第2話 瘴気熱──神の理と人の理
王立魔導研究所の研究棟の夜は長い。
塔の上の一室に、薬草を煮詰める匂いと、魔導炉の低い唸りがこもっていた。
リオ=セガルドは一人、淡く光る魔力計をのぞき込みながら、細かな記録をつけていた。対象は、薬草棚の影に潜む小さな魔獣──
昼間は講義で魔導式の理論や治癒術の原理を学び、夜は実験室に籠もって薬草をすり潰し、数値を記録する。それが、彼の日常だった。
──日本の医療とは、何もかもが違う。治療は魔力で行い、病は「神の
「……またそんな地味な実験をしているのか」
背後から低い声がして、リオは肩を震わせた。
「ドラン医官。いえ、その……前回の結果を確かめたくて」
「誰もそんな微細な測定はしないぞ。魔力の揺らぎを一晩中観察とは、変人の所業だ」
「……ですよね」
思わず苦笑いしたリオに、ドランは一拍置いて口の端をわずかにゆるめた。
「だが、君らしい。地味な研究ほど、真実に近い」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、徹夜の疲れが少し和らいだ。無骨な言葉の奥に、わずかな優しさがにじんでいた。ああ、この人は見ていてくれる──そう思えただけで、胸が温かくなった。
そんなある日、ドランが静かに扉を開けて言った。
「リオ・セガルド。現場に出るぞ」
「……現場?」
「王都北部の貴族邸で原因不明の発熱が起きている。医官を派遣する。同行しろ」
突然の任務にリオは驚いたが、拒む理由はなかった。
翌日、王都郊外の屋敷に到着すると、すでに数人の医官が魔法陣を描いていた。患者は高熱にうなされる幼い少女だった。まだ十歳にも満たないだろう。小さな手が布団の上で震え、息をするたびに胸が苦しげに上下する。皮膚のあちこちに黒い斑点が浮かび上がっていた。血管のように走る暗い模様は、魔素の暴走によるものだという。床にはいくつもの護符が貼られ、空気には焦げたような金属臭──護符と魔法陣が、力任せに魔素を抑え込んだ痕跡。
医官のひとりが呟いた。
「
その言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。誰もが息を呑み、足を動かすことすらためらった。重苦しい沈黙が場を包んだ。
リオは呆然とその光景を見つめた。文献でしか知らなかった
ドラン医官が前に進み出る。
白衣の袖をまくり、少女の額に手をかざした。魔力陣が淡く光を帯び、室内の空気が震える。整えられた魔力の流れが少女の胸をなぞるように脈打ち、やがて荒かった呼吸が静まった。
リオは呆然とその光景を見つめた。見たこともない光だ。だが、確かに脈が整っていく。
「……すごい。魔力を調整して回復させるなんて」
「魔力の流れを整えれば、病も癒える」
「でも……根本は?」
「病は神の理の乱れだ。人が触れるものではない」
リオは息をのんだ。
彼の知る医学は、自然を観察し、理を探り、証拠によって立つ科学だった。たとえば感染症であれば、目に見えない敵──病原体と闘うものだ。原因を探し、予防し、繰り返さない仕組みを作る。
だがここでは、「神の理」が病因であり、人がそれを変えようとすること自体が禁忌なのだ。けれど、この国の医術は癒しと祈りに偏りすぎていて、原因を探る理性の居場所がどこにもない。
魔導医術の力を完全に否定する気にはなれなかった。即効性だけでいえば、前世の医療を凌駕していた。だけど、医学と魔導医術を合わせれば素晴らしいものができるだろうに、そう思わずにはいられなかった。
「……なるほど、これは確かに効く。でも」
リオの呟きは誰の耳にも届かなかった。夜が明ける前、少女は再び高熱を発し、魔力の暴走とともに息を引き取った。リオは震える手で、布の下から小瓶を取り出した。周囲の視線を気にしながら、患者の腕に針を刺し、わずかな血液を採取する。魔力を帯びて淡く光る液体が瓶の底に溜まっていく。
(原因を突き止めなければ……)
小さく呟き、震える手で瓶を懐に隠した。
整えるだけでは救えない──その現実が胸を突いた。
治療を終えた医官たちは同じ桶の水で手を洗い、護符を燃やすだけで作業を終える。リオはその様子に背筋が寒くなった。もしこれが感染する病なら、今のやり方では防げない。
治療のあと、リオは思い切ってドランに口を開いた。
「医官たちが……同じ桶の水で手を洗っていました。あれでは感染が……」
「ふむ」
ドランは眉をひそめ、周囲を一瞥した。
「だが、この話はここで言わないほうがいい。あとで研究室で話そう」
研究所に戻ると、ドランは机に肘をつき、静かに言った。
「お前の言う『感染』という概念……詳しく話してみろ」
リオは前世で学んだ微生物や抗生物質、免疫の仕組みをできる限りの言葉で説明した。ドランは黙って聞き、やがて深く息を吐いた。
「興味深い。だが……不用意に口にすれば、異端とみなされる。研究は許すが、私のもとでのみ行え。外には決して漏らすな」
「……はい」
そして、ドランはひとりの青年を呼び入れた。
「紹介しよう。魔導機構師のエイリスだ。彼の研究はお前の役に立つかもしれない。変人だが」
銀と金の混ざったような淡い金髪を無造作に束ね、長い前髪の奥で灰青色の瞳が光る。外見は繊細だが、指先には魔導具職人特有の傷と煤がついていた。
「……変人って紹介はやめてほしいな、ドラン医官」
「事実だ」
「まぁ、いいや。よろしく、リオ」
白衣の裾を片手で払いながら、彼は興味深げにリオを見た。
「君が異国の医者ってやつか。面白そうな話をしてるね」
軽く眉をひそめながらも、その声にはどこか楽しげな響きがあった。
そのときには、まだ誰も知らなかった。王都全域に、
***
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