルアンは驚いていた。

 「え?もう全部覚えたの!?」

 「覚えられた⋯はずです!」

 「凄すぎる⋯!君は頭が良いんだね。でもそれだけじゃなくてこんなたくさん練習して⋯努力も出来るなんて素晴らしいよ」

 ルアンは恥ずかしくなるくらいべた褒めしてくれた。

 嬉しいけどくすぐったくて、身体が小さくなってしまいそうだった。

 「ルアンさんの教え方が上手だからですよ」

 「いや違う、ファルーが賢いからだよ」

 「そんなこと言ってくれるのはルアンさんだけです⋯。僕はずっと頭が悪いし物覚えも悪いしで、怒鳴られた事しかないので⋯」

 「それこそ教え方が悪いんだよ。君は本当に頭が良い。お世辞なんかじゃないよ」

 「ありがとう、ございます⋯」

 ルアンはいつも大袈裟なほど褒めてくれる。

 周りの人達と反応が違いすぎて戸惑うし、ファルー本人も、ルアンが本当にそう思っていると信じてはいなかった。

 しかし、嘘でも嬉しい。彼に褒めてもらうのが大好きだ。

 「じゃあ次は計算とか出来た方が便利だろうし、日常に役立ちそうなものから勉強しようか」

 「はい、楽しみです」

 また新たな知識が増えることにワクワクする。

 ルアンに感謝の気持ちを込めて微笑みかけると、彼は少しだけ目を見開いてから優しく綻ばせた。

 「⋯君は本当にいい子だね」

 「?」

 「⋯⋯⋯君みたいな子だったら⋯のにな」

 「⋯ん?」

 彼は小さく何かを言ったが、上手く聞き取れなかった。

 もう一度言ってもらいたかったが、彼は首を横に振った。

 「なんでもない」

 そう言いながら立ち上がる彼の顔を見ると、どこか憂いを帯びているように感じた。

 余計に何を言ったのか気になってしまった――。

 

 「じゃあまた明日ね。おやすみ」

 「はい、おやすみなさい」

 ルアンはファルーの頭をぽんぽんと軽く撫でて、帰っていった。

 最近撫でてくれることが多くなって、それに伴って、構えるように目を瞑ってしまうことも減っていった。

 撫でられる感覚や嬉しさにはまだまだ慣れないが、少しだけ警戒心を解くことが出来るようになったのは、良い進歩だと思う。

 「⋯⋯」

 今日も撫でられたところに自分の手をあてる。

 彼は本当に優しい。

 触り方も、声も、心も、何もかも⋯。

 ファルーの心と身体は、自分を守るために固くなっていた。

 そんなガチガチの自分自身は、彼の優しさに触れる度に、優しく解けていくような気がした。





 それからもルアンは色々なことを教えて、ファルーに勉強させてくれた。

 相変わらずお礼は歌がいいと言われるので歌うのだが、毎回ルアンはとても幸せそうに聞いてくれた。

 ファルーが他に歌える曲は、なんと全て彼も知っていたのだ。一曲だけでも驚きなのに全てだなんて⋯、と今でも信じられない。 

 しかし、その理由はまだ分からないままだ。

 ルアンがファルーの歌を聞いて涙を流したのはあの日だけだった。

 しかし、彼自身自覚しているのかどうかは分からないが、幸せそうながらも、どこか切なげに表情を歪ませる事が、ファルーは気になっていた。

 ただ感動しているだけ、などとは言い難い程の苦しげな顔をする理由が気になる。

 自分がどうにかしてあげられるならしてあげたかったが、何をすればいいか、いくら考えても思いつかなかった。

 歌を聞くのを辞めるのが一番では⋯と思ったが、ルアンは必死に頼んでくるので、それも断れなかった。

 

 そこで、本当に他にも自分が出来るお礼がないかと考えた時に、思いついたのは野菜だった。

 初めて会った時に野菜を育てていると話したら、食べたいと言ってくれていたはずだ。

 社交辞令的かもしれないし、本当のところはどうか分からなかった。しかし、ひとまず持って行って、食べるか聞いてみたらいいかと思い、次に森に行く時に持っていくことを決めた。


 

 「どれがいいかなぁ⋯」

 畑では様々な野菜を育てていて、どれもきっと美味しいはずだが⋯食べやすさ的にもトマトが一番だろう。

 ミニトマトにしようと決めて、じっくりとどれを摘むか吟味する。

 実はファルーは、自分で育てた野菜を食べたことがなかった。

 もちろん食べていいのならそうしたかったのだが、お前に食べさせるにはもったいないと許されなかった。

 ちゃんとした知識も持っていないので、どういう見た目をしていたら美味しいのかは正直分からない。

 なので勘で選ぶしかなかった。

 身がぷっくりとしていて、ツヤがあって、根元まで綺麗な真っ赤のものを摘み取っていく。

 五つほど選ぶと、周りを見渡して誰も居ないことを確認してから、こっそりとポケットに入れた。

 誰かのためにこんな事をするのは初めてで、ファルーはドキドキしながらも同時にワクワクしていた。

 「⋯喜んでくれたらいいな」

 きっとミニトマトなんて食べ慣れているだろうし、ファルーにとっては食べたくて仕方がないものでも、彼にとっては何も特別な事なんてないだろう。

 だから⋯ちょっとしたプレゼントのつもりだが、彼はプレゼントとすら認識しないかもしれない。

 でも、もしそうだとしても文句は無い。

 それでもいいから、少しでも嬉しく思ってくれる事を、願わずにはいられなかった。



 今日もルアンは森へやって来て、いつも通り勉強を教えてくれた。

 相変わらず勉強は楽しくて、夢中になっているとあっという間に終わってしまう。

 いつも終わるのが寂しくて仕方がないけど、今日は渡したいものがあったから、いつもより名残惜しさが少なかった。

 「⋯うん、この辺りでいいか。お疲れ様」

 「ありがとうございました。⋯⋯あの、ルアンさん」

 「ん?」

 心臓がうるさく動いているのを感じながら、ファルーは慎重に、ポケットからミニトマトを取り出した。

 「実は⋯僕が育てている野菜を持ってきたんです」

 手のひらに乗せて見せると、ルアンは目を見開いた。

 「食べてみたいって言ってくれてたなと思って⋯。良かったら、どうですか⋯?」

 ルアンはじっと、ファルーの手の上にあるミニトマトを見つめている。

 何も言わずそうしているので、ファルーは段々不安になっていった。

 「⋯あっ、すみませんっ!要らなかったらいいんです、あの、ほんとにっ」

 食べたいと言ってくれたのは、やっぱりただの社交辞令だったのだろう。

 わざわざ自分なんかが作ったミニトマトなんて食べたくないだろうし、食べるとしてももっと手の込んだ高価なものを選ぶはずだ。

 真に受けて持ってきて、あまつさえ喜んでほしいと思ってしまった自分が恥ずかしくて、今すぐここから走り去りたかった。

 「あ、ご、ごめんなさい⋯!気にしないでくださいっ」

 ファルーはミニトマトを慌ててポケットに戻そうとすると、唐突にガシッと手を掴まれた。

 その力強さに驚き固まる。

 「⋯ごめん、感動してしまって。食べてもいい?」

 「えっ?」

 ルアンはファルーの手のひらからひょいとミニトマトを一つ摘むと、立ち上がって湖の近くにしゃがんだ。

 「この湖の水は飲めるよね?」

 「あ⋯飲め⋯ます」

 そう答えるとルアンはミニトマトを湖の水で洗ってから、「いただきます」と言って自身の口の中に入れた。

 いらないのかと思いきや食べていて、どういう事なのかと思考が上手く追いつかない。

 ――感動してだなんて言ってくれたけど、⋯やっぱり無理させたかも。

 それなら申し訳なくて堪らないが、今はモグモグと口を動かす彼の反応を見守った。

 ルアンはゆっくりと味わうように食べ、飲み込んだ。

 

 「⋯⋯美味い」

 

 溢れるようにそう言われ、ファルーは目を見開いた。

 「ほ、ほんとですか⋯!?」

 「本当に美味い。なんでこんなに甘いの?ジューシーだし皮まで食べやすい。野菜というか果物みたいだ。びっくりした」

 ルアンは声のトーンを上げて饒舌に感想を教えてくれた。美味しいと思ってくれているのが伝わってきて、ファルーは嬉しくてその場で飛び跳ねそうだった。

 「冗談抜きで、今まで食べたトマトの中で一番美味しいよ」

 「そんなにも?すごい⋯!」

 「もう一つ食べていい?」

 「もちろんです!全部食べてください!」

 全て差し出すと、ルアンは嬉しそうに笑顔を見せた。

 また一つ口に運ぶと、目を閉じて堪らなさそうな顔で美味しいと言っている。

 「最高だ。元々トマト好きだったけど、もっと好きになった」

 「そんなにも言ってくれるなんて、思ってもなかったです」

 自分が作ったものでここまで喜んでもらえるなんて想像もしていなかった。幸せで胸がいっぱいになる。

 するとルアンは一つ、ファルーに差し出してきた。

 「一緒に食べよう。⋯まあ君は食べ慣れているだろうけどね」

 ふふ、と笑うルアンに、ファルーは思わず微笑んでいた表情が固まる。

 ――しかしすぐに解いて、笑顔でルアンにミニトマトを押し返した。

 「⋯僕は大丈夫です。これはルアンさんのためのものなので」

 自分が食べるという発想がなく一瞬驚いてしまった。

 食べ慣れるどころか食べたことがないので、許されるのならもちろん食べたい。

 だがそれより、こんなに喜んでくれる彼に食べられた方が、トマト達も幸せだと思った。

 ルアンはなんだか納得のいかなさそうな顔をしていたが、ファルーは笑顔で続きを食べるよう促した。




 それからファルーはたまにルアンに野菜を持っていくようになった。

 毎回ルアンは大袈裟なほど喜んで食べてくれるので、ファルーはその姿を見るのも大きな楽しみの一つになった。

 「今日のも本当に美味しい」

 「ふふ、良かったです」

 「君の野菜は今まで食べた野菜の中で一番美味しいよ」

 「そんなに⋯?」

 きっとルアンは普段からもっと手の込んだ高価な野菜を食べているだろう。

 それなのにそう言ってくれるなんて、嬉しすぎてどう表現したらいいのか分からない。

 暑い日も寒い日も、たった一人で野菜を作るのは本当に大変だが、今までの苦労が全て報われた気がした。

 「事実だから。君も一番美味しいと思ってるでしょ?」

 そう尋ねられると、ファルーは眉を下げながら笑うしかなかった。

 

 「僕は⋯食べたことがなくて⋯」

 

 「⋯⋯え?」

 食べるために口を開いていたルアンは動きを止めた。

 「食べたことがない?」

 「はい」

 「アレルギーで食べられないとか?」

 「いえ。そうではなくて⋯父に僕は食べるなと言われているんです。なので食べられません」

 正直に伝えると、ルアンは眉をしかめた。

 「ん?君がこの野菜を作ってて、そしてその野菜を食べたいと思ってる⋯んだよね?」

 「はい」

 「それがなぜ食べては駄目だと言われるの?君にも食べる権利がある」

 「父はそういう考えなんです。僕にはもったいないからって⋯でも、実際そうです。僕が食べなくても何も困らない」

 「困る困らないとかではなく、君の食べたいという意見は尊重されるべきだ」

 「僕の、意見⋯」

 ルアンはなんだか目が鋭く、いつもより語気が強い。

 怒ってはいないはずなのにそう見えるのが、なぜだか分からなくて、ファルーは密かに困惑していた。

 自分の意見なんてないようなものだった。

 だってそんなのを持ったところで、あの大人達の前では無意味だから。

 ただ虚しくなるだけで、どれだけ抵抗しようが改善することがないのはもう分かりきっている。

 「⋯⋯」

 意見が尊重されるのは、普通なら当たり前のことだ。普通なら。

 ――しかしファルーは普通では無い。

 しょうがないと頑張って言い聞かせていたのを、それはおかしいと改めて突きつけられたようで、悲しくなった。

 油断すると涙や弱音のような不必要なものが出てしまいそうで、ファルーは深く息を吐いて黙り込む。

 それを見たルアンは、先ほどとは違いいつもの優しい雰囲気で口を開いた。

 「⋯ごめん、君の事情も知らないで」

 「⋯⋯いえ、すみません」

 ルアンは何も悪くない。なのに謝らせてしまって、申し訳なさでいっぱいになった。

 「⋯そ、そうだ、ルアンさん。この前勉強した所で聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

 もうこの話は終わろうという意味も込めて、ファルーは笑顔を貼り付けた。




 今日はどの野菜を持っていこうかな、とファルーは口角を上げながら畑を歩いていた。

 「あ、トウモロコシがいいかも」

 トウモロコシの畑の前に行って立つ。黄金色に熟した実がずっしりと膨らみ、穂先にはふさふさとした絹糸が垂れている。

 手を伸ばし、葉をかき分けながら、しっかりと膨らんだトウモロコシを探す。

 両手で茎を握り、ひねるように力を加えると、ポキッという軽快な音とともに、もぎ取れた。

 「よしっ」

 ずっしりと重みのあるトウモロコシを抱えると、硬く整った粒がぎっしり詰まっているのがわかる。

 皮を少し剥くと、みずみずしい甘い香りが立ちのぼった。

 「⋯美味しそう」

 気を抜いたらかぶりついてしまいそうなのを、なんとか我慢する。

 今日も美味しいと言ってくれるであろうルアンを思い浮かべたら、余裕で耐えることが出来た。

 「ふふっ」

 いつもカッコよくてクールな彼だが、ファルーが持ってきた野菜を食べている時は少し子どもっぽくなるのが可愛くて好きだった。

 どこか落ち着いているというか、少し影のある目をしている彼だが、野菜を食べている時とファルーの歌を聴いている時は特にキラキラした顔を見せてくれるのだ。

 本人に言ったら嫌がられそうだしきっと言う機会はないだろうが、こっそりと見つめては癒されていた。

 また早く見たいな、と思いながら懐にしまう。

 

 ――浮かれていて、つい気を抜いてしまっていたようで。


 周囲に人がいるのか確認するのを忘れていた。

 背後からのざっという土を踏む足音に、一気に背筋が伸びる。

 太陽の如くぽかぽかしていた心に、突然雷が落ちたかのような衝撃だった。

 

 「おい、何をしてる」

 

 ひゅ、と小さく息を吸い込む。

 冷たい身体は勝手に小刻みに震え出して止まらない。

 「⋯あ⋯⋯」

 近付いてきた父は、乱暴にファルーの上着のチャックを下ろし、トウモロコシを引っ張り出した。

 「これはなんだ?」

 「⋯え、と⋯その⋯収穫、しようかと」

 「収穫?一つだけ?しかも懐に入れて?」

 「⋯⋯」

 何か良い言い訳が思い付いて逃れられないかと頭を動かすが、父を目の前にすると恐怖で支配されて真っ白になった。

 「しかも、初めてじゃないだろ?」

 「!」

 心臓が飛び出るかと思った。

 上手く息が吸えなくて呼吸が荒くなる。

 「お前が何回も盗んでるのは知ってるんだよ。影でこっそり食ってるんだろ?」

 「っ⋯」

 「野菜は大切な商品なんだから、お前にはもったいないから食うなって言ったよな?忘れたのか?」

 「⋯い、いえっ、覚えて、ます⋯」

 「だよなぁ?なのになんだこれは?」

 「もっ、申し訳ございませ、⋯⋯うッ!」

 

 思い切り身体を蹴られ、後ろに倒れ込む。

 

 土が舞い上がって顔にかかり、ファルーは咳き込んだ。

 「飯はちゃんと与えてやってるだろ?なのにまだ欲しがるなんて贅沢なんだよ!」

 「すみませっ⋯!う゛、っ⋯!」

 顔を上げようとしたら腹を蹴られ、思わず庇うように丸める。

 それでも父は蹴るのを止めず、脛の辺りに大きな痛みが走って涙が滲んだ。

 「罰として、お前はしばらく食事抜きだ」

 「っ⋯!」

 「次に野菜を食べたら容赦しない。分かったな」

 そう吐き捨てるように言うと、父は畑を出ていった。

 「⋯⋯ぅ⋯」

 ヨロヨロと身体をふらつかせながら、ゆっくりと上体を起こす。

 ルアンにあげる予定だったトウモロコシが放り投げられているのを見つけ、まだじんじん広がる痛みを感じながら近付いていく。

 「⋯⋯ぼろぼろ」

 いつの間にか踏んでしまったようで、粒は潰れて土まみれになっていた。これはもう食べられない。

 「⋯もったいない事してるのは誰だよ⋯」

 素敵な人に美味しく食べてもらえるはずだったのに、こうなってしまったのが可哀想で――ファルーの心は潰れるように痛んだ。

 「⋯⋯もう野菜も持っていけないのか⋯」

 この事が一番悲しかった。

 自信作をルアンに食べてもらえないのも、楽しみにしてくれていたのを裏切るのも、あんなに嬉しそうに食べてくれる彼のあの顔が見れないのも――残念に思う部分は多すぎた。

 

 「⋯っ⋯」

 だんだんと視界が潤み、溢れ出たそれがトウモロコシの上に降りかかる。

 

 ――どうして自分はこんなんなんだろう。

 

 もっと自分がちゃんとしていれば、愛されるような何かを持っていれば、今とは違ったのだろうか。

 せっかく見つけた貴重な存在である彼を⋯誰よりも大切な人を、少しも喜ばせることすら出来ないとは、自分はなんて情けないのだろう。

 彼への申し訳なさと自己嫌悪が募り、心がぐちゃぐちゃになった。

 「⋯⋯今日は家にいよう」

 ただでさえ醜い顔が涙で特にひどくなっているだろうし、こんなボロボロな状態で彼に会いに行くべきではないと思った。

 会ったらもう野菜をあげられない事も伝えなければいけないが、まだ泣いたりせず冷静に話せる自信が無い。

 それどころか彼の優しさに甘えてしまいそうだった。

 そんな迷惑を掛ける訳にはいかない。

 

 ルアンに出逢ってからはどんなに疲れていても毎日森へ行っていたが、初めて行かない選択をしたことに、どこか落ち着かない気持ちもあった。

 「⋯ルアンさんも今日は来てないといいな」

 ファルーに出来るのは、そう願うことだけだった。





 気付いたら眠っていて、起きたら気持ちは少し落ち着いていた。

 今日はちゃんと森へ行って、ルアンに野菜の件を謝ろうと思った。

 その前にきちんと仕事をしなければならないので、今日やるべき事を確認したファルーは早速動いていた。

 しかし、何度も腹の虫がファルーを邪魔してきた。

 

 「⋯はぁ⋯」

 ぐぅーと鳴るお腹をファルーは押さえる。

 父の言っていた通り本当に昨日のご飯は届かなかった。

 それ故に何度もお腹が鳴ってしまい、その度に集中力が途切れてしまう。

 心なしかいまいち調子も上がらず、いつもより動きが鈍い気もする。

 だからといってのんびりしていたら間に合わない。

 無理やりエネルギーを絞り出すように必死で作業をこなしていった。


  

 「⋯⋯終わった⋯」

 

 結局、思うように動けなくて時間が掛かってしまった。

 終わったと思った途端、気を張っていたのがなくなり、どっと疲れが押し寄せてくる。

 「身体が重い⋯」

 頭と全身がフラフラして、もはや立っているのもしんどい。

 なんとか小屋に戻って作業着から着替えると、ついなだれ込むように寝床に転がった。

 もう外はすっかり暗くなってしまっているが、今からでも森に行けばまだ彼には会えるだろう。

 「⋯会いたいなぁ⋯⋯」

 気付いたら漏れるように言葉に出ていた。

 彼に会うとまるで異世界に飛んだかのように、楽しくて幸せな気持ちになれた。

 日々の辛さなんて全て吹き飛ぶし、この人に会うためならどんなに苦しくても耐えられる。

 そのくらい、いつの間にかルアンの存在はファルーの中で大きくなっていた。

 

 ――会いたい。彼に会うために毎日頑張っているのだから。

 

 ⋯そう思っていたはずなのに、気付けばもう朝になっていた。

 「⋯⋯え?!?」

 ファルーは飛び起きた。

 慌てて外に出ると外は夜が明けかけていて、畑に置いてある時計には朝五時を示していた。

 「寝ちゃったんだ⋯!」

 あんな時間から知らぬ間にこんなに寝てしまうなんて初めてだった。

 いくら空腹で疲れていたとはいえここまでだなんて。

 二日も森に行かなかったらルアンも変に思うかもしれない。

 彼は優しいからきっと心配してくれているだろう。

 「今日こそ行かなきゃ⋯」

 ファルーはよろける身体を気合いで支えながら、仕事の準備をした。

 仕事はなんとか終えられたが、その日も小屋に帰った途端気絶するように眠ってしまい、森に行くことは出来なかった。


  

 そうして次の日こそ行こうと思い続け、結局気付けば四日が経っていた。

 食事がないせいでそもそものエネルギー補給が出来ないからか、残念ながらどれだけ寝ても体力は回復しないようだ。

 調子は日に日に悪化していき、身体がフラフラするどころか、あまりの空腹に吐き気さえ催し、頭も回らなくて意識が朦朧とする。

 仕事をしながら目の前の野菜に何度も手を伸ばそうとしたが、その度に父の怒った顔が過ぎり、摘み取る事は出来なかった。

 野菜を食べたのがバレたら何をされるか分からない。

 きっと酷い暴力だろうが、こんな弱った状態で受けたら今度は本当に死んでしまうかもしれないと思った。

 そうしたら二度と森に行くこともルアンに会うことも出来なくなってしまう。

 それだけは何がなんでも避けなければいけない。

 「⋯ルアンさん⋯⋯」

 ファルーの心身は共に限界が来ていると本能的に分かっていた。

 このままだと父に何かされなくても、そのまま衰弱して自然と死ぬかもしれないと思った。

 

 ――どうせ死ぬなら、こんな所で仕事なんかしていないでルアンに会ってから死にたい。

 

 そう思ったらいても立ってもいられなくて、まだ少し仕事が残っていたが全部放って、作業着も着たままファルーは森へと走っていった。





 森のいつもの場所に到着すると、ルアンはまだ来ていなかった。

 とりあえず石に腰掛けて、彼が来るのを待つ。

 四日も行かなかったから、ルアンももう来るのをやめていたらどうしようかと不安になった。

 それをまだ時間が早いから、こんな早く来ることは今までもほぼ無かったから、となんとか自分を落ち着かせる為に様々な理由を考えた。

 ――こんなに心配になるなら這ってでも来たら良かったのに、何故そうしなかったのだろう。

 もっと強ければ、忍耐力があれば⋯とファルーは自分自身を責め続けた。

 

 そうこうしているうちに、辺りはだんだん暗くなってゆく。

 そろそろ来てもいい時間帯だったが、ルアンの姿は未だ現れなかった。

 

 (⋯本当に、来ないかも⋯)

 

 やっぱりファルーが森に来なくなったから、彼も通うのを辞めてしまったのかもしれない。

 辞めただけならまだいいが、怒らせてしまった可能性を思いつくとファルーは息が詰まった。

 せっかくファルーのために忙しい仕事の合間を縫って来てくれていたのに、それだけでなく勉強まで教えてくれていたのに、そんな好意を無下にされたと思って怒るのも無理は無いだろう。

 本当に申し訳なくて、なんとお詫びをしたらいいのかもう分からなかった。

 「⋯ごめんなさい⋯⋯」

 泣きたいのはルアンで、自分が泣いていい立場では無いと分かっていた。

 それでも勝手に涙が溢れて止まらなくなった。

 「⋯⋯帰ろう」

 もし彼が来たとしても、こんな状態で会ってはいけない。

 涙を止めて精一杯謝らなければいけないのに、今のファルーにはそれが出来る余裕がなかった。

 ⋯まあ、そんな心配せずとも、もう会えないかもしれないけれども。

 

 ――今さらだけど、彼と自分は住む世界が違う。

 

 忙しくきらびやかな生活を送っている彼と、日々生きていくだけでも精一杯な自分が、会う約束をしたり何かを教えてもらったりするとは、なんて贅沢な事をしてもらっていたのだろうと思う。

 ふらつく身体が倒れないようにだけ気をつけながら、一歩一歩を足を引き摺るように歩く。

 なんだか寒くてたまらない。

 まだ冬には早いはずなのに、最近の夜はこんなに寒かっただろうか。

 腕を擦ろうにも震えるだけで持ち上がらない。

 「⋯⋯あっ、!」

 足が草に絡まり、前に倒れ込んだ。

 上手く受身を取る力ももう無くて、思い切り全身を地面にぶつける。

 「⋯ぅ⋯」

 痛いはずだけど、なんだかよく分からなかった。

 とにかく全てが重い。

 目もぼやけて見えないし、瞼が勝手に下がってくる。

 気付けば、ファルーは意識を失っていた。




 

 「ファルー⋯!」

 

 大きな声に、ファルーはゆっくりと目を開いた。

 「⋯⋯?」

 「!起きた⋯っ!良かった⋯!!」

 ぎゅう、と暖かい温もりに包まれる。

 しばらくして離れていったと思ったら、霞む視界に誰かの顔が入ってくる。

 (⋯綺麗な顔⋯⋯)

 そんな感想を浮かべながらぼーっとしていると、目の前の男は必死な顔でファルーに話しかけてきた。

 「大丈夫?⋯いや、大丈夫ではないのは分かってるんだけどね」

 「⋯?」

 「遅くなってごめん。でも本当に来てよかった⋯」

 男はそう言ってもう一度ファルーを抱きしめる。

 なんだかすごく安心する。

 「ファルー、とりあえず水を飲んで。飲める?」

 男の持っている物なのであろうボトルの口を唇に当てられたので、自然と口を開く。

 するとゆっくりと冷たい水が流れ込んできて、乾いていた口内が潤うのを感じた。

 「⋯⋯おいしい」

 出した声は掠れていたが、目の前の男はそれを聞いて安心するかのように微笑んだ。

 

 この優しい笑顔は⋯⋯そう、ファルーの大好きなあの人。ルアンさんに似ている。

 

 「!?⋯⋯ルアンさんっ!?」

 似ているのではない、ルアン本人だ!ファルーは慌てて身体を起こそうとするが、お腹に力が入らなくて起き上がれなかった。

 (なんでルアンさんの膝の上に⋯!?)

 とりあえずここから降りたいと、横抱きにされている身体を捻る。

 「わっ、落ちるよ⋯!」

 じっとして、と覆い被さるように抱きしめられ、ファルーの心臓は飛び出しそうになる。

 「お、下ろしてください⋯!お願いします⋯!」

 こんなの色々と耐えられそうにないし、なにより落ち着かない。

 「分かった!分かったから、」

 ルアンはファルーを両手で持ち上げると、隣にあったいつも座っている石の上に降ろしてくれた。

 するとちゃんと座ったはずが、ぐらりと身体が傾く。

 「あっ、」

 「!」

 咄嗟にルアンはファルーの肩を掴んで、倒れるのを止めてくれた。

 「す、すみません⋯!」

 自ら降ろしてほしいと頼んだのに情けない。

 それなのにルアンは優しく大丈夫だよと言ってくれた。

 「あ、あの⋯、何日も森に来れなくてすみませんでした⋯」

 何から話せばいいか分からなかったが、まずは謝らなければ、と頭を下げる。

 するとルアンはすぐにファルーの上体を起こした。

 「謝らないで。そもそもちゃんと約束していたわけでもないんだし、大丈夫だよ。⋯何か事情があったんでしょう?」

 「⋯⋯」

 ルアンに話すべきか迷った。彼に余計な心配を掛けたくない。

 「⋯⋯僕は大丈夫ですよ」

 「そんなわけない」

 ルアンはファルーにそっと添えていた手に力を込めた。

 穏やかな彼にしては強い語気に、ファルーは少し身体を震わせた。

 「こんなにボロボロになって⋯死にかけていたんだよ。今日会えなければどうなっていたと⋯」

 キリッとした眉は吊り上がり、顔の表情も硬い。

 ルアンは明らかに怒っていた。

 「⋯ご、ごめんなさい⋯」

 正直なぜ彼が怒っているのかよく分からなかったが、ファルーが原因な事は間違いないのでとりあえず謝る。

 早くいつもの彼に戻ってほしくて震える瞳で見つめると、彼ははっとして表情を緩めた。

 「⋯ごめん。君に怒っているわけではないよ。自分に怒ってるんだ」

 「⋯なんでですか?」

 「君をこんなになるまで放っておいただなんて許せないだろう?ずっと心配はしてたけど⋯探しに行くとか他に出来ることはあったかもしれないのにって」

 「⋯そんな⋯」

 いくらなんでもそこまでしてもらう訳にいかない。というより、そんな事を考えてくれていたルアンに対し、嬉しさを通り越して驚いた。

 「何があったか、教えてくれる?」

 ルアンはファルーの手を優しく握り直す。

 乞うような視線とそのぬくもりに促されるように、口を開いた。

 

 「⋯罰としてここ数日、食事を抜きにされていました。でも、それだけです」

 

 だから大丈夫、と言いたくてなんとか口角を持ち上げると、ルアンは今にも泣きそうな、どうしようもなく悲しい表情をしていた。

 そんな彼の顔を見ていられなくて、ファルーは視線を伏せた。

 「⋯⋯罰って?」

 「⋯⋯その⋯」

 これを言うと確実に彼は気にしてしまう。どうしようか迷っていると――

 「⋯もしかして、野菜?」

 「⋯、」

 「⋯⋯そうなんだね」

 ルアンの深く悲しみが滲むような声に、ファルーは潰れそうな思いになった。

 「それは本当に、ごめ⋯」

 「っち、違うんです!野菜は僕が勝手にあなたにあげたいと思って持ってきていただけなんです!」

 謝るルアンの言葉を遮った。

 自分で好きでやっていただけで、彼に謝られる必要は全くない。

 だから謝罪の言葉なんて聞きたくなかった。

 「謝らないでください。あなたは悪くないんです。悪いのは僕なんです」

 「違う、君は悪くないだろう?」

 「いいえ、父にも誰にも気に入られない僕が悪いんです。僕がもっといい子だったら、もっと優秀だったら、もっと可愛げがあったら、彼らは僕を受け入れてくれて良くしてくれてたかもしれない。でも僕はそんな事をしてもらえるような人間になれなかった。彼らに気に入ってもらえるようなものを何も持ってなかった」

 自然と零れる涙をそのままに、必死で言葉を紡いだ。

 「そんな僕なのに、ルアンさんはとても優しくしてくれた。勉強まで教えてくれた。本当に嬉しくて、あなたと過ごす時間はとっても幸せで、どうしてもこの気持ちにお礼がしたかったんです。だから野菜を食べさせてあげたかったんです。⋯⋯でも、もうそれすら出来なくなってしまった。野菜すらあげられなくてごめんなさい。それすらも出来ない僕でごめんなさい⋯」

 大切な人に何も出来ない自分が情けなくて仕方がなかった。

 もう消えてしまいたいとさえ思った。

 「ごめんなさ⋯」

 

 「もう謝らないでくれ⋯!」

 

 腕を引かれたと思ったら、ぎゅっとあたたかいぬくもりに包まれる。

 何が起こったのか分からなかったが、しばらくしてルアンに抱きしめられている事に気が付いた。

 「!?ルアンさん⋯!?」

 「⋯気付いてあげられなくて、ごめん⋯」

 ルアンの涙まじりの声に、ファルーは目を見開く。

 「君が大変な環境にいる事には薄々気付いていたんだ。それなのに、自分には何も出来ないと思い込んでいた⋯。何も出来ないとしても、無理矢理にでも何かすべきだった。本当にごめん」

 「⋯⋯⋯」

 もしかして泣いているのだろうか。こんな自分なんかのために⋯?

 ひくひくと小さく動く背中に、ファルーは戸惑いながらもそっと腕を回した。

 「⋯ルアンさんは十分僕のために色々してくれています。本当に、あなたが謝る必要はないんですよ」

 彼はどこまで優しいのだろうか。

 身体を離して彼の顔を見ると、とても苦しそうな顔をしていた。

 自分のためにこんな表情をしてくれる人が現れるだなんて、思ってもみなかった。

 「僕が悪いんです。僕が無能だから、邪魔だから、こんな目に遭うのは当然なんです……っ」

 ファルーはルアンに向き合うと頭を下げた。

 「⋯あなたにお礼の一つも出来ない僕を、どうか許してください」

 惨めで、情けなくて、顔を上げられなくなった。

 すると上から、低く這うような声が降ってきた。

 

 「⋯⋯そんなの、間違ってる」

 

 「⋯え?」

 「君が無能だから? 何の価値もないから? ふざけるな!」

 ルアンはファルーの肩を強く掴んで顔を上げさせると、まっすぐに目を見た。

 

 「そんな理由で虐げられるのが“当然”だなんて⋯、そんなのおかしいだろ!」

 

 「⋯っ!」

 おかしいだなんて、分かっていた。

 理不尽な環境も、可哀想な自分も、ただ認めたくなかった。

 だからといって何をしたって状況は変わらないことも、よく分かっていた。

 「⋯生きていくにはっ、仕方がなかったんです⋯!」

 ファルーは肩に置かれていたルアンの腕を振り払った。

 そのままの勢いで、口からはありのままの言葉が飛び出した。

 「間違ってたって、それをいくら変えようとしたって、どうしようもないんですよ⋯!あなたには当たり前のことが、僕には何も出来ない⋯それが僕の普通なんです。もし僕があなただったら⋯こんな⋯⋯」

 そこまで言ってやっと、頭が冷静になった。

 彼にこんなこと言うべきではないと頭では分かっていた。

 これはただの八つ当たりだ。

 

 「⋯あ、その、ごめんなさい⋯」

 

 こんな自分を心配して、涙まで流して怒ってくれた人に対して、なんという仕打ちをしてしまったのだろう。

 そりゃ父に可愛がられないのも当然だ。ルアンももう呆れただろう。

 「⋯すみません、こんな、」

 もうどうしたらいいのか分からなかった。

 取り返しのつかない事をした。

 ――謝ったけど、謝って済む話でもない。

 しかし、他に出来ることも何もない。

 「⋯も、もう、二度とあなたの目の前には現れません。だから⋯っ!」

 立ち上がろうとしたファルーの手首を、ルアンはガシッと掴んだ。

 

 「⋯⋯俺だって、君の思うような自由な身ではないよ」

 

 「⋯えっ⋯?」

 「とはいえ、君の立場よりはマシだと思うけど。⋯それでも、俺の少し話を聞いてくれる?」

 ファルーの選択肢は、頷く他になかった。


 ――ルアンの話はあまりにも衝撃的すぎた。

 

 「結論から言うと⋯⋯俺はこの国の次期王なんだ」

 「っ!?」

 「⋯本名はルアン二ラン。君には嘘をついていた。ごめん」

 謝られているが、正直そんなことはどうでもいいくらい、ファルーは動揺していた。

 身なりや話しぶりからして身分の高い家の出身だとは分かっていたが、まさか王家の息子だとは。

 流石にそれは考えてもなかった。

 零れそうなほど目を見開くファルーを横目に、ルアンは静かに話した。

 「王族だからといって、好きに生きられるわけじゃない。毎日、何をするにも決まりがあって、城の外に出るのだって簡単じゃないんだ」

 森に来るのが大変そうなのは、見ていてよく分かっていた。

 彼は仕事が忙しくてと言っていたが、もっと難しい問題が色々あったのだろう。

 「食べるものも、着るものも、学ぶことも、全部決められている。誰と話し、誰と会うかまで、全部だ」

 「⋯⋯」

 彼もファルーと同じように自由なんてなかった。

 「王族だからって、いつも周りから『こうあるべきだ』って期待される。王の子だから失敗は許されないし、誰も本当の俺を見ようとはしないんだ」

 彼のどこか全てを諦めているような雰囲気が気になっていたが、こういう事だったのかと納得した。

 それはファルーの想像以上に重く苦しいものであった。

 「⋯何も知らないのに勝手なことを言ってごめんなさい」

 もし自分がルアンの立場だったら、と羨ましく思ってしまった事を心の底から後悔した。

 そんなファルーに、ルアンは優しく声を掛ける。

 「いや、隠していたから分からなくて当たり前だよ。君は何も気にしなくていい」

 「でも⋯」

 「それに、君がああいう気持ちになる事は十分理解出来る。俺だって君と立場が逆だったらそう思うだろう。だから本当に悪く思わないで」

 ルアンはそう言ってくれるが、ファルーの心は晴れないでいた。

 ファルーは暴力を受けたりぞんざいに扱われているとはいえ、仕事さえしていればそれ以外はわりと好きなように出来た。

 決して自由とは言えないが、重苦しい何かを背負わされているわけではない。

 

 「⋯なんで僕に、身分を明かそうと思ったんですか?」

 

 純粋に湧き出た疑問を投げかける。

 リスクもあるし、ここまで隠していたのだから、打ち明けるのはそれ相応の覚悟があってのことだろう。

 

 「⋯君はひとりじゃないって、伝えたかったからかな」

 

 「え⋯?」

 「誰かに弱音を吐いたら、『王族らしくない』って言われる。昔から裏切られることばっかで、信じられる人なんていなかった。一番の付き人にさえ心を開けていない。誰のことも信用出来ないし好きじゃない。

 ⋯そんな俺が唯一興味を持ったのが、君だ」

 「⋯!」

 「君は初めて会った時から、まっすぐで純粋で美しかった。キラキラしていて、こんな人間がいるのかと驚いた。まるで天使かと思った」

 ルアンは真剣な顔をして言葉を紡ぐ。

 こんな事は誰にも言われたことがなくて、どんな顔をして聞けばいいのか分からなかった。

 「特に、君の目が好きだ。この蒼い色が、宝石みたいで本当に美しいんだ」

 じっと覗き込むように見つめられて、顔が沸騰しそうなほど熱い。

 「初めて会ったあの日から、君のことが頭から離れなくなった。早くまた君に会いたいと思って日々を過ごしていたけど、なかなか時間が作れなくて、やっと行けて君と話をしていると――なんだか、君はふと消えてしまいそうだと思った」

 「⋯消え⋯?」

 「消えるというか、消されるというか⋯。こんな汚れた世界にこんな素敵な君が居られるのかと、心配になった。君は痩せてて細くて覇気が感じられないし、とても儚くて――。

 ⋯⋯だから、なんとか俺がこの世に繋ぎ止めておきたいと思って、睡眠時間を削ってでも森に行く時間を増やした」

 やはり無理をして来ていたのだ。

 ――というか、そんな風に見えていたのかと驚きに瞬きを繰り返す。

 「君を知っていく度に、大変な状況でもただ一人でめげずに、努力し続けている子だと分かった。そんな君に共感したし、尊敬した。自分も家の事に関して、嫌だからと逃げてないで向き合うべきだと思った」

 ルアンは改まるように、ファルーの目を見つめた。

 「俺の目を覚ましてくれて、ありがとう。君のおかげで変われたよ」

 「そ、そんな⋯僕はお礼を言われるような事なんてしてません。お礼を言うのは僕の方です」

 そう告げると、ルアンは少し困ったように笑った。

 「ふふ、君はそう言うと思ったよ。でも本当だから、聞いてほしかったんだ」

 もう一度ありがとうと言われながら頭を撫でられて、ファルーは心がくすぐったくて唇を噛んだ。

 

 「偽ったまま君と過ごすのを、もうやめたかったんだ。本来の自分として、君に向き合いたい。

 ⋯こんな俺でも今まで通り会ってくれる?」

 

 そんなの、いちいち確認する必要なんてないのに。

 「もちろんです。こちらこそ、改めてよろしくお願いします」

 そう言って笑いかけると、ファルーはルアンに優しく抱きしめられた。

 恐る恐る手を伸ばすと、程よく筋肉の付いた背中に回した。

 彼とのハグは本当に心が澄んでいくように感じる。なんだかもう溶けてしまいそうだ。


  

 「⋯⋯そういえば、ご飯の事なんだけど」

 「⋯?」

 しばらく目を閉じて彼のぬくもりに浸っていたのを、そのままの体勢で少し顔を傾ける。

 「これから毎日、ここに君のご飯を持ってくるよ」

 「!?!」

 ファルーは彼の肩を押してガバッと身体を離した。

 「え!?」

 驚きに目を見開くファルーに、ルアンは何が?というような表情で見つめ返している。

 「あ、それとも君の家に届けようか?」

 「な、何を言ってるんですか!?」

 そういう事では無い。ましてや家にだなんて、もし父にバレたらとんでもない事になってしまうだろう。

 「そんなのお願い出来るわけがありません⋯!僕は大丈夫ですから、」

 「餓死しかけていたのに大丈夫なわけがないだろう。食費を渡してもいいけれど買いに行くのも大変だし、しかし君がそれで素直に毎日買いに行って食べるとは思えない。どうせ毎日森で会うんだから、俺が持ってくるのが一番良くないか?」

 「良くないです⋯!!」

 ただでさえお礼が出来なくて悩んでいるのに、これ以上迷惑を掛けるなんて耐えられない。

 しかし、ルアンは一歩も引かなかった。

 「君が元気でいてくれないと俺が困るんだよ。さっきの話で分かってくれただろう?君のことが大切なんだ」

 「⋯っ⋯」

 なぜこの人は本当にこんな恥ずかしいことをサラッと言ってしまうのだろう。

 聞いているだけのファルーの方が照れて話せなくなってしまう。

 「⋯もしこの話を受け入れてくれないのなら、無理矢理君の家に届けるよ」

 「!」

 「父にも話をしようか。俺の名を出せば⋯」

 「っわ、分かりましたから⋯!!」

 もはや脅しのような提案に、ファルーは了承せざるを得なかった。

 そんな事をされたらややこしくなるのが目に見えていた。

 ルアンにも父にもなるべく迷惑を掛けたくない。

 するとルアンはニッコリと笑った。

 「ありがとう。では明日から二人分持ってくるから、一緒に食べようね」

 「すみません⋯ありがとうございます。よろしくお願いします」

 でも、手放しで喜んでいいのなら滅茶苦茶にありがたい話であった。

 あの空腹にもう耐えなくていいのかと思うと涙が出そうなくらい嬉しいし――それだけでなく、ルアンも共に食事をしてくれるだなんて。

 

 (⋯楽しみが増えた)

 

 ファルーの心はぽかぽかと輝いていた。

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