後章 赤い十字と白の塔 12

 階段を降りる私たちは、足音だけを響かせていた。ぴったりとあった歩調は、一つの存在のように重なっている。

 ディックはあれから一言も発さず、顔面と地面を水平にしたまま、自動人形のように歩いている。もしかしたら私が掴んだのは彼の肉体で、精神はあの時落下していたのではなかろうか、と不安になってくる。

 そうでなくとも、私は他人の自死を止めた。ディックの意思と決断を蹂躙した。

 こうして階段を降りているのは、彼の本意なのか。本当は私を恨んでいて、復讐の機会を伺ってはいまいか。囚人のように歩く彼の表情を伺おうと覗き込むが、あまりに深くこうべを垂れており、髪の毛が帳となって叶わない。

 登るのにあれほど決断を強いられた塔を、ものの三分で降り切ると、静けさに包まれるフロントを歩いた。その時、ディックが初めて口を開いた。

「もう少し、ここにいてもいい?」

 私は、瞬天井に目をやってヒビの数を確認するが、肉眼ではよくわからなかったので、そうしよう、と返す。

 ディックは、形を維持している長椅子の一つに腰を下ろす。

 その途端に、椅子の底が抜けてディックは白い砂塵をまといながら尻餅をついた。ゴン、と音が聞こえ、臀部を直にぶつける痛みを想い、私はこっそり尻を押さえた。

 人類過去遺産は接触厳禁で、ゆっくり座る場所もなかった。塔が私たちをさっさと退くように急かしているみたいである。

 仕方がないから、どう見ても椅子ではない、一番頑丈そうなドーナツ型の花壇のようなものの縁に二人して腰を下ろす。

 しばらく座っているだけの時間が過ぎる。

 私は、どんな言葉をかけようか、どんな会話で現実を蘇生させようかと、あたふたしていた。

 口火を切ったのはディックだった。

「どうして旧人類には〈年齢とともに外見が変わっていく〉機能が備わっていたんだろう」

「そもそもだが〈年齢とともに外見が変わっていく〉のは、本当に先天的な性質と言い切れるか?」

 私が訊くと、ディックは返した。

「旧人類は、その叡智で〈年齢とともに外見が変わっていく〉機能を付与したってこと?」

「時計粒体を発明したみたいに」

「もし理論科学研究所の後続が今も都市に巣食っているなら、発明したのは彼らかも」

「陰謀説か。誰か〈年齢とともに外見が変わっていく〉機能をくれないかな、僕に」

 そう言って、ディックは軽く笑った。相変わらず作りっぽい笑いだったが、無理に繕っているようでもなかった。

 グッと何かが軋む音がする。気のせいかと上を向くと、目に痛みが走った。塵埃か何か入ったのだろう。必死に目をぱちくりしたり、こすったりするけれど、痛みは後を引いた。

「っていうかさ」

「なんだ?」

「君らは正常だったわけじゃん。〈年齢とともに外見が変わっていく〉のは、奇ビョウでもゼットでもなくて、正常なことだった」

「ああ」

「だったら、新しい呼び方が要ると思わないかい。〈年齢とともに外見が変わっていく〉っていうんじゃ、長すぎて伝わらないよ」

 ディックの声が少しずつ、熱を取り戻してくる。

「そうかな」

「絶対そうさ。僕たちは……世界の仕組みを再定義する必要があるんだ。そして僕と君は、その最初の見届け人だ。だから、新たな名前をつける権利があるんだ」

 別にゼットのままでいいと思うけどな、という言葉が喉の麓まで出かかったが、それを押しとどめて、

「先人が使っていた言葉は」

 と言うと、ディックはそうだよね、と言って真剣に悩み始めた。

 門の外に覗く空は、日も落ち始めて蒼らんでいる。いつ崩れるかわからないこの建物の中に残るのも怖い。私は提案を迫られる。

「だったら、あそこに描かれていた文字は?」

 ディックは、両手をパチンと合わせて言った。それだ!

 私はホームでのローイングという呼称と、都市内でのゼットという蔑称、どちらも有している語だから、バランスもいい……そんなことを考えて、それは利己的で邪悪な考えだと改める。私はどちらの世界にも向き合ってこなかった。世界の均衡を語る資格などない。

「なんて読むんだっけ」

「〈ロウジン〉だ」

 背嚢からボトルを出して、二人してぐっと流し込んだ。互いに飲む速さを横目で確認し、合図なんてなかったのに、競争しているようだった。

「いずれ、資源の回収にまた来よう」

 ディックが言った。その際は、ヘルメットとか命綱とか、そういう探索物資も忘れずに。

 麻布が剥がれていた。その亡骸から、不思議と異臭は消えていた。私は近寄って、顔つきをもう一度見る。どうしてこんなにも、穏やかなのか。

「ホームでは、どんな葬儀を」

 私はディックにそう訊いた。

 都市では、肉体の一片までが都市の所有物だった。私たちは貸し出された肉体で何不自由なく生きていた。だから葬儀なんてものはなかった。私は葬儀という言葉を知るのは、『葬儀をしてくれ』という要望を聞くことがあったからだ。

「火葬だよ」

 私は周囲を見回して、

「炉に代用できるものがない。土葬するしかない」

 と言った。

「土葬を禁じる掟などはあるか?」

 ディックは首を横に振った。

「手伝ってくれるか」

 今度は、首を縦に振った。

 私たちは鎌と鉈を両手に持ち、土を掻き分けた。人一人がおさまる穴を適した機材なしに作るのは、かなりの重労働だった。手に血豆ができ、爪が剥がれそうになったが、月が昇る頃には完成した。

 ランタンの灯りだけを頼りに、私は彼女を土の中に寝かせ、麻布を上からかぶせた。土が顔に直接触れるのは忍びない。

 手を合わせる。

 書き出した土を再びかぶせる。

「ありがとう」

 そう言うと、ディックはこれくらいはさせてよ、と言う。

 夜が満ちる。

 行きは塔が目印になったが、帰りはそうもいかない。コンパスを照らしながら、南を目指して真っ暗な木々を歩かねばならない。

 ホームに到着したのは、夜が極まる時間帯だった。にもかかわらず、光が見えた。立ち上る煙を伴って。

「また祭りか?」

 今日はその予定なかったと思う、とディックが言った。

 私たちにとって光は絶好に目印になった。航空機の誘導灯のように、速やかにホームへと導いた。

 広場の薪に、人々が集まっている。何人かの人間が、炎に向かって叫んだり、手を合わせたりしている。

 何かの儀式だろうか。

 ディックは、儀式に参加していない一人を捕まえて訊いた。

「これはどういうことだい」

 その女性は悲しげな顔をしたあと、話すために感情を押し殺して、

「実は、村長が……」

 女性に連れられるがまま、ホームで一番大きな館に足を運ぶ。そこは少なく見積もっても三十畳ほどあって、床面積だけ見ても小屋の三、四倍の大きさはあった。

「村長は、普段はここには住んでいないんだ。ここは十年前に作られた共用の遊び場。希望の館だよ」

「希望?」

「うん。未来を想定して造ったんだ。入居者同士が子供を作り、その子供がホームに増えていく希望に満ちた未来」

 今でこそ、私はその考えをまっとうなものとして捉えられる。だからこそ、この大きな館に村長が一人きりで横たわっている様が哀しかった。

「村長、ディックです」

 女性がそう耳打ちすると、敷布団の上に寝そべった村長が、普段の穏やかな表情を崩しつつ、懸命に目を開けた。

「あなたがいない間に、麦引き場で倒れました。呼吸が苦しいようなので、寝かせて、頭を湿布で冷やしましたが……」

「ありがとう、十分だよ」

「でも」

「大丈夫、村長と僕はずっと話してきたから」

 そう言って女性を退去させる。

 風が吹くような呼吸音だけが残る。

「ごめんなさい、倒れた時にいられなくて」

 村長は、いいんだよ、と掠れた声で語る。遅かれ早かれ、こうなることはわかっていた、と。

「悪いのか?」

 私が訊くとディックは、

「どこも」

「でも、こんなに苦しんでいるだろう」

 村長は咳き込みながら瞼を重そうにもたげ、枕を高くして仰向けになっている。肌の表面は乾いていて、脂汗や冷や汗をかいている様子はない。

「これが正しいんだよ」

 ディックが言った。

「ロウジンはこうして命を終えるのさ」

 村長は一瞬眉をひそめた後、まだ、とほとんど聞こえないぐらいの声で言った。

「七十六歳、誕生日、祝って、もらわないと」

 絞り出すと、大きな咳を二、三度吐いた。唾の飛沫が上がって、一瞬、頭上に虹ができた。

「じゃあ、準備はしておくよ」

 横向きになった村長の背中を優しくさすりながら、ディックが微笑んだ。

「何かほしいものは?」

 ディックが訊くが、彼はわずかに首を振るばかりである。

「村長。実は僕、塔に行ってきたんです」

 私はぎょっとした。ディックがホームの人間に、塔のことを話すとは思っていなかった。

「やっと」

「はい、やっとです」

「どこ」

「最上階まで行きました」

「なに」

「いえ、なにも」

 村長は眉を寄せて眉間にしわを作ろうとしたのだろうが、目が細まっただけだった。それでも彼の意思は伝わってくる。

 ディックは、村長にだけは全てを話していたようだ。

「でも、この『病』の本当の名前がわかりました」

「なんと」

「ロウジンです。ケンと一緒に、」ディックは私の方へ目をやって、「見つけました」誇らしげにそう言った。

 村長は微笑んだ。病名、いや、正式な名前ですらない識別名を聞いて、何を喜ぶことがあろうか。

 そう考えていると足音がして、振り返るとジーナが靴を履き替えているところだった。

 ジーナは私を見るや否や目つきを鋭くし、警戒する態度を匂わせ始める。無理もない。

 ジーナは近寄ってきて、言った。

「もう外に出るのよ。これ以上話させるわけにはいかないわ」

 それを受けディックは、そうだねわかった、と言ってすくっと立ち上がった。

「俺はここに残ります」

「何を言ってるの? これ以上ばかな行動はよして」

「俺は追悼官、死に添い遂げるのが仕事です」

 ジーナが私の肩を掴もうとする寸前に、私は素早く正座を作り、両手と頭を床につけて言った。

「お願いします」

 それでもジーナには足りなかった。ジーナの手が今度こそ腕を捕まんというその時に。

「かれと」

 村長が、肺を震わせて声を絞り出すように言った。

「はなしたい」

 それを噛みしめるように聞いていたジーナは、引きさがった。

 ディックも去り、ジーナも去り、二人きりになっててしばらく、待っった。

 そして私の肉体の戸を、死が叩いた。入れてくれと囁いた。

 それを拒んだ。私は私を維持した。

 まず、彼の手を握る。弱々しく、しかし確かに刻まれるリズムを指先で感ずる。次に話をした。ほとんどは私が話した。会話というにはあまりに一方的だった。けれど、話をした。

 時に黙り、沈黙を感じた。正座する膝がしびれ始めただとか、風が髪を持ち上げて耳をくすぐっているだとか、弱っていく息遣いの位置だとかを、全身を通して拾い上げた。

 私という生があり、彼という死があった。

 握られた手は盟約であり、私は彼の従者であり友だった。一瞬だけの関係かもしれないが、私は彼の声ならぬ声を聞いた。繰り返し、繰り返し、聞いた。

 とっくに日が登っていた。

 いつからか握りしめる村長の手は、ある瞬間をもって生命の脈動を失っていた。

 追悼。

 私は山肌から現れる明日に見守られながら、手を合わせる。自身の命の脈動を噛みしめる。

 死が歩き去っていくのを、追うことのないまま。

 良いじかんがありますように。

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