後章 赤い十字と白の塔 9
いくつもの低い塀があって、塀に囲まれたところに赤茶の土が溜まっていた。それは先ほどまで踏んできた土とは土質が違うようだった。大きな石台があって、人間の両足らしき像がその上に張り付いていた。足首から上は、どこかへ行ってしまったらしい。
足場は随分としっかりしてきて、小さないくつもの幾何学的図形を描いた地面が連なっていたが、無数のヒビが侵食していて、その隙間を埋めるように苔がびっしりと生している。
塔は、入り口らしき幅広の門があって、その奥で瓦礫が積み上がっているのが見えた。正面から入ろうとした私をディックが止めて、側面へ回ってみようと言った。
我々はまず東にまわった。
塔の正面は、ホームから見える面であって、北向きの面であった。それが塔の正面であろうと考える理由は、東向きにはなかった赤い十字が北向きについているからである。
そのまま回り込んでいき、南向きの壁を見上げるが、やはり十字はない。加えて南向きの壁には、植物との同化が激しく、崩れた山肌がそのままもたれかかっていようになっていて、それ以上進めない。また山肌にはうねりながら上下に降りる幅十メートルほどの溝が見えたため、川が流れていたのだとわかった。きっと雨が多く降った時のみ現れる川で、その流れに牽引されて土砂が壁との隙間に積もっていったのだ。
もう一度正面に戻って、西側の壁に向かおうとしたその時だった。人工的な地面がちょうどむき出しの大地と入れ替わった時、奇妙な匂いが鼻をまたいだ。
「なんだろう、この匂いは」
ディックは鼻をくんくんさせて言った。それから動きがゆっくりになり、足運びも慎重になった。私はとくに気にならなかったが、なんとなくディックの後ろに控えて彼の歩速に同調させる。
「肉が焼ける匂い、だろうか」
私が言うと、ディックはうなずいた。彼の目はせわしなく動く。
塀に囲われた低木が仕切りのように生えていて、迂回していくと、西側の壁が見えてくる――はずだった。
しかし壁はどこにも見えなかった。西側にあったのは、大きな空洞だった。
思わず私たちは塔を、いや、建造物を見上げる。
「これは建物の一部、だったのか」
西側に壁はなく、箱状の内部がむき出しになっていた。代わりに、北側と南側の壁面が、大きく削り取られていた。それは何か大きな力によって破壊された断面だった。
「驚いた。この建物は、西向きにもっと続いていたんだ」
壁面の削れ具合は階によって異なり、三階と六階の壁面が突出して西向きに突き出している。そして西向きに視線を伸ばすと、この建物と同じような規模の跡地が確認できた。
やはりその跡地まで届く太く深い亀裂が地面を走り抜けているので、亀裂が建物の崩壊に関係していることは間違いなかった。
ディックは、連絡通路のようなものがあったんだ、と言った。かつてはあったかもしれないが、今崩れてしまったのなら興味はない、という立場の私に対して、ディックは、何がともあれ謎が一つ解けて心底嬉しそうなのであった。
改めて視線を下ろす。
積まれた木と藁の燃えかすから、赤黒い火が吹き上がっているのが見えた。長く太い針金のようなものが何本か刺さっていて、その先に何かが突き刺さっている。目を凝らす。小さなモルモットのような生き物が、皮を剥かれて串に刺され、丸焼きにされていた。
「誰がこんなものを……」
ディックはしゃがみこむと、注意深く周囲を観察し始めた。
岩陰に手を突っ込んで、中に押し込められていた麻の袋を引っ張り出してくる。そして躊躇なく袋の結びを開いた。
「ネズミ捕り用の罠がいっぱいある。自分で作ったんだろうね。剃刀と、鋏、どちらも錆びていて使い物にはならない。それと……紙の本がいくつかある。あとは、なんだろう、これ。綺麗な小袋だ」
その時である。
足音が近づく。とても俊敏だ。高速で近づく。そうかと思えば、足音は急に止む。
野生動物の類だろうか真っ先にそう考えた自分の楽観さを恥じる。
私たちは身構えた。
低木が少し揺れる。
ディックと目で合図を取ろうとした。しかし彼は音の原因を視界におさめることに夢中だった。
私は姿勢を低くとった。
次の瞬間。木と木の隙間に差し込まれた細長い何かが、ぐっと空間を押し広げ、その隙間から化け物が飛び出してきた。
「ああしおおぐもといおめああ」
意味のわからない言葉を叫び、両手に持った錆びた長い鉈を、私めがけて躊躇なく振り下ろす。
「あんああちおえいあ!」
その化け物は、今までで出会ったどの化け物よりも醜悪で、憎悪に満ちていた。萎れたナスのようなものが、両胸からぶら下がっていて、ボロ切れのような布を腰に巻いているがそれも黒ずみ、擦り切れて紐のようになっていた。白と黒の中間色の頭髪が逆立って、動物園で見る獣のようだった。
化け物は虚空を見るような目で、私たちをきつく睨んだ。
この世のものとは思えない激臭が襲い来て、私は袖で鼻が折れるほど押さえつけた。
「なんだ、こいつ!」
「わからない。でも、ローイング患者だとは思うよ」
ディックが冷静に答える気持ちが、私にはわからなかった。
化け物は意味不明の言葉を発し、鉈を振り上げた。
私がとっさに見たのは、ディックの背嚢だった。草むらを抜けるために持ってきた鎌の柄が隙間から飛び出している。私はそれを思い切り引き抜き、鉈の軌道の間にねじ込んだ。
刃物を引き抜いたせいで、ディックの背嚢の生地は破れ、中身が飛び散った。怯えたディックは荷物を捨て、私の背後に回り込む。
化け物は叫びながら鉈を振り回した。私は一定の距離を保ちながら後退したが、何度か鉈が鎌にぶつかるたびに、突き刺すような金属音と錆び臭い匂いが撒き散らされる。
化け物はひときわ大振りに鉈を振り上げた。
が、そこで動作がピタリと止まる。
「どうしたんだろう?」
私の袖を掴みながら、ディックが言う。
化け物は腕を脱力させると、鉈を大事に抱えたまま薪の方へ向かって、何かボソボソと呟きながら歩き始めた。
「徘徊とも違う。攻撃性。おそらく、体はとても丈夫なんだ。前職はアスリートかもしれない。ただ脳が……」
化け物が大股十歩ぶん歩き去ったところで、やっと私から離れたディックは、哀しそうに言った。
「ゆっくり病の末路だね」
「どういう症状なんだ?」
「あれは、〈認遅症(にんちしょう)〉と言うんだ。考える速度がゆっくりになってしまう。とてもゆっくりに。ああなったローイングはホームにさえいられない。自分が自分であることさえ、忘れてしまっているからね」
「見覚えがある……」
本当かい、それはいつどこで? とディックが興味深そうに訊く。
「今から二十六年ほど前のことだ」
僕は魚の解剖にはまっていた時分だよ、とディックが言う。
二十六年前。思えばあの時から始まっていた。未来で出会う全ての破滅と、私は年の少ない段階で接触を果たしていたのだ。
なんてことだ。
私の二十六年間は、私の追悼官としての人生は、こんなひどい結末のためにあったなんて!
私は火元に戻り丸木を椅子にしてネズミの死骸の串に手を掛けようとしている化け物を、呪いを込めて睨んだ。
「彼女が食事に気を取られているうちに、行こう」
ディックが言った。あれは『食事』をしている『彼女』などではない。
しかし今は、道を急ぐべきだった。
化け物はネズミの匂いを嗅いだあと、串を元の位置に戻す。
理性とほんのわずかな希望が、私を歩かせる。
足取りは慎重に、化け物の気に障らないように。
化け物が袋に手を伸ばした。何かを取り出すようだ。心なしか、生気を失った二つの目が、私を見ている気もする。
関係ない。銃でも出てこない限り、この握りしめた鎌一本さえあれば、やつの攻撃はしのげる。私は覚悟を決めた。目的を達するためには、もはや化け物の首を落とすことも厭わない。
化け物が取り出した何かを手の上に置き、覗き見ている。
それは紫色の小袋だった。
その間にも、私は薪の真横を通り過ぎる。
振り返る必要などない。化け物に興味を持つ必要など、一切ない、そのはずだった。
しかし偶然か、あるいは運命か、ともかく何か大きな力が働いて私は首を回していた。
化け物は紫色の袋から、くすんで色のはっきりしない、しかし確かに銀色の光沢の面影を残す、小さな懐中時計を取り出していた。
「げんきいしとうか」
バネの劣化か、懐中時計の蓋は自ずと開く。
「げんきいしとうか」
写真。
現像された、物質と化した画像。
それは子供がセイジンするまでの文化。子が無事セイジンした暁には、懐かしむことを許される。時間が育んだ果実そのもの。
色あせているが、わかる。三人と一匹の家族の写真。肉付きの良い女性と、痩せた男。さえない顔の少年と、右目の周りに大きな白い斑点を持った犬。
「げんきいしとうか」
鎌が地面の亀裂に突き刺さった。ディックが足を止め、振り返る。どうしたの、と優しい声。
そんなことがありえるのか。
私はしゃがみこんで、その女性の手からそっと時計を取り上げた。
時計の針は零時零分で止まっていて、小枠の数字も、すべて零を数えるのみだった。
その女性は、私から時計を取り返そうと腕をよこした。やせ細って関節が棘のように突き出ていた。しかし腕が時計に届くことはなかった。先ほどの攻撃性とはうってかわって、女性は赤子のように大人しく私の手首をそっと掴む。
写真をもう一度確認する。劣化が甚だしい。劣化は多分、記憶にさえ及んでいる。
けれど女性は私の手首を掴んだまま離さない。
ディックが私と彼女を、不思議そうに見つめている。
女性は、私の顔の真下に、頭を押し込もうとする。色素の抜けた白い目が、影に飲まれて闇に沈んでいる。それなのに目は、私の表情を追い続けている。
私は女性を抱き上げた。
軽かった。中身が空洞になってしまったかのように。
けれど女性は満足げに微笑んで、私を見つめた。陽日が二人の表情を克明に照らしあげる。
「げんきそおうえよかあたなぁ」
と囁き、これまでにない至福の表情を浮かべる。
直後、すぐに首をかくりと折り、全身を脱力させる。
二本の鉈が、地面に落ちてカランカランと鳴った。
職業柄、そこに起こったものが死だとわかった。人生時計が定めた時間は、終わっていた。それなのに彼女は生きていた。まるで何かの目的を果たすため生きる亡霊のように。
私はしばらくそのまま、彼女の背中を手で支えながら、野営用に持ってきた麻布を二枚出し、一枚はヒビの少ない整った地面に敷き、一枚は胸部から全身が隠れるようにかけてやる。
あまりに粗末で胸が痛む。が、こうするほかに、ない。
「追悼を……」
私はそう言って、メッキの剥がれた人生時計を握りしめた。
「時計台の下で生まれたもうた命が今、大いなる時間への帰路につきました」
言葉を紡ぐことが、苦しかった。
悲しみと虚しさ、怒り、それらが混ざり合って私を犯している。
「じかんが稲穂を育て刈り取らせた。じかんが乾かし米にした。じかんが熱を加え飯にした。じかんが口から入り体になった。時間に育てられた我々は、」
何とかそこまで述べた。震える死神に威厳など皆無だ。
私は今境界線を逸脱し、生と死の両方を背負っている。
「時間へと還る。安らかに」
ディックは悩ましげな表情で問いかけた。
「それはもしかして、君の……」
「もういいんだ」
私はディックの口を封じねばならなかった。そうせねば、正しく呼吸することができなかった。
追悼が終わってもしばらく、私は手を合わせて目を閉じている。
一つだけわかったことがある。
私の追悼官としての人生に、意味はちゃんとあった。
そそり立つ塔を見上げ、穏やかな午後の時が過ぎる。
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